豆の育種のマメな話

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何故,「手亡」と呼ぶのか? インゲンマメ銘柄呼称の由来考

2015-12-21 15:40:55 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

:本稿は未定稿である(2015.12.21,写真は日本マメ類基金協会「豆類の品種」228p)

 

京都「楽天堂」豆料理クラブのウエブに,埼玉サン・スマイルMT氏の投稿文「手亡(白いんげん)豆のドラマ」が掲載されている(この情報は,平成25年の暮れに市内の田中さんから,高知の竹田先生発信の情報として頂いた)。

興味を覚えたのは,「インゲンマメ(手亡類)が何故「手亡」と呼ばれるようになったのか」と語る,島根の某土木会社社長の話である。先ずは,その部分を紹介しよう。

「その手亡豆は私の曾爺さんの兄弟で,島田是一と言う人が日露戦争で負傷して片腕をなくし,引きあげて来るときに持ってきた豆で,片腕が無いと言うことで皆が手亡豆と呼んだんじゃ。確か,大手亡と小手亡と聞いておる」「そして,わしゃ(島田家)もともと土佐じゃけん,その島田是一が坂本竜馬のゆかりの人と北海道に屯田兵として入植してその豆を植えてみたところが,北海道にとても合うのでその豆を広めたと爺さんから聞いている」

「手亡」の呼称由来は何処にあるのか。「手竹を必要としないから手亡と呼ぶ」という説が通説になっているが,「手無」でなく「手亡」とするのも腑に落ちない。何故なら,明治から大正時代に栽培された「手無長鶉」(大正3年優良品種),「黒手無」(Gylinder Black Wax,大正3年優良品種)と言う品種があり,昭和初期には「手無中長鶉」(昭和14年優良品種),「手無鶴金時」(昭和11年優良品種)が栽培されていた。また,エンドウでも明治から大正時代に「札幌青手無」(札幌農学校から種子を導入し明治38年優良品種決定),「丸手無」(Gladuator,札幌農学校が導入,大正4年優良品種)があり,昭和には「札幌青手無1号」(昭和7年優良品種)と「改良青手無」(昭和33年優良品種)が栽培されていたように,「蔓(手)が出ない,手竹を必要としない」特性を「手無」と表現していた事例が多いからである。

また,同じインゲンマメの銘柄には「金時」「白金時」「長鶉」「中長鶉」「大福」「虎豆」等があり,これ等は子実の色や形状から呼称が発生したと想像されるのに,「手亡」呼称は何故に子実形状でなく草姿に由来するのか。銘柄は流通する子実を基に分類するのが便利であるのに,何故「手亡」だけ違うのか,このことも疑問を増幅させる。

何故,白色・小粒のインゲンマメを「手亡」と呼ぶようになったのか? 先の情報(島田是一説)を検証することにした。

1.島田是一は屯田兵だった?

屯田兵制は北海道の警備と開拓を目的に制定され,24年間(明治8~32年)で延べ7,337名が北海道各地37兵村に入植した。家族を合わせると約4万人が北海道開拓に尽力したことになる。制度の発足から解隊までの経緯は,概略次のとおりである。

明治6年(1873)11月:北海道開拓次官の黒田清隆は太政官に屯田兵制を建議

明治7年(1874):太政官屯田兵例則を定める

明治8年(1875)5月:琴似兵村入地を最初に入植を開始

明治32年(1899):剣淵,士別の入植を最後に,新たな入植を終了

明治33~37年(1900-04):後備役に編入,または解隊によって屯田兵制を終了

ところで,島田是一は屯田兵だったか?

