豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

井上壽著,加藤公夫編「依田勉三と晩成社」に思う

2012-04-12 15:00:53 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

井上壽著,加藤公夫編「依田勉三と晩成社」(北海道出版企画センター,20123月)が発刊された。井上さんは,この本の発刊を待たずに逝去されたと伺った。

著者とは,十勝農業試験場で働いていたころ宿舎が近くにあったこともあり,勉三の話しを折りにつれ伺うことがあった。

 

晩成社は開拓に成功したと言えないのではないか

 

帯広で十勝開拓の祖,拓聖と祭り上げられた「依田勉三」に違和感を覚えているような口振りであった。当時,井上さんはまだ現役の専門技術員(病害虫)で,郷土史家と呼ばれるようになる前のことであった。退職後の井上さんは,多くの資料を集め,独自の史観を折に触れ発表してきた。

 

本書の「はじめに」で,著者は次のように述べている。

「・・・狭い面積の山間部で,貧困にあえぐ農民や士族を大量に移住させ,農畜産物の生産を上げ,晩成社に投資した人たちに,利益を配当しようとした理想的なものであった。・・・ところが結果的には,晩成社に応募した小作人が逃げだしたり,いろいろな事業が順調にいかず,ほとんどの計画は失敗に終わってしまった。人の意見を受け入れることが少なかった依田勉三の資質によるものといわれる。結局,故郷で投資した人々に配当することもできず,借金だけが残ってしまった。このような依田勉三を,十勝では,何故か「十勝開拓の祖」「農聖」「拓聖」などと,後世,尊敬されることになった。・・・事実の粉飾や美化した記述で埋め尽くすというのではなく,事実は事実として依田勉三の本当の姿を探り,残しておきたいというのがねらいである・・・」と。

 

本書では,晩成社の歩みを時系列で追い,検証を進めるとともに,依田勉三と晩成社に対する様々な評価について論じている。正直なところ,いろいろな見方があるものだと思う反面,まだまだ研究課題が残されていると感じた次第。

 

井上さんは,幾つかの箇所を指して,きっとこう言うだろう。

伊豆出身のお前がみて,この内容をどう理解する?

例えば,

 

1.事業失敗を補うための北海道開拓?

「遠山房吉(芽室村,衆議院議員)によると,・・・依田勉三の兄,依田佐二平が,信州人,小松徹の勧めによって数々の事業を経営し失敗したにもかかわらず,その失敗を補うため,小松徹発案による北海道開発に依田勉三がのってしまった・・・とあるが」

 

「十勝開拓目的の側面を知る由もないが,依田家の当主が多くの事業を試みたのは事実。養蚕,イグサ,造船など。失敗もあり,成功したものもある。僻村にあって豪農とされる依田家の当主が,地域の振興を図る努力をするのは至極当然のことだろう」

 

2.晩成社移住社員の資質?

「依田勉三,渡辺勝,鈴木銃太郎など幹部には,高い理想があったが,参加した社員は南伊豆の生活に窮した小農であった。開拓などと言う高い理想はなかった」

 

「当然のことだろう。遠い北海道に渡って苦労しようとするのは,南伊豆の地で食って行けない貧農か,一攫千金の夢を抱いた人々であったのは想像に難くない。海外への開拓移民の例をみても,大陸から引き揚げて生活困窮家族であったり,閉山炭鉱の労働者であったり,多くは一攫千金の夢は持ってはいたが富裕な農民ではなかった。農業移民との制約はあったが農業経験のなかった者まで含まれ,病気になり開墾を断念せざるを得ない人々も出ている。日本政府の支援が長く続いた南米でさえ,定着率は3050%。晩成社の場合も,社員に土地を与え,自立させるべきだったのではないか」

 

3.少年が含まれ戸主となっているが?

12歳の山田喜平が戸主として,参加している」

 

「当時の戸籍では,両親が死亡した場合,幼少であっても長男あるいは長女が戸籍筆頭者(戸主)になるのは普通のことであった。筆者の祖母も9才にして戸主となり,18才で婚姻したとき,はじめて祖父が戸籍筆頭者になっている。幼少にして労働力に数えられた時代である。山田喜平を社員の頭数を増やすために加えたとの解釈は,単純すぎないか」

 

4.勉三は伊豆で決して良く言われていない?

1980年,松崎町から教育委員会職員と教員の一行が,視察調査にやってきた。若い先生が・・・地元では,依田勉三さんは,決して良くは言われておりません。帯広でこのように尊敬されていることは意外・・・と語っていた」

 

「依田勉三の名前を知る人は,伊豆では少ないのではないか。私も高校時代まで伊豆に暮らしていたが,教育に熱心な依田佐二平翁が豆陽学校を創立し,大沢に依田家があるという程度の知識に過ぎなかった。今でこそ,松崎町が三聖人として,土屋三余,依田佐二平,依田勉三を称え,旅行者もこの地を訪れるが,住民の意識は低い。下田から来た引率教諭が・・・勉三の評判は伊豆では良くない・・・と言ったというが,本当にそう述べたのだろうか。私の感覚で敢えて言えば,帯広ほど勉三の知名度はない,と語ったに過ぎないのではないか」

 

5.南伊豆町教育委員会から返事がない

「勉三に同行した農家は南伊豆町出身者であるが,12年して帰国している。事情を知りたいので,郷土史を研究している先生を紹介してほしいと依頼したが,返事がない(1980)。この町では,勉三の評価は良くないのではないか」

 

「当時,北海道開拓に疲れ果て戻った姿をみれば,晩成社の事業を良く思わなかったこともあり得よう。しかし,問い合わせをした1980年と言えば当時から数えて100年。知る人も,語る人もいないというのが本当のところではないか」

 

往々にして,歴史認識は偏りやすい。井上壽の「晩成社」研究は,十勝農業の発展過程における依田勉三の役割を,客観的に検証し,正しく評価しようとした点が特徴である。一石が投じられた

 

Img_3902web(写真は松崎町「花の三聖苑」にて)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする