特急「踊り子号」が終点伊豆急下田駅に近づく頃、左前方に寝姿山が見えてくる。「山の稜線が、仰向けに寝ている女性のシルエットに似ていることから寝姿山と呼ぶ」と、子供の頃バスガイドさんから聞いた。「あの尖った岩山が鼻、あの山頂が胸、それに続くふくよかな稜線が腹部か・・・」と造形の妙に感心した記憶が蘇る。
この寝姿山は時代とともに変貌を見せてきた。昭和36年(1961)伊豆急行が開通し、下田が第二の黒船到来とばかりホテルなど観光施設の建設ラッシュとなると、寝姿山にも「下田城美術館」「下田武山荘」「ロープウェイ」等が建設され景観は大きく変貌した。しかし、その後の社会情勢・経済状況の変化に伴い美術館が休館、下田武山荘は閉館し、今その姿を見ることは出来ない。
武山荘の名前を聞いた時、寝姿山を武山とも呼ぶこともあるのかと子供心に漠然と納得したことを思い出す。
平成30年(2018)8月の或る日、久しぶりにロープウェイを利用して寝姿山に上った。展望台、幕末見張り所(復元)から下田港を見下ろし、見晴台から景観を満喫、石割楠を写真に収め自然公園の草花を鑑賞、愛染堂まで足を延ばした。
頂上からの眺めはまさに絶景。下田港への船の出入りだけでなく広く眺望できる。武山の南面は市街地から峻険に立ち上がっているので、頂上で狼煙を焚けばすぐ分かる。軍の要諦として見張り所が置かれた理由も納得できる。そして今、この山は市民や観光客が自然を満喫する舞台である。
◇ 下田の栞「武山及武ヶ濵」
大正3年(1914)に編纂された「下田の栞」に「武山及武ヶ濵」の紹介がある。仮名遣いをそのまま以下に引用する。
「・・・武山及武ヶ濵 町の東方、下田橋の對岸、山巖の聳立するもの之なり、今柿崎村に属す、高さ四百尺、山頂(石窟あり)の巖頭に立てば、遥に駿州富士の扁影を認むべく、下瞰すれば下田港内は勿論、下田市街、柿崎、稲生澤河域一帯の平蕪を望むべし、更に眸を轉ずれば、須崎高臺の彼方、渺茫たる蒼海の中に、大島、新島等豆南の列島、青螺點々東南に向ふて波間に浮び、右方遥かに神子元の燈臺を眺むべし、幕末黒船渡来の際、此山巓に見張所を設け、狼烟をあげ、白旗を立てゝ警戒をなせり、近く日露の役、浦鹽艦隊の来りて近海に出没するや、復こゝに見張りを置けり。
武山権現社(祭神多郁富許都久和気命)は、もと南方の中腹にあり、同社縁起文によれば、下田領主朝比奈恵明の創建にかゝり、其後下田奉行今村傳四郎正長大に尊宗し、社殿を修築せりと云ふ、此邉、當時は下田町に属したれば、捍海塘紀功碑もこゝに建てたるなるべし、権現社は銅瓦葺にして壮麗のものなりしも、今廃せられて遺祉僅に存するのみ、山麓に稲生山満蔵院(修験宗、今天台宗に属し、もと大浦よりこゝに移る)ありて、其社務を司りしより、武山一に満蔵山(今或ひは萬象に作る)と云ふ。
武山下、柿崎街道の右側、道下に見ゆる石造の給水場は、武ヶ濵清水と稱し、殆全下田町に亘りて飲料水を給する所なり。
山の南方、港内に面する所、巖石磊々たるは、ワリグリ石を採れる跡にして、石材は皆江戸に積出し、品川の舊六砲臺及新砲臺の基礎を築くに持ゐたるものなり。
武峰の東南麓を武ヶ濵と稱し、防波堤に沿へる小丘上に松樹の叢生する外、一帯の砂濵にして、時は激浪岸を噛む事あるも、概ね細波静い渚を洗へり、若し夫れ暖國の夜の海趣を知らんとする者あらば、試しに防波堤上に立って、太平洋上星の如き神子元の燈影を眺め、港内點々たるマストランプの影を数へ、微かに消え行く夢の如き櫓歌櫂聲を聞け、玉兎高く須崎半島の高臺に懸かり、漣波月に砕くる所、顧望すれば、四遍の山川是悉く史上の遺跡、英雄逝いて山河空しく、遊子をして低佪断腸去る能はざらしむるものあらん、實に豆南絶勝の一なり。」(引用:下田の栞)。
「南伊豆絶勝の一つ」と景観を讃えている点が印象的である。また、武山の名前の由来、黒船来航の時に見張り所を置いたこと、武山権現社の由来、給水所・石切り場があったことなどが同文から伺える。
武山の名前は権現社に祀られた多郁富許都久和気命(たけほこつくわのみこと)に由来すると言う。この神社は下田領主朝比奈恵明の創建で下田奉行今村傳四郎正長も信奉していたが、大正4年(1915)の下田大火で延焼。現在は三島神社(下田市柿崎、この神社には吉田松陰像がある)に合祀されている。
◇ 伊豆の民話と伝説「武山と役行者」
昭和50年(1975)に刊行された「下田市の民話と伝説第一集」に、「武山と役行者」の伝説が掲載されているので以下に引用する。
「・・・武山と役行者 武山は旧下田町の東方下田橋の対岸にどっしりと聳え立っている。下田八景の一つで、この山に登れば北は起伏重畳する天城の連峰、その上にぽっかりとぬきんでた富士の麗峰を望み、東は稲取ケ崎から西は石廊岬まで一望にすることが出来る。また眼下には須崎の鼻の彼方遥か水平線上に絵のような伊豆七島が点在する。この眺望の壮大と雄偉なことはまこと南豆第一と称せられるわけである。
