豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(6)ユカンボシ川 河畔公園

2023-10-11 09:22:10 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

6人の著名作家が共演「自然の中の彫刻広場」

このシリーズでは散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「ユカンボシ川 河畔公園 彫刻広場」(駒場町)。

ユカンボシ川の一角に、自然の樹木や小川の流れを壊さないように配慮して作られた「彫刻広場」があります。道内外で活躍の著名な彫刻家が、ここの自然に調和するような作品を仕上げました。特段の興味がある方以外は訪れる機会が少ないと思いますが、この彫刻広場で静かなひと時を過ごしてみたら如何でしょうか。恵庭にこんな素敵な場所があったのかと再認識するに違いありません。

作品を鑑賞後は、近くの喫茶店で一休みするもよし、彫刻広場からユカンボシ川に沿って遊歩道を進めば恵庭公園の散策路に通じます。鬱蒼とした原始林の中の散策路では、多様な植物が貴方を歓迎してくれます。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-1恵庭の彫像」晩鐘舎2017、2)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2014.10.10(ユカンボシ川河畔公園彫刻広場-佐藤忠良・渡辺行夫・植松奎二の作品)、2014.10.11(ユカンボシ川河畔公園彫刻広場-山本正道・丸山隆・山谷圭司の作品

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(5)恵庭駅

2023-10-10 09:08:31 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

少女像「すずらんに寄せて」

このシリーズでは散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭駅東口広場」(黄金中央)。

えにわ病院に面した歩道に一体の「少女像」があります。鈴蘭の花を両手で愛おしむように持った少女の座像。横浜山下公園にある「赤い靴はいてた女の子」と同じ作者の作品だと気付く人は少ないでしょう。しかし、これが著名な彫刻家山本正道の作品だと知った貴方は、さりげなく置かれたその風情に触れ、きっとこの街を好きになるでしょう。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)街かどの少女像

今回訪れたとき、少女像は帽子を被りマフラーを巻いていた。前回通ったときは小銭が供えられていた(資料の写真は元の姿)。

Aさん:この作品が横浜山下公園にある少女像「赤い靴はいてた女の子」の作者山本正道の作品であると知って、改めてその芸術性に触れ、恵庭の街かどに著名作家の作品があることに歓びを覚えます。

Bさん:寒空にぽつねんと座る少女像をみて、「寒そうだ」と帽子とマフラーを着せる心優しい近所の方がいらっしゃるのですね。

Cさん:病院前の少女像。病の快復を願って、或いは完治した御礼に手を合わせ、賽銭を供えた病院の患者さん(?)。お地蔵さんと思ったのでしょうか。

さて、町かどに置かれた彫像を「芸術作品として尊重すべき」「Bさん、Cさんの行為も街中作品としては許容できる。ペンキや破損は絶対ダメですがね」。あなたはどう思いますか。

私達は、少女像にそっと手を触れバスに乗り込んだ。       

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-1恵庭の彫像」晩鐘舎2017、2)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2014.10.14(恵庭駅前の少女像、山本正道「すずらんに寄せて」)

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(4)恵庭市 総合体育館

2023-10-09 10:02:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

躍動と天然の美

このシリーズでは散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭市総合体育館」(恵庭市黄金中央)。

ここには竹中敏洋の壁画彫刻「躍動と天然の美」があります。体育館の利用者でなくとも一度は訪れ、ロビーにあるこの芸術大作を是非ご覧頂きたい。作品が醸し出す迫力に誰もが圧倒されるでしょう。

また、近くには北海道文教大学、カリンバ遺跡がありますし、恵庭大橋の「季節の乙女像」を鑑賞してから「はなふる」へ出ることも出来ます。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)竹中敏洋作品が総合体育館にあった

先史時代から古代エジプト・ギリシャ時代にかけての洞窟壁画に、レスリング、重量挙げ、ボクシング、雄牛跳び、跳躍運動、弓矢による狩猟などが描かれていると言う。これは獣を追うために男たちが体を鍛え技術を競っていた証しだろうと推定されています。即ち、狩猟がスポーツの原点だとの考えです。

竹中敏洋も北海道の大地で鹿を追う原始の人々とスポーツマンの躍動を重ねてイメージし、アリーナの壁に躍動の美、天然の美を表現したのでしょう。液体硬化手法が効果を醸し出しています。

(2)恵庭大橋「季節の乙女像」の塑像がある

国道を車で走っていて恵庭大橋に彫像があるのを気付いても、誰も停車してまで見ようとは思わない。でも、一度じっくりと鑑賞するに値する作品が立っています。

この彫刻の原型、鈴木吾郎の「こぶし」「もみじ」塑像が体育館の壁画横に置かれています。

 

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-1恵庭の彫像」晩鐘舎2017、2)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2014.10.13(恵庭市総合体育館の壁画彫刻、竹中敏弘「躍動と天然の美」)、同2014.10.5(恵庭大橋に季節の乙女像、作者は鈴木吾郎・本間武男)

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(3)恵庭神社遥拝所跡、イザリブト番屋/船着き場

2023-10-08 09:59:47 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭「川の玄関口」
9月30日、「えにわ学」講座で久しぶりに漁太を訪れた。遥拝所の前を通る道路が改修変更され境内を通るようになったため、遥拝所敷地は減反され石碑の場所も変わっている。本項資料の写真は改修前のもので広々としているが、現状は異なる。このように、歴史遺産は少しずつ変遷してゆくものかもしれない。

なお、このシリーズでは散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。今回は「恵庭神社遥拝所、イザリブト番屋/船着き場址」(恵庭市林田)。

イザリブトは、江戸時代に番屋・船着き場が置かれ、明治の開拓時代にも交通の要所として賑わった、言わば恵庭「川の玄関口」。加賀・越中・能登から入植した人々は周辺の湿地・荒地を開拓し、現在の漁太・林田地区を肥沃な農耕地に換えました。彼らは此処に神社を祀り、恵庭神社遥拝所としていたのだ。

場所は、漁川が千歳川に合流する地点。恵庭から川沿大通りを下流に進み漁川の「南12号橋」の近く。河川は改修が進み直線化しているが、旧河川は大きく蛇行していた。恵庭市教育委員会は新旧の地図を重ね合わせ、松浦武四郎が再興蝦夷日誌に残した絵図の場所を推定しています(説明板が建っている)。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)松浦武四郎

松浦武四郎は江戸末期の探検家、伊勢の人。17歳のころから諸国を巡歴し、弘化2年(1845)、28歳の時はじめて蝦夷地を踏査。以来、6回の蝦夷、樺太、千島を探検し、貴重な記録や地図を残しています。明治政府から開拓判官に任じられ、蝦夷地を「北海道」と命名。蝦夷地の発展とアイヌの生活改善を願って就いた判官の職でしたが、思うようにならず途中で職を辞しています。

松浦武四郎の足跡を記念して建てられた記念碑や説明板の数は多い。松浦武四郎研究会や専門家の資料によると、武四郎本人が主役の記念碑と説明板は全道で77点(宗谷4、留萌6、上川20、空知11、石狩1、オホーツク8、根室1、釧路9、十勝4、日高7、胆振6)、武四郎の文献などを引用した記念碑や説明板を加えると北海道におよそ120点存在するそうです。

恵庭市内では、平成30年(2018)恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」(大町)前庭に、「松浦武四郎の歌碑」~蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや~(西蝦夷日誌1858)が建立されました。

(2)松浦武四郎「再航蝦夷日誌」1846から

武四郎は、第二回蝦夷地探索で千歳川を遡り、イザリブトの記録を残しています。

(解読文)・・・イサリブト ツイシカリより十一里。此処漠漠たる広野にして処々此の辺沼あり。又支川も網を曳けり。沼は左右にあって至って湿深きところなり。此処に至り四面とも山と云は少しも見えることなし。蔵の屋根え上がらばシコツ山見ゆるなり。番屋大きく建てたり。弁天社、蔵々あり。千歳支配所なり。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土地肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人ども熊、鷲を多く飼えり。又鶴多きよし。夷人毎日臼にて沼菱を搗て是を平日の食糧とす。又鹿皮を多く着科にせり。もっとも肉を干して是も平日の食に当てるよし・・・

・・・此処にて川二つに分る。一つは右の方本川にしてシコツ沼に及ぶよし。番屋前十間ばかりして枝川に上る。此巾十二三間。もっとも深き壱尋半より二尋。急流にして水至って清冷なり。本川はシコツ嶽、サッポロ嶽の間より落ち来る。本川幅十五六間。深凡そ二尋もあるよし聞けり・・・

         

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-2恵庭の記念碑」晩鐘舎2017、2)土屋武彦「私の恵庭散歩-3恵庭の神社・仏閣・教会堂 」晩鐘舎2017、3)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2015.1.30(加越能開耕社ら移住者が創祀した恵庭神社)、同2015.2.3(恵庭開拓期以前の神社 弁天社・稲荷神社)、同2015.4.8(イザリブト番屋・船着場と恵庭神社遥拝所跡の碑)、同2018.11.4(恵庭に建立された松浦武四郎歌碑)、同2019.1.14(恵庭と松浦武四郎)、4)恵庭市史編さん委員会「新恵庭市史」2022

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(2)中恵庭出張所 周辺

2023-10-06 18:04:01 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭村道路元標は朽ち果てるのか?