北海道屯田倶楽部「屯田兵名簿」(tonden.org.)には,入村地ごとに屯田兵氏名,入植年,出身地が整理されているので,島田是一の名前が掲載されているか調べた。この中で高知県出身者は129戸641人存在するが「島田姓」は見当たらない。また,屯田兵名簿に記載される「島田姓」の人物は9名(島田錦太,島田内蔵太,島田利吉,島田与三松,島田蘇蔵,島田吉太郎,島田六三郎,嶋田小太郎,嶋田熊治)に過ぎず,新潟,香川,福井,熊本,石川,宮城県の出身者である。

また,広谷喜十郎「高知県出身屯田兵の名簿」(土佐史談191号,p141-146,高知県立図書館内土佐史談会,平成5年)でも確認したが,島田姓は見当たらない。

更に,負傷して片腕を無くしているのに屯田兵というのは,屯田兵制度からみても無理がある。「島田是一」は屯田兵ではなかったと言えるだろう。

2.日露戦争で負傷した島田是一が屯田兵として入植した?

日露戦争は明治37年(1904)2月8日旅順口攻撃で始まった。大日本帝国とロシア帝国が朝鮮半島,満州南部,日本海の覇権を争った戦争で,明治38年(1905)9月5日ポーツマス条約調印で 終結している。

先に記したように,屯田兵の入植は明治32年(1899)に終了しているので,日露戦争で負傷した島田是一が屯田兵として入植することはありえない。

では,日露戦争でなく日清戦争と言うことはあり得るか? 日清戦争は,朝鮮の支配権をめぐって日本と清国の間で起こった戦争で,明治27年(1894)7月~明治28年(1895)3月のことである。日清戦争であれば時系列として成り立つが,前述のように屯田兵名簿に島田是一の名前はない。因みに,「島田姓」の入植年は明治9年(1876)5月~明治27年(1894)5月で,日清戦争以前と言うことになる。明治28年(1895)以降に屯田兵となった高知県出身者は22名いるが,「島田姓」の人物は実在しない。

3.坂本竜馬ゆかりの人と北海道に入植した?

屯田兵でないとすれば,「島田家はもともと土佐じゃけん,坂本竜馬ゆかりの人と北海道に入植」の言葉がヒントになる。土佐(高知県)と北海道開拓の繋がりは,坂本竜馬の蝦夷開拓論に始まり,以下の史実に代表される。

(1)坂本竜馬の蝦夷地開拓論

坂本竜馬は慶応3年(1867)3月同志印藤聿宛ての手紙で,「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より,新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間,何卒一人でなりともやり付申しべくと存居申し候・・・」と書いている。大政奉還で武士が職を失うことを予想して,その力を北海道開拓に活かすことを考えていたのである(いわゆる,竜馬の蝦夷開拓論)。この構想は後に,西郷隆盛,黒田清隆らによって屯田兵制度として実現する。

(2)高知藩の千歳郡開拓

明治2年(1869)北海道開拓使によって諸藩分治の勅が出されると,土佐藩(高知藩)は千歳,勇払,夕張郡支配を出願し,岸本円蔵・北代忠吉らの調査を経て,千歳郡下で開拓に取り組んだ。明治2年(1869)10月北海道開拓志望者を募集,明治3年(1870)5月には役員十数人と大工・人足・農夫など約60名が入植したが,明治4年(1871)7月の廃藩置県により治領を開拓使に返還することになり,入植者は全員高知に引き上げた。

因みに,高知藩開拓団は食糧や農具・家具一式を持ち込み,1年間で千歳・イザリブト(現・恵庭市)・シュママップ(現・恵庭市島松)に7町8畝余を開いた。穀類や野菜の種子も持参し栽培を試みたと考えられるが,「蕎麦」「水稲」以外の記録は見つからない。坂本竜馬の意志を反映するように,高知藩は北海道開拓に熱意を持って取り組み5万両もの大金を支出したが,開拓はこの地で結実しなかった。

