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恵庭の歴史びと-4 「山森丹宮」

2023-08-08 10:43:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「漁の赤ひげ先生」と慕われた医師

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。

今回は医師山森丹宮(たみや)、山口県からの集団入植が始まった恵庭開拓の時代に中山久蔵らに請われて漁村に移住し、恵庭村創始期に徳を以て医療に当った恵庭最初の医師(村医)である。山森医師は恵庭開拓の現場に立ち村人の多くの命を救い、「漁村の赤ひげ先生」と称されるほど絶大な信頼を得ていた。

山森丹宮は医術の他に、私立洞門小学校(恵庭小学校)、大安寺、巡査駐在所、盤尻用水組合の設立などに尽力、恵庭村発展に大きく貢献している。この時代の先人たち(例えば、中山久蔵、山森丹宮)に見られるのは「無私の心、公への奉仕」。彼らから何と学ぶべき点の多いことか。

(写真は「千歳・恵庭・広島三村名鑑録」から引用)

◆山森丹宮略歴1847-1923

(1)山森丹宮は、弘化4年(1847)越前国今立郡神明村(現、福井県鯖江市)で生まれる。父は医業を営む山森斉宮、幼名を利太郎と言った。少年時代から父に漢書を学び、17歳になると京に出て広瀬玄恭(筆者注、三村名鑑録では皇漢医学研究とあるが、京都で蘭学塾「時習堂」を開き、蘭方医院を開業していた蘭方医と思われる)に医術を学ぶ。24歳で福井藩の福井医学校入学、27歳で同学全科を卒業し医術開業免状を授与され、名前を丹宮と改め父祖の医業を継ぐ。

(2)医術の道で北海道開拓に貢献しようと夢を馳せた山森丹宮は、明治19年(1886)40歳のとき来道、北海道庁の嘱託検疫医員として官立勇払病院医員に任命される。翌年には中山久蔵・新保鉄蔵に請われて無医村であった漁村に移住。その後、村医として献身的に活動する。

(3)開拓地の医療は万端多忙を極め、医師一人では診察に応じきれない状況であったと言う。近隣は歩いて往診するが、遠方には部落の人が迎えに来た農耕馬に専用の鞍をつけ出かけていた。また、小学校が開設されると校医を嘱託されている。村医を20数年勤めた後、65歳の時(明治44年)茂漁に医院を開業。

(4)骨身を惜しまず医療に取り組んだ山森医師は、村の発展にも大きな貢献をしている。明治20年には山森医師ら14戸の寄付で私立洞門小学校を建設、巡査駐在所の敷地を寄付、明治24年には盤尻用水組合を作り約36町歩の開田を成功させた。また、明治39年には恵庭村第一回村会議員選挙が施行され選出される。当選した10名の議員の中で、山森丹宮一人だけ鼻下に髭をたくわえ、洋服姿で写真に写っている。

(5)大正12年(1923)村民たちに惜しまれて大往生を遂げる。享年77歳。大安寺境内に当寺の開創「月海良光大和尚の碑」と並んで、山森丹宮の墓碑「大安開基 大安寺殿釈医高徳春嶺禅定門」(山森嘉人建立、父丹宮、母田都、茲に眠ると刻まれている)が建っている。

(6)なお、山森医院の後を継いで僻地医療に取り組んだのは、丹宮の娘寿満の夫となる菊地政之医師(北大帝国大学医学部卒)であった。菊地政之は昭和7年菊地内科医院を開業。当時、看護婦として働いていた松浦キエさんは「菊地先生は金銭に拘らない方でしたね。その病気に必要な薬と思うと、どんな高価な薬でも使ってしまうのです。患者さんが貧しくて、払えそうになくとも平気です。医は仁術を地で行った先生でした。奥さんがやりくりに大変なようでしたよ・・・」と語っている(引用、国府田稔「赤ひげ親子物語」百年100話)。国府田は山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」になぞらえ、「恵庭にも二人の“赤ひげ先生”がいたのである」と山森丹宮・菊地政之を称えている。

(写真左:盤尻用水記念碑、右:大安寺境内の墓碑)

 

<資料1> 北岡善作「千歳・恵庭・広島三村名鑑録」1935

三村名鑑録、山森丹宮翁の写真に添えられた紹介文を引用する。

「医師 故山森丹宮翁 恵庭村大字漁村 故翁は福井県の産にして安政元年父に従い皇漢学の研究を始める。文久3年京都府下広瀬玄恭に従い皇漢医学研究をなす。明治3年福井県医学校入学、同6年卒業、旧敦賀県より医術開業免状授与。明治17年内務省より医術開業免状授与される。同19年北海道庁検疫医員嘱託、同年勇払公立病院医員任命、同21年勇払郡役所より千歳郡漁・島松両村村医任命、同33年恵庭・松園・島松小学校校医を嘱託された。恵庭村を千歳村より分村するについては、その中心となって尽力された。その他、村事に対しては忘れる事の出来ない功労者。翁は恵庭村公益功労者として恵庭村より数回の表彰を受けられ、氏の人徳を知るべき也(筆者注、旧仮名遣いを改め)。

<資料2> 国府田稔「赤ひげ親子物語」百年100話(恵庭昭和史研究会)1997

国府田稔は、父親山森丹宮の思い出を語る娘寿満の言葉を紹介している。

「父は薬代の催促もしない人でしてね。村医で、生活する分はきちっと貰っているのだから、困っている人からお金を頂くつもりはないって言うんです。ですから村の人たちは山森医院の前で、手を合わせて通り過ぎる人もいて、子供の心に父の仕事の大切さを感じたものです」

「父が茶の間にいるときは、なぜか近寄れない感じがしましたね。でも患者さんには優しくて、結構冗談なんか言って笑わせてました。患者さんが大きな声で怒鳴られたこともあるんです。そんな時は自分の不注意で病気に罹った人だったようです・・・」

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