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「中恵庭出張所」(恵庭市中央)周辺。

明治、大正、昭和(第二次世界大戦後まで)時代、この地は恵庭行政の中心地でした。今は静かな佇まいですが、84年間にわたり恵庭村役場(町役場)があったところ。つい最近まで交番、郵便局、農協、消防署などもありました。

場所は、前項の恵庭開拓記念公園から漁川を渡り、漁川と川沿大通に挟まれた地域。ここで是非ご覧頂きたいのが「恵庭村道路元標」。恵庭市民の方も多くが存在を知らないと思いますし、恐らく見つけることも出来ないでしょう。道路脇の生垣(櫟)の陰に隠れています。

その他にも「漁共同用水記念碑」「忠魂碑」「六地蔵」など見どころがあり、川沿大通の「恵庭神社」「拓土農魂之碑」「天融寺」へも足を延ばすことが出来ます。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)戸長役場から村役場へ

恵庭市の母体となる漁村と島松村は、かつて千歳郡千歳村外五か村戸長役場に属していました(ほかに千歳村・長都村・蘭越村・ウサクマナイ村)。明治30年(1897)に千歳郡戸長役場から独立して「漁村外一か村戸長役場」となり、明治39年には恵庭村が誕生し、

「恵庭村役場」となりました。庁舎が中恵庭に置かれたのは、漁地区と島松地区の強い誘致争いの妥協案だったと言われています。

明治43年に原因不明の火災で役場が全焼して戸籍簿など全てが消失するなど恵庭の貴重な資料も消えてしまいました。火災原因は設置場所を巡る怨恨説、泥棒による放火説など囁かれたそうですが、原因不明で操作は打ち切られました。

なお、町役場(市役所)が現在の京町へ移転したのは時が流れて昭和27年(1982)のことです。

(2)道路標識

江戸時代には各街道に日本橋を起点とした「一里塚」がありました。明治政府は明治6年、各府県に「里程元標」を置くことを定めます。北海道里程元標は札幌創成橋の近くにあります(H23復元)。札幌本道(室蘭街道)では、島松沢に「六里標」、江別恵庭線が札幌本道に交わる地点に「七里標」、山崎製パンの辺りに「八里標」がありました(現在その痕跡はありませんが古地図で確認できます)。

大正6年に旧道路法が制定されると、各市町村に道路元表を置くことになります。札幌市道路元標は道庁赤レンガ庁舎正門前、「恵庭村道路元標」は中恵庭の役場前に置かれました。戦後になり現行道路法が制定され市町村道路元標は無用となりましたので処分され、残っている道路元標は多くありません。歴史遺産として保護している市町村もありますが、「恵庭村道路元標」は朽ち果てる寸前です。

札幌本道(室蘭街道)の「里程標」を復元し、「恵庭村道路元標」と併せ保全したら「恵庭まち遺産」となりませんかね・・・。

 

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-1恵庭の彫像」晩鐘舎2017、2)土屋武彦「私の恵庭散歩-2恵庭の記念碑」晩鐘舎2017、3)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2014.11.16(開拓を支えた治水事業-共同用水記念碑)、同2014.12.9(日清・日露戦争の戦没者を祀る供養塔-忠魂碑)、同2014.12.11(朽ち果てるのか-恵庭村道路元標)、同2014.12.15(路傍に祀られるお地蔵さん-地蔵菩薩)、同2015.1.30(加越能開耕社ら移住者が創祀した-恵庭神社)、同2022.8.18(室蘭街道の七里標・八里標と恵庭村道路元標)、4)恵庭昭和史研究会「百年100話」1997、5)恵庭市史編さん委員会「新恵庭市史」2022

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(1)恵庭開拓記念公園

2023-10-03 13:44:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

松園小学校廃校址に造成された恵庭開拓記念公園

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭開拓記念公園」(南島松)です。

恵庭開拓記念公園へは、花の拠点「はなふる」から漁川の堤防を下流に歩くもよし、郷土資料館を目指して松園通りを歩くもよし、恵み野中央公園の遊歩道を楽しみながら辿るコースもお勧めです。

恵庭の歴史に興味があれば、隣接する「恵庭市郷土資料館」見学を推奨します。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)松園小学校

山口県から集団入植した人々(M19岩国地方、M20萩藩士ら)が、子弟教育のために明治22年に開校。初代校長は萩藩士廻神美成。校名「松園」は萩の偉大な教育者吉田松陰の名前にあやかって名付けたと言う(松下村塾の塾生として高杉晋作・久坂玄随・伊藤博文・山形有朋らが名を連ねる)。

最初は南島松(西2線南22号)に建てられ、明治30年にこの場所には移転。現在地から南に300間(550m)とすれば、松園通りの松園会館~楡の大木(伝承の御神木)の辺りでしょうか。

(2)二宮尊徳先生幼時の像

全国各地の金次郎像は、幸田露伴「二宮尊徳翁」挿絵が原型の「薪を背負い、書を読む」姿。この草鞋を捧げる金次郎像は極めて珍しい。作者は富山出身の二口大然、原型は富山出身で小樽在住の彫塑家野口五一。野口五一の作品が郷土資料館に展示されています。

(3)「拓望の像」制作者 竹中敏洋

大分県生まれ、恵庭で活躍した造形作家。大陸で過ごした少年期の体験が竹中芸術の原風景と言われます。昭和29年来道して中学校の美術教師。昭和49年盤尻に居を構え、漁川で造形樹氷の実験を重ねて竹中ファンタジーの世界を創造。この氷と光の芸術は、層雲峡氷瀑まつり、支笏湖氷濤まつり等に発展しました。

(4)恵庭の古道「松園通り」

公園の南側道路が南21号道路(道道600号島松千歳線)、東側の漁川に沿った道路が松園通り(中島通-松園線)です。松園通りには茂漁川第三幹線用水路が埋設され桜並木(恵み野桜回廊)となっています。この道路は明治29年版地図(長都1/50,000、大日本帝国陸地測量部)に記載されている数少ない「恵庭の古道」です。

(5)三角点があるって? 何処に?

三角測量に用いる基準点がこの公園内にもあります。関係者以外は知らない情報かな。

 

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-1恵庭の彫像」2017、2) 土屋武彦「私の恵庭散歩-2恵庭の記念碑」2017、3)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2014.10.8(恵庭開拓公園にある竹中敏弘 拓望の像)、同2014.10.9(恵庭開拓公園にある二宮尊徳幼年時の像)、同2014.11.15(先人の偉業を讃える開拓の碑)、同2014.11.19(先人の偉業を讃える表徳碑)、同2015.9.27(廃校の跡地に残る 松園校跡地記念碑)、同2022.12.26(松園通り)、4)恵庭昭和史研究会「百年100話」1997、5)恵庭市史編さん委員会「新恵庭市史」2022

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恵庭の古道-8 「ポンオサツ道(里道)」

2023-09-16 10:45:23 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

漁村と長都村の境界道路

大日本帝国陸地測量部(明治29年製版)の地図「長都1/50,000」を開く。この地図には長都村・漁村・嶋松村・月寒村(一部)地域が載っている。右手には「マオイトー(馬追沼)」「オサツトー(長都沼)」があり、川の流域は未だ多くが湿地帯で荒地が広がっている。

北西から南東に斜めに横切る札幌本道(室蘭街道)が目に入るが、嶋松村・漁村・長都村で札幌本道(室蘭街道)に繋がる里道は僅か5本のみ。陸路は未だ発達していないことが分かる。

5本の里道のうち「松園通(中島通り松園線)」「釜加街道」「孵化場道路」「長都街道」については前項で触れたとおりだが、室蘭街道から戸磯地区を斜めに横切り釜加街道に繋がる道路は名前が分からない。大日本帝国陸地測量部大正5-6年測図「漁1/50,000(大正9年印刷)」や大正5年測図「漁1/25,000(大正7年発行)」には、既にこの道路の痕跡さえない。言わば、消えた古道(里道)である。

戸磯地区を斜めに横切り釜加街道に繋がる此の里道が廃れたのは、明治26年に千歳原野殖民地区画が完成し、基線道路や南26号道路が整備されたことによるのだろう。

◆ポンオサツ道(里道)

消えた戸磯の道路について思案していたところ、澁谷さんから一つの情報を頂いた(令和 5年9月)。冊子「戸磯百年のあゆみ」に此の里道の図があると言う。早速、図書館で調べてみると、戸磯史編集発行委員会「戸磯百年のあゆみ(1989年発行)」に次のような記述がある。

  • 明治25-30年頃の戸磯には17戸あった。明治25年頃の戸磯にある道と言えばカマカ街道と此のポンオサツ里道だけだった(地図に記載あり41p)。
  • ポンオサツ里道は、室蘭街道の東3線付近から基線南25号まで戸磯を斜めに横切り、そこから南25号(現在の黄金中島通)を西に向いカマカ街道に至る(地図45p)

澁谷さんも古老から「ポンオサツ里道と呼んでいた」との話を聞いたと言う。通称だったかも知れないが、この道を「ポンオサツ道(里道)」と称して良いだろう。

因みに、「ポン」はアイヌ語で「小さい」の意味、川の名前では支流を表す。ポンオサツ川はオサツ川の支流で現在大部分が空沢になっているが、陸自千歳・恵庭演習場に発し、恵南の寺田牧場・遠藤牧場を抜け、上長都地区で長都川に注いでいる。

現在の地図に重ねると、ポンオサツ道は室蘭街道(ポンオサツ川が交差する地点)からサッポロビール工場、戸磯地区恵庭テクノパークを抜け、基線南25号(黄金中島通)を西に進み、西1線(団地中央通)との交点付近(黄金地区、カリンバ遺跡付近)で旧釜加街道に交わる。この道は戸磯地区の人々がよく使う里道だったのだろう。

地図を確認すると、ポンオサツ里道は漁村と長都村の境界である。現在、恵庭市と千歳市の境界は東3線道路であるが当時の漁・長都の村界は漁側(恵庭)に食い込んでいたのだ。村の境界になると言うことは、利用頻度の高い古道であったのだろう。河川や道路が村の境界になるのは歴史的にも極めて一般的なことである。

◆漁村と長都村の境界

漁村と長都村の境界変遷については、守屋憲治「千歳線長都駅史」から引用する。

「・・・かつて長都村と漁村(現・恵庭市の一部)の境界はカリンバ川沿いに西1線南26号付近(筆者注、地図からは南25号付近と思える)まで三角形で漁村に食い込んでいた。境界が不明確なため不便な事も多く、北海道庁は両村利害関係者の意見を勘案し、明治31年1月に告示をもって室蘭街道から東北については殖民地区画東3線を境界と改めた。境界が確定した前年、人口増などを理由に漁村と島松村は漁村外一ヶ村戸長役場を設置、千歳村外五ヶ村戸長役場から離脱した・・・」とある。

即ち、漁村と長都村の境界はカリンバ川を遡り、釜加街道、ポンオサツ道を経てポンオサツ川の上流で孵化場道路に至っている。因みに、漁村と嶋松村の境界は漁川・茂漁川、嶋松村と月寒村の境界は島松川であった。

参照 1)大日本帝国陸地測量部(明治29年製版)「長都1/50,000」、2)大日本帝国陸地測量部大正5-6年測図(大正9年印刷)「漁1/50,000」、3)大正5年測図(大正7年発行)「漁1/25,000」、4)戸磯史編集発行委員会(1989年発行)「戸磯百年のあゆみ」、5)守屋憲治「千歳線長都駅史」

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恵庭の歴史びと-4 「山森丹宮」

2023-08-08 10:43:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「漁の赤ひげ先生」と慕われた医師

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。

今回は医師山森丹宮(たみや)、山口県からの集団入植が始まった恵庭開拓の時代に中山久蔵らに請われて漁村に移住し、恵庭村創始期に徳を以て医療に当った恵庭最初の医師(村医)である。山森医師は恵庭開拓の現場に立ち村人の多くの命を救い、「漁村の赤ひげ先生」と称されるほど絶大な信頼を得ていた。

山森丹宮は医術の他に、私立洞門小学校(恵庭小学校)、大安寺、巡査駐在所、盤尻用水組合の設立などに尽力、恵庭村発展に大きく貢献している。この時代の先人たち(例えば、中山久蔵、山森丹宮)に見られるのは「無私の心、公への奉仕」。彼らから何と学ぶべき点の多いことか。

(写真は「千歳・恵庭・広島三村名鑑録」から引用)

◆山森丹宮略歴1847-1923

(1)山森丹宮は、弘化4年(1847)越前国今立郡神明村(現、福井県鯖江市)で生まれる。父は医業を営む山森斉宮、幼名を利太郎と言った。少年時代から父に漢書を学び、17歳になると京に出て広瀬玄恭(筆者注、三村名鑑録では皇漢医学研究とあるが、京都で蘭学塾「時習堂」を開き、蘭方医院を開業していた蘭