この開拓事業は明治初期であること,入植者全員が高知に戻ったことを考えると,島田是一との接点は考えられない。

(3)浦臼「聖園農場」と北見「北光社」

島田是一が接点を持ち得たとすれば,高知の北海道開拓として知られる浦臼の「聖園農場」と北見の「北光社」ではあるまいか。前者は,明治26年(1893)高知の自由民権運動家でキリスト教徒の武市安哉(当時国会議員)に率いられて入植した団体である。後者は,明治28年(1895)坂本竜馬の甥「坂本直寛」(旧名,高松南海男)等が中心になって設立した合資会社(移民団体)で,明治30年(1897)5月に第一次入植者が北見の訓子府原野に入植している。この両団体は,キリスト教精神に基づく理想主義的農村共同体を目指していた。なお,坂本直寛は北見を1年ほどで切り上げ,明治30年(1897)浦臼の聖園農場に移った。因みに,山岳画家で知られる坂本直行(直寛の孫)も十勝の広尾に居住したが,島田是一の時代より後のことである。

4.浦臼「聖園農場」に島田是一は入植した?

土佐の自由民権運動で活躍していた武市安哉(県議,代議士)は,キリスト教主義による理想農村を目指して,明治25年(1892)に北海道移住を決意,明治26年(1893)7月樺戸郡浦臼(現,浦臼町)に入植し聖園農場(武市農場と呼ばれた)を拓いた。同年,第一次移住として31名(青年たち先発隊,前田駒次もいた)が浦臼に入り,翌年には第二次移住200名,第三次400名が計画された。入植者の名簿は確認できないが,第一次入植者としては武市安哉(農場長)・前田駒次(補佐)・平井寅太郎(書記)・野口芳太郎等の他に,長野開鑿・和田吉弥・長野徳馬・和田佐吉・石丸左右次・崎山久吉・佐藤精郎・畑山達三郎・水田菊太郎・北村宗信らの名前を,第二次移住者としては門田善弥・田岡森蔵・吉村吉太郎・前田千代松・田岡寅太郎・大坪一道・岡貞吉・谷悔浪らの名前を「浦臼町百年史」に見出すことが出来る。

聖園農場では,入植2年目には教会を建設して児童の教育とキリスト教を精神的な支えとした開拓を推進した。当地は石狩川の氾濫に見舞われることも度々あり,その後に多くの人々が美深や佐呂間,ブラジルなど他地域に再移住するなど,武市安哉のフロンテイア・スピリットは広がりを見せている。

武市安哉は明治28年(1895)青函連絡船上で急死。前田駒次,平井虎太郎,野口芳太郎ら指導者が北見「北光社」に移ったこともあり,武市安哉の後は娘婿の土居勝郎が継ぎ「土居農場」として継続する。その後も移住者を迎え開拓は進んだが,団体移住は第三次で打ち切られ以後は単独入植であったようだ。明治30年(1897)には坂本直寛一家が北見から浦臼に移住している。土居農場は明治42年(1909)に北海道拓殖銀行に譲渡し,団体としての終わりを迎えた。因みに,現存する「聖園農場」は昭和37年(1962)有限会社として設立されたもので,当時の規模・内容とは異なるが,「聖園教会」ともども名前を残している。

また,「浦臼町百年史」(平成12年,編集委員会)によれば,栽培作物としてイナキビ,ハダカムギ,ジャガイモ,ナタネ,アズキ,ソバ,カボチャ,イネ,トウモロコシの名前は出て来るが,インゲンマメの記載はない。

島田是一が日露戦争(明治37~38)後に浦臼へ入植したと考えるのは,年次から見ても難しい。また,日清戦争(明治27~28)後と想定しても,団体移住でなく単独入植であった可能性を残すのみである。浦臼「聖園農場」関連で,未だ島田是一の名前及び「島田」姓を見出すに至っていない。

5.北見「北光社」に島田是一は入植した?