幕末、黒船来航の時にはこの山頂に見張所を設け、白旗を立て狼烟をあげて警戒したという。
多郁富許都久和気命(たけほこつくわのみこと)を祭った武山権現は、南方の中腹にあり、鋼瓦葦の壮麗なもので、下田奉行今村伝四郎正令が深く尊崇し、社殿を修造したと伝えられている。その後いつか廃されてただ僅かにその址が残っていたが、大正四年町の大火の際この山にも飛火して、あとかたもなく焼失してしまった。武山の名はこの多郁富許都久和気命の神名から出たものであるが、山麓に、稲生山萬蔵院(修験宗、今は天台宗)があって武山神社を支配しておったので一名萬蔵山(まんぞうやま)ともいわれている。修験宗萬蔵院といえばこの山には役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角)の遺跡がある。
昔、舒明天皇の六年大和葛城郡茅原に生れた役の小角は十六才にしてすでに生駒熊野の両山に攣じ長じて天智天皇の四年三十二才の時には、葛城山に登り、爾来三十年穴居して修道苦行、常に草衣木食、孔雀明王の神咒を誦して奇異の験術を得た。その後、金峰、大峰二上、高野、牛滝、神峰、本山、箕面等の諸高山を踏開し、近畿一帯の大嶽で小角の足跡を印さない所はなかったが、たまたま文武天皇の三年六十六才の時讒せられて伊豆に島流しされた。 今、武山に遣っている洞窟はその頃小角の住んでいたもので洞窟の前には寛政十一年に建てられた「高祖神変大菩薩」の碑と千三百年遠忌に建てられた「役行者」の碑がある。小角は光格天皇の寛政十一年千百年遠忌にあたって「神変大菩薩」の諡号(しごう)を贈られたのである。その後、文武天皇の大宝元年六十八才のとき赦されて京都に帰り、後、九州に遊んで豊前彦山を踏開したがそれから先は明らかでない。尚富士登攀はこの小角によって先鞭をつけられたものであるという。
今は武山の「役行者」の住んでいた洞窟も石碑も、又小角の腰掛岩もすべてもとの位置のまま「下田武山荘」の庭園内に存置されている。武山は本郷門脇方面から見ると美人が仰向けに寝たようにも見えることから、寝姿山とも臥美人山とも呼ばれ、今はロープウェイによって三分足らずで頂上の眺めを満喫することもできるし、高根山方面に遊歩道もできている。」(引用:下田市の民話と伝説第1集)
本項の前半分は先に述べた「下田の栞」の記述とほぼ同じであるが、後半は稲生山萬蔵院(修験宗、後に天台宗)と役行者「小角」について書かれている。「小角」は全国各地の山に登攀し修行しているが、伊豆に流されてからは武山の洞窟に住み修行を重ねた。「小角」が住んでいた洞窟や腰掛岩も全てもとの位置のまま「下田武山荘」の庭園内に存置されていると記されている。
下田武山荘があった場所は、下田市街から東伊豆道路(国道135号)に沿って新下田橋(人魚橋)を渡り武山に突き当たった処で、道路の左側、現在駐車場となっている辺りである。
◇ 寝姿山と武山(萬蔵山)
子供の頃、寝姿山と武山の区別がつかなかった。どうなっているのか気になって国土地理院地図二万五千分の一図を見ると、寝姿山の名前のみ記載され武山の名前はない。寝姿山の山頂標識は(標高196m)は通称寝姿山の胸部にあたる辺りとなっている。武山の表記はないものの、先に述べた「下田の栞」等の記述から判断すると寝姿山の頭部にあたる部分(山塊)が武山ということになろうか。山塊の最高地点(179m)は寝姿山の鼻の辺りで電波塔が立っている。また、寝姿山の北東方向で腹部にあたる辺りには三角点の表記がある(標高199.7m、別の地図では女郎山)があり、その北側は高根山(343.4m、三角点、電波塔)へと続いている。通称寝姿山(或いは武山)と一括して呼ぶが、地形的には武山、寝姿山、女郎山の集合体と言うことなのだろう。
寝姿山といつから呼ぶようになったか分からない。江戸末期に記された「ヒュースケン日本日記」には「物見山」とあり、大正3年(1914)刊行の下田の栞に寝姿山の言葉が出てこないことから推察すると、それ以降の呼称ということになろう。筆者が最初に耳にしたのは昭和20年(1945)から30年(1955)頃、東海自動車のバスガイドの説明であった。誰が名付けたのだろうか・・・。
この寝姿山も下田を代表する山と言えよう。
参照 (1)下田己酉倶楽部発行「下田の栞」大正3年、(2)下田市教育委員会「下田市の民話と伝説」第1集昭和50年、(3)青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」2011年