南米における大豆栽培の歴史は比較的新しい。19世紀末から20世紀初頭にかけて導入試験が試みられたが,商業作物として定着したのは1940年代以降(第二次世界大戦以降)のことである。その後,1970年代の価格高騰を契機として大豆栽培は南米各地で爆発的に拡大し,1990年以降さらに飛躍的な伸びをみせた。その結果,ブラジル,アルゼンチン,パラグアイに代表される南米の大豆生産量は,2007年には世界の過半を超えるまでになった。
ブラジル
1882年バイア州農学校の教師Gustavo D’Utraが数品種を導入試作したのが最初の記録である。その後,1892年サンパウロ州カンピーナス農業研究所,1900年リオグランデ農学校,1914年リオグランデ・ド・スル州ポルトアレグレ農科大学等で試験が行われた。バイア州は低緯度(南緯12度)のため大豆栽培には適さなかったが,南部のリオグランデ・ド・スル州(南緯30度)では気象条件が似ているアメリカ合衆国南部の品種が試作され良い成績を示した。
一方,日系移住者も大豆の導入に関わっている。1908年に日本人コーヒー農園労働者が移住第1船でサントス港へ入港したのを初めとし,1940年までに約19万人の日本人がブラジルへ移住し,サンパウロ州やパラナ州北部へ定住した。彼らは持参した大豆を栽培し,味噌,醤油,豆腐など大豆食品を作り始めたのである。
一方,日系移住者も大豆の導入に関わっている。1908年に日本人コーヒー農園労働者が移住第1船でサントス港へ入港したのを初めとし,1940年までに約19万人の日本人がブラジルへ移住し,サンパウロ州やパラナ州北部へ定住した。彼らは持参した大豆を栽培し,味噌,醤油,豆腐など大豆食品を作り始めたのである。
当初大豆は,リオグランデ・ド・スル州に限定された地域作物,あるいは日系移住者の庭先に植えられた作物に過ぎなかったが,1950年小麦の輪作作物としてマメ科作物の大豆が選ばれ,大々的なキャンペーンが張られたことから栽培は拡大し,大豆生産は経済的にも安定した。また,第二次世界大戦がもたらした食糧不足は大豆食品に注目させ,1960年代に入ると製油工場の設立,豆乳の製品化が進んだ。1940年代後半1万トンに過ぎなかった大豆生産量は,1969年には100万トンを超えている。
南部3州が中心であった大豆生産は,1960年のブラジリア遷都および1970年代に始まる中西部に広がるサバンナ地帯(セラード)開発にともなって爆発的に拡大し,1974年に生産量は中国を抜き世界第2位になった。セラード地帯の開発には日伯セラード農業開発協力事業が大きな役割を果たしている。また,1973年にブラジル農業研究公社(Embrapa)が創設され,同公社の大豆研究所は低緯度に適する品種開発,病害抵抗性品種開発,病害虫防除,肥料・根粒,輪作と不耕起栽培技術の研究を加速させた。
大豆育種については,1936年頃カンピーナス農業研究所(IAC)などで開始された。当初はアメリカ合衆国等からの導入品種について選抜試験が進められ,Santa Rosa,Missões,Sulinaなどいくつかの品種が選出された。Santa Rosaはリオグランデ・ド・スル州で主要品種となった。1958年IACが冬季に実施した飼料用品種試験で日長感受性の低い品種が見つかり,同国北部における大豆栽培の道が開かれた。その後,低緯度地帯への適応性を求めて育種が進められた結果Cristarinaが開発され,本品種は今日ブラジル中央部に普及する多くの品種の基礎となっている。宮坂四郎博士ら日系技術者の貢献が大きい。
アルゼンチン
大豆が最初に導入されたのは1862年であったが,当地に適応するものではなかった。1909年にはいくつかの農学校で試作が始まり,1910年代にはパンパ地帯のコルドバ農業試験場や北部のツクマン農業試験場で試作が続けられた。1940年代にはブラジルに接するアルゼンチン北部のミシオネス州で栽培がみられた。
ブエノスアイレス州にあるペルガミノ農業試験場は,パンパ地帯への大豆導入を目的に海外から導入した96品種の比較試験を実施し(1956年から3年間),アメリカ合衆国から導入のLeeが良好な成績を示したと報告している。さらに,1960年からは国内各地で品種比較試験を実施するとともに,展示圃の設置,栽培技術情報の提供,大豆女王の選出など大豆生産に対する啓蒙普及が進められた。この頃,多収穫コンテストでは無肥料栽培で2.8t/haを記録している。当時の栽培技術は,品種も含めほとんどがアメリカ合衆国からの導入に依存していた。