北見「北光社」は,キリスト教徒,土佐の自由民権思想家,活動家でであった片岡健吉,坂本直寛(竜馬の甥)等によって設立された合資会社で,高知県下から移住者を募りクンネップ原野(現,北見周辺)の開拓を目指した移住団体である。初代社長は坂本直寛であったが実務は副社長の澤本楠弥が仕切り,翌年坂本直寛が浦臼へ転出後は浦臼から移住した前田駒次が会社を支えた。大正3年(1914)に黒田四郎に譲渡され「黒田農場」となり,「北光社」は幕を閉じた。

第一次入植は112戸650人,明治30年(1897)3月3日に高知市浦戸港を出港し,5月8日に入地している。更に,明治31年(1898)には55戸(後に35戸逃亡),明治32年(1899)には54戸(後に38戸逃亡)が入植し,明治36年(1903)6月25日野付牛村外一か村調べでは,北光社移住総数は221戸とされる(同年の網走支庁殖民課調べでは219戸)。なお,明治36年(1903)段階で定着戸数は72戸,逃亡戸数147戸とある(網走支庁殖民課調べ)。

「北見市史」(昭和56年,編纂委員会)には,北見市の礎を築いた「北光社」について222ページに及ぶ詳細な記載がある。入植者についても,かなりの氏名が明らかになっているので,島田是一の名前を探ってみよう。

(1)明治30年(1897)移住民手荷物控

明治30年(1897)浦戸・須崎両港から乗船した移住団の戸主または代表者の名簿(手荷物控,先発隊12名を除く)に100名の氏名が記載されているが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(2)初期入植者班別一覧表(池田七郎聞き取り調査)

明治30年(1897)入植者66名,明治31年(1898)入植者26名,明治32年(1899)入植者3名,明治33年(1900)入植者4名,班不明者27名,その後の調査で明治30年入植者中出身地が判明したもの25名,計151戸(名)の記載があるが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(3)明治35年(1902)独立小作人名簿

明治35年(1902)の記録として,23名(北光社以外よりの者7名を含む)の独立小作人名簿があるが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(4)黒田農場以前に土地譲渡を受けた「譲渡一覧」

譲渡一覧表には27名の氏名と地番・面積が記されている。27名(北光社出身者13名,屯田兵出身者8名)の中に,「島田」姓は見当たらない。

(5)黒田農場への移譲に当り北光社が譲渡を受けた「社員所有地北光社譲渡許可証」

6名の氏名と譲渡年月日,反別が記載されている。6名の中に「島田」姓は見当たらない。

(6)上常呂農場自作農創成調書

14名の氏名が記載されているが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(7)黒田農場分場者一覧表

資金貸付規程による黒田農場の分場者一覧には,北光社40名,豊地34名,川向30名,上常呂13名,居呂武士11名,計128名の氏名が記載されているが,この中に「島田」姓は見当たらない。

また,昭和20年(1945)現在の定住者として,「北光社以来の定住者」21名(戸),「黒田農場買収以来の居住者」10名(戸)の氏名が記載されているが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(8)「開拓記念碑」に刻まれた移住開拓者

昭和2年(1897),開拓記念碑が小学校庭の一角に建立された。碑文には「明治三十年五月高知県人百戸荊莉地ヲ覆ヒ森林天を遮り徒に熊羆咆哮ノ地ニ移住シ・・・部落将来ノ基礎ヲ確固ナラシメタルハ歴然タリ・・・」とある。碑台には明治30年(1897)以来の在住植民者48名の名が刻まれている。この中に「島田」姓は見当たらない。

北見「北光社」関連で,未だ島田是一の名前及び「島田」姓を見出すに至っていない。しかし,島田是一が日露戦争後に入植したとの説を可能にするのは,年次から見て「北光社」から独立した小作農を頼って入植したとの考えが成り立つ。北見と十勝は当時から交流があり,豆の産地であることから,「手亡」の名前が北見に入ってきたとしても今のところ否定できない。

なお,北見市総務部市史編さん室に「北光社関係の入植者に島田姓の人はいないか」お尋ねしたところ,各種関係資料を調べ関係者にも確認して頂いたが「島田姓の人物は見当たらない」,との懇切な回答を頂いた(平成27年9月28日私信)。

