新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の1:禮堂文義が保存していた「感謝状」「嘱託状」・・・。
◇感謝状と嘱託状
禮堂文義(文次郎)名の感謝状や委嘱状が何枚か残されている。それらの書類を最初に見たのは幼少の頃だったが、子供心に「祖父はこんなこともしたのか」と思い、祖父文次郎の性格や集落での立ち位置が理解出来た様な気がした。祖父が実直で間違いのない人間と評価されていたことは疑う余地がないだろう。
◇国勢調査「感謝状」
写真は昭和5年(1930)10月に実施された国勢調査に関わった折の感謝状である。文面には「本年十月施行ノ国勢調査ニ関シ克ク尽力セラレタリ茲ニ感謝ノ意ヲ表ス 昭和五年十二月二十日 内閣統計局長従四位勲三等長谷川赳夫」とある。国勢調査は大正9年(1920)に第1回を実施したのち5年ごとに実施されているので、文次郎が国勢調査員を務めたのは第3回国勢調査ということになる(因みに、直近の令和2年調査は第21回目)。
国勢調査とは、統計法(平成19年、法律第53号)に基づき「日本国内の外国籍を含むすべての人及び世帯」を対象に実施する、わが国の最も重要な基幹統計調査である。本法は個人情報保護法の適応外とされ、調査拒否や虚偽報告に対する罰則規定も定められている。このため、国勢調査員は総務大臣の任命による非常勤国家公務員と位置づけられている。このような国勢調査だが簡単に実施が決まったわけでなく、開始までには紆余曲折があったようだ。制度設定までの流れを追ってみよう。
(1)明治治28年(1895)日清戦争が終わった同年9月に国際統計協会から日本政府に対し「1900年世界人口センサス」への参加要請があった。これを契機に制度設定の機運が高まった。明治の初めにも、「沼津政表」「原政表」(明治2年)、「甲斐国現在人別調」(明治12年)など地方版調査が行われたが、全国レベルでの調査は実施されていなかった。
(2)明治35年(1902)「国勢調査ニ関スル法律」が公布され、明治38年の実施を予定したが、日露戦争のため実施は見送られた。
(3)大正4年(1915)第一次世界大戦の影響で実施が見送られた。
(4)大正9年(1920)第1回国勢調査実施。
国勢調査開始から100年が経過した。近年は国勢調査の未回収率が高まっているのだと言う。例えば、平成12年(2000)1.7%、平成17年(2005)4.4%、平成22年(2010)8.8%、平成27年(2015)13.1%と増加傾向にある。直近の令和2年(2020)の最終結果はまだ公表されていないが、郵送とインターネットによる回答数が前回より上昇しているので、未回収率は5~10%に留まるのではないかと推察される。未回収増加の大きな原因はプライバシーに対する意識変化であろう。
文次郎の孫の私も町内会役員時に国勢調査員を務めた経験があるが(昭和60年芽室町、平成17年恵庭市)、当時は調査票を各戸に配布し改修する手順になっていた。神経を使う大変な業務だった印象がある。郵送及びインターネット回答が可能になったことは個人情報保護の観点からも一歩前進だろう。
◇小麦増殖実行委員「委嘱状」、片倉製糸蚕種製造実行班長「嘱託状」
写真は「静岡県小麦増殖実行委員ヲ嘱託ス 昭和七年十月十日」と表記された嘱託状と「坂戸分場土屋文次郎 右者実行班長ヲ嘱託ス 昭和八年四月壱日 片倉製糸紡績株式会社沼津蚕種製造所」と書かれた嘱託状である。
小麦については、食糧増産の掛け声のもと国内生産が推し進められていた時期である。農林省は「主要食糧農産物改良増殖奨励事業」を行い、優良品種普及のために種子増殖事業を全国で展開していた。昭和7年(1932)に89万トンだった小麦生産は、8年後の昭和15年(1940)には180万トンに達している。第二次世界大戦後も全国で約150万トンの生産を維持していたが、昭和30年(1955)関税貿易一般協定(GATT)に加盟後は貿易自由化によって輸入が増え国内生産は減少の一途を辿った(昭和51年、22万トン)。
写真は「静岡県小麦増殖実行委員ヲ嘱託ス 昭和七年十月十日」と表記された嘱託状と「坂戸分場土屋文次郎 右者実行班長ヲ嘱託ス 昭和八年四月壱日 片倉製糸紡績株式会社沼津蚕種製造所」と書かれた嘱託状である。
一方、養蚕も歴史の荒波にもまれた。幼少時の記憶には養蚕風景が鮮明に残っている。養蚕に使う部屋の消毒、種卵の配布、繭の集荷など製糸会社の技術者が巡回していたが彼らは片倉製糸沼津蚕種製造所の人間だったのだろうか。裏の畑にも桑が栽培されていた。葉を摘むために指にはめる刃のついた便利な道具があることを知った。大人のマネをして使ってみたが、子供の柔らかい指には危険だと体感したのもこの頃である。わが家では10年以上養蚕を行っていたが、戦後は生糸の需要が減少し集落から養蚕は消えて行った。
片倉製糸紡績株式会社は、明治期から大正期にかけての日本の主力輸出品であった絹糸の製造を行い、片倉財閥を構築した老舗企業である。かつて操業していた富岡工場(富岡製糸場)が日本の工業近代化の貴重な遺産として世界文化遺産(富岡製糸場と絹産業遺産群)に登録されている(2005年、富岡工場の土地・建物を富岡市に寄贈した)。第二次大戦後は化学繊維の普及が進んだため、平成6年(1994)に伝統事業である蚕糸事業から撤退し他部門へシフトした。
一枚の古い資料に歴史が蘇り、想像が広がる。