大豆生産は1960年代後半以降増加し続け,1970年代半ばには世界第4位の生産国になったが,栽培されていたのはBragg, Davis, Halesoy71, Hoodなど導入品種であった。また,同国は牛肉の消費大国であるため大豆の食品化や食品研究は進まず,ヨーロッパへの輸出作物として位置づけられていた。
1970年代後半になって国立農業研究所(INTA)は,日本からの技術協力(JICA)を得ながら本格的な育種をスタートさせ,1983年には交雑育種による同国最初の品種Carcaraña INTAを開発した。
パラグアイ
1921年医師Pedro N. Ciancinoがヨーロッパ留学の帰国時に持ち帰り,栄養学的見地から栽培を試みたのが大豆導入の最初とされるが,栽培定着の記録はない。一方,1936年に日本からの移住が開始され,日系人は開墾した焼畑に持参した種子を播き,味噌,醤油,豆腐,納豆などの食品用として大豆栽培を始めた。1946年の第1回農業センサスによれば163トンの生産量があり,1962年には3,500トンへと増加した。
1970年代に入るとトラクタやコンバインなど機械化が進み,大豆価格の高騰も生産増加に拍車をかけ,日系入植地以外へも栽培は拡大した。また,1980年代には不耕起栽培が導入され,生産量は急激に増加した。同国の大豆生産量は1991年に100万トン,1999年に300万トンを超え,2008年には400万トンに達しようとしている。大豆の輸出額は同国総輸出額の40%を超え,今やパラグアイ経済を支える重要な作物となっている。
栽培の開始から商業作物としての定着,不耕起栽培技術の率先導入など,日系人は同国の大豆生産をリードしてきた。1979年から地域農業研究センター(CRIA)で開始された日本の技術協力(JICA)も,研究環境の整備と育種研究の推進に大きな貢献をした。
その他の国
ウルグアイ,ボリビアでも1970年代から大豆生産が始まった。中でもボリビアは,1990年代に栽培拡大が進み,1998年に生産量が100万トンを超えた。2009年の生産量はサトウキビに次いで第2位(150万トン),生産額は牛肉に次いで第2位(4億ドル)に達し,同国の重要品目になった。ここでも,オキナワ,サンファン日系移住地の方々の力が大きい。また,ボリビア,チリ,ペルーなどでは栄養改善の見地から大豆の利用が注目されてきた。
南米大豆,生産拡大の要因は何だろう?
世界の大豆生産量は年々増加し,FAOSTAT(2009)によれば22,318万トンに達した。国別にみると,1位アメリカ9,142万トン,2位ブラジル5,735万トン,3位アルゼンチン3,099万トン,そして4位中国1,498万トン,5位インド1,005万トン,6位パラグアイ386万トン,7位カナダ350万トン,8位ボリビア150万トンと続く。この中で,南米各国の生産量増加が近年著しく,全世界の大豆生産量に占めるシェアは2002年にアメリカを超え,2007年には51%(2009年には42%)に達している。因みに日本は20~25万トン。
南米における生産量増加の要因は何だろう? ①価格の優位性に対応できた,②耕作地拡大が可能で強い国際競争力を有する,③新品種や不耕起栽培など技術向上,④遺伝子組み換え品種の普及,⑤中国への輸出増加などが指摘される。特にブラジルの場合は1970年代に開始されたセラード開発に負うところが大きい。不毛の地とされてきたブラジル中央高原のサバンナ地帯は大豆の主産地となった。また,アルゼンチンでは先駆けて遺伝子組換え品種を普及したことが生産拡大の要因として大きく,同国では最近10年間で非農業用地560万haが大豆生産地に転換したといわれる。
南米で生産される大豆および大豆油は大部分が輸出用で,輸出先は当初ヨーロッパ諸国が主体であったが,2000年代に入ると中国が第一の輸出先になった。最近の中国における輸入拡大が,南米の大豆生産意欲を高めたといっても過言ではない。
参照:土屋武彦2010「南米におけるダイズ育種の現状と展望」大豆のすべて(分担執筆)サイエンスフォーラムを一部加筆,詳しくは本書をご覧下さい。
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