.土佐(高知県)における「手亡」

島田是一が日露戦争で負傷して引き上げる際に持ってきた豆を「手亡豆」と呼ぶようになったと言うのであれば,土佐(高知県)に「手亡豆」栽培の記録が残っていないだろうか。片腕を亡くした人物を「手亡」と呼ぶような風習があったのだろうか。元高知大学農学部教授で豆類に詳しい前田和美博士に次の点を伺った。

①高知県ではインゲンマメの栽培が古くからあったと思いますが,「手亡」の名称初見はいつ頃でしょうか。北海道で「手亡」と称される以前に,高知で使われていた事例を確認できるでしょうか。

②高知県で,片腕をなくした人物を「手亡の誰某」と呼ぶようなことが(間接的にでも),明治の時代ではありますが,あり得たでしょうか。

前田先生からは懇切丁寧なご意見を頂いた。一部を引用させて頂く。

「・・・土佐の民俗や伝統食の専門家たちとの打ち合わせでも,「手亡」というインゲンマメの品種名と高知との関係の話は出ませんでした。手元の高知県の園芸沿革史関係にも,大正~昭和初期の「菜豆」品種には,「蔓無黒三度」「白三度」「エバーグリーン」「スーパーラチーフ」「ケンタッキー・ワンダー」などの名前は出ていますが,「手亡」はありません。また,「高知県方言辞典」(土居重俊・浜田数義編,昭和60年,高知市文化振興事業団刊)には,「てぼー:手ぶら」としか出ていません。「手亡」については,「手なし=不具者」という差別につながる,漢字書きにせず,「てぼう」と書くのが良いのではいうことを聞いた記憶があり調べてみたところ,新村出編纂「辭苑」(昭和10年初版,博文館,昭和18年第353版)に,「てなし(手無)①手のない不具者。てんぼう」とあります。なお,新村出著「広辞苑」(第6版,岩波書店2008年刊)には,「てなし(手無し)①手がないこと。また,その人」と出ています。そして,「てぼう(手棒)②⇒てんぼう」とあり,「てんぼう(手棒)」には「(テボウの擬音化)指や手首のない人をいやしめて言う語」とあります。「手亡」はありません・・・」(平成27年9月10日私信)。

高知における「手亡」の記録は見出せなかった。この件に関して,佐藤久泰博士からも「手亡」の生態からして西日本(高知)での栽培は無理ではないかとの意見を頂いた(平成27年9月13日私信)。

7.「てぼう」の表記,「手棒」「手亡」「手芒」

前田和美博士のご指摘にあるように,辞書に「手棒」の表記はあるが,「手亡」は無い。指や手首のない人をいやしめて言うのに「てんぼう」(手棒)と使った事例として,野口英世博士の逸話が思い出される。「手棒」なら成る程と思えなくもないが,それでは何故「手棒豆」でなく「手亡豆」だったのか。インゲンマメの育種家でもあった 元十勝農業試験場長後木利三氏からも,「教科書に載っているような情報(手竹を必要としない由来)しか聞いたことは無い。手亡の漢字にとらわれず,テボウとすると何かあるかも?」とご示唆を頂いた(昭和27年9月10日私信)。

ところで,山本正氏は「近世蝦夷地農作物誌」(北海道大学出版会,2006)の中で,「手芒」の表記を使っている(同書119p. 「インゲンマメ事始め」)が,その根拠は分からない。

8.北海道における最初の「手亡」(インゲンマメ)品種

視点を変えて,農事試験場(農業試験場)における品種育成の面から「手亡」呼称の出自を考えてみよう。

明治2年(1869)北海道に開拓使が置かれ,明治9年(1876)札幌農学校が開校すると,官園及び札幌農学校において農作物に関する試験が開始された。その後,明治19年(1886)に開拓使が廃止されて北海道庁が発足すると,農業に関する試験は農作試験場(農事試作場)が中心になって進めることになった。明治34年(1901)には試験研究組織が北海道農事試験場として整備され,北海道に適する優良品種を登録し普及奨励するシステムが出来上がった。

インゲンマメの手亡類では,「大手亡」(昭和2,1927)が最初の優良品種として登録されている。本品種の来歴は,十勝地方で栽培されていた「新白(しんじろ)」を大正12年(1923)大正村(現,帯広市)から取り寄せ,北海道農事試験場十勝支場高丘地試験地で品種試験に供し,特性を明らかにしたものとされる(北海道農事試験場「協議要録,自明38~至大14」)。決定時の品種名は「新白」であったが,その年の品種解説では「大手亡」となっており,俗に「新白」と称すとある(北海道農事試験場1927「主要農作物優良品種の解説」北農試彙報46,63-70)

何故,品種名「新白」を「大手亡」と替えたのか。推察するに,在来種を収集した時点では「新白」であったが,優良品種決定の頃には「大手亡」の呼称が一般的だったのではあるまいか。このことからも,「手亡」種は大正時代には十勝地方で栽培されており,大正末には「手亡」の呼称が定着したと考えられる。しかし,「手亡」呼称の由来(何故,手亡と呼ぶようになったか)を明らかにするものではない。

因みに,北海道において登録された「手亡」の優良品種は,次の7品種である。

(1)昭和2年(1927)「大手亡」:十勝支場育成,在来種,半つる性

(2)昭和36年(1961)「改良大手亡」:十勝支場育成,在来種,半つる性

(3)昭和44年(1969)「大正大手亡」:十勝農試育成,在来種,半つる性

(4)昭和46年(1971)「銀手亡」:十勝農試育成,大手亡(網走)/大手亡(清水),半つる性

(5)昭和51年(1976)「姫手亡」:十育A-19(Sanilac Pea Bean/改良大手亡)/Improved White Navy,十勝農試育成,叢性

(6)平成2年(1992)「雪手亡」:十育A52号/82HW・B1F1,十勝農試育成,叢性

(7)平成16年(2004)「絹てぼう」:十系A216/十系A212号,十勝農試・御座候育成,叢性

特性から分かるように,在来種由来の「大手亡」や「銀手亡」までの品種は「半つる性」に分類される草性で,いわば手竹を必要とするほど蔓は伸びないが無限伸育性を示す品種群である。その後,「手亡」種では機械収穫に適した矮性・叢性(有限伸育性)品種が主体となっている。

9.「大手亡」の名称について                                                            

北海道における「手亡」呼称の文献初見はいつだろうか。「北海道における豆類の品種(増補版)」によると,以下のように整理できる。

(1)明治28年(1895):北海道農事試験場が米国からの輸入品種比較試験を行っているが,「大手亡」の名称はない。

(2)明治38年(1905):大福,金時,デトロイト・ワックスが最初の優良品種となった。

(3)明治45年(1912):北海道産インゲンマメの中に「大手亡」記載が無い(山田勝伴1912「海外輸出道産豌豆及菜豆類に関する調査」北海道農会報12(138),293-303)

(4)大正4年(1915):統計に「手亡豆」の記載がある(北海道農会1916「菜豆類の高騰」北海道農会報16(11),24-25)

(5)大正7年(1918):優良品種解説の中で,大手亡(銘柄)として「第3288号(大手亡)」「第3581号(白手無)」が一般農家で栽培されているとある(北海道農事試験場1918,北海道彙報19,24-25)

(6)大正7年(1918):福山は米国カリフォルニアのインゲンマメ栽培について述べる中で,「Lady Washington bean」或いは「French white bean」が「大手亡」に類似し,前者は「Large white」とも称されると記載している(福山甚之助1918「カリフォルニア州における菜豆栽培」北海道農会報18(10),1-22)

(7)大正12年(1923):北海道農事試験場十勝支場が河西郡大正村(現,帯広市)から導入し,十勝高丘地試験地で試験を行い,昭和2年(1927)に優良品種に決定。決定時の品種名は「新白」であったが,その年の品種解説では「大手亡」となっており,俗に「新白」と称すとある(北海道農事試験場1927「主要農作物優良品種の解説」北農試彙報46,63-70)

これらの事から,「手亡」の初見は大正4年(1915)である。手亡種は明治43年(1910)頃より栽培が始まり,大正4年(1915)以降急激に栽培が増大したものと推察される。成河智明は,「新白」はアメリカから導入されたものだろうとしている。

附1.北海道におけるインゲンマメ事始め

北海道において,本格的な農業がおこなわれるのは明治開拓以降のことである。しかし,先住民族のアイヌは漁猟を主体にしていたとされるが農耕に全く無縁だったとは考えにくいし,江戸時代松前などに暮した和人にしても穀物は本州からの移入に頼っていたが生鮮野菜は庭先に植えていたことだろう。かつて蝦夷地と呼ばれた北海道で,作物栽培の記録が見られるようになるのは江戸時代(17世紀中頃過ぎ)である。

山本正「近世蝦夷地農作物誌」(1998,北海道大学出版会)は,膨大な資料(古書)を読み込み整理した労作である。同書によると,北海道におけるインゲンマメの文献的初見は,寛政8・9年(1796・97)に室蘭に来航し噴火湾一帯を測量したイギリス軍艦・プロビデンス号の艦長ブロートン「プロビデンス号北太平洋探検航海記」で,「菜園にインゲンマメが作られていた」ことが記されている。また,和人の手による記録では,寛政11年(1799)蝦夷地御地用掛の松平信明に従い東蝦夷地を巡検した遠山金四郎の「おくの日誌」で,虻田におけるインゲン栽培が記録されている。

山本正の「近世蝦夷地農作物年表」(1998,北海道大学出版会)では,インゲンマメの記述がある文献37編(例えば,日鑑記,松浦武四郎自筆日記,蝦夷日誌など)を年次・場所ごとに整理してある(元禄7年1694~文久3年1863の文献)。これ等から判断するに,江戸時代の蝦夷地でもインゲンマメ(眉児豆,眉豆,隠元豆)が食料として菜園に植えられていたことは明らかである。

この時代にはまだ,「鶉」「金時」「手亡」等の表記はない。

附2.明治~大正時代に栽培された「インゲンマメ」の品種

北海道に「インゲンマメ」が導入され,栽培が本格化したのは明治時代である。その後多くの品種が育成され,北海道で普及奨励された優良品種は現在までに50品種(手亡7,金時14,白金時4,長鶉4,中長鶉5,大福5,虎豆3,その他8)を数える。ここでは明治~大正時代に栽培された品種を紹介する(参照:日本豆類基金協会1991「北海道における豆類の品種(増補版)」)。

◆明治,大正時代に優良品種とされた12品種

北海道への開拓移民が持参し,或いは明治政府が海外(アメリカ合衆国等)から取り寄せた品種が広まり在来種として栽培されていたものを,北海道農事試験場は品種比較試験を行い優良品種として普及奨励した。明治,大正時代に栽培されたこれらの品種は,北海道インゲンマメの先駆けと言えよう。

「大手亡」:十勝地方で栽培されていた在来種「新白(しんじろ)」を大正12年(1923)十勝支場が大正村(現,帯広市)から取り寄せ,品種比較試験の結果優良品種に認定した。福山(1918)によると,「Kady Washington bean(別称Large White)」「Frenchi White bean」に類似するという。

「金時」:明治36年(1903)頃に「朝鮮紅豆」と称して栽培されていた在来種。北海道農事試験場本場が品種比較試験を行い,明治38年(1905)優良品種に認定した。福山(1918)によれば北米の「Dwarf Red Cranberry」であろうという。「Low's Champion」と異名同種。その後,金時類の新たな品種が出ると,本品種は「本金」「本金時」の名で呼ばれた。

「長金時1号」:原名は「Carter's Canadian Wonder」。日本への導入時期は不明。大正7年(1918)優良品種に認定。

「手無長鶉」:明治年間に栽培がみられた在来種。明治39年(1906)北海道農事試験場では良種として本品種を掲載している。大正3年(1914)優良品種に認定。

「中長鶉」:開拓使時代に札幌農学校で輸入したものであろうとされる。大正時代に入り,半つる性の「中長鶉」「手無長鶉」が広まった。大正7年(1918)北海道農事試験場では良種として本品種を掲載している。大正13年(1924)優良品種に認定。

「大福」:北海道で古くから栽培されていた。北海道農事試験場本場が品種比較試験を行い,明治38年(1905)優良品種に認定。

「中福」:北海道で古くから栽培されていたが来歴不詳。大正3年(1914)優良品種に認定した。福山(1918)によれば「スノーフレーク・フイールド」に類似するという。

「デトロイト・ワックス」:原名「Detroit Wax」は北米産軟莢種,導入経路は不明である。明治38年(1905)優良品種に認定。

「黒手無」:北米産「Cylinder Black Wax」。大正3年(1914)優良品種に認定,「シリンダー・ブラック・ワックス」と命名されたが,翌大正4年(1915)「黒手無」に改称した。

「フラジオーレ」:ドイツ原産「Flageolet Wax」。導入経路は不明。明治42年(1909)北海道農事試験場は良種と紹介している。

「ビルマ」:来歴不詳,優良品種決定年には既に7,000haの作付けがあった。粗放栽培で良く生育し「バカマメ」と呼ばれた。

「鶉」:通称「丸鶉」と呼ばれ,明治39年(1906)に北海道農事試験場では良種と紹介している。

 

2019.5追記  ◆島田是一氏曽孫からの情報

2019年5月の或る日、恵庭市教育委員会社会教育課のKM氏から「5月20日の昼頃、島田是一さんのひ孫にあたる方が来庁され、連絡先を知りたいとの相談がありました」とのメールを受け取った。旅先から戻って早速電話すると、KI氏(札幌在住、是一氏の奥さんの直系)は快く島田是一さんについてお話し下さった。

①  島田是一は高知県高岡郡斗賀野近くの生まれで、明治30年に島田家・藤本家の一族とともに北海道湧別郡上渚滑に入植した。いわゆる個人入植だったのではないか。

②  日露戦争(第七師団)から戻って、片腕で農業に従事していた。色々な種類の作物を集めては試作していたと祖母が話していた。

このお話しからすると島田是一が北海道に渡ったのは間違いなく、前述の「手亡」の謂れについてもあり得る話かもしれない。一歩前進したが、まだ確証をつかんでいない。

 

参照文献

恵庭市1979:「恵庭市史」

福山甚之助1918:「カリフォルニア州における菜豆栽培」北海道農会報18(10),1-22

星川清親1981:ササゲ 「新編食用作物」,養賢堂

北海道農政部農産振興課2013:「平成25年度麦類・豆類・雑穀便覧」

北見市1981:「北見市史」

高知県立図書館内土佐史談会 1993:「土佐史談」191号土佐と北海道特集号,p141-146

前田和美1987:「マメと人間,その一万年の歴史」,古今書院

芽室町1982:「芽室町八十年史」

成河智明1986:西貞夫監修,「野菜種類・品種名考」,農業技術協会

日本豆類基金協会1991:「北海道における豆類の品種(増補版)」

農林水産省:「作物統計」

土屋武彦2013:「北海道で栽培されたインゲンマメ50品種,来歴と特性」,ブログ/豆の育種のマメな話

土屋武彦2013:「時代に翻弄されるインゲンマメ」,ブログ/豆の育種のマメな話

筑波常治1978:「農業博物誌」,玉川選書89

浦臼町2000:「浦臼町百年史」

山本正1998:「近世蝦夷地農作物誌」(北海道大学出版会)                                                           

山本正1998:「近世蝦夷地農作物年表」(北海道大学出版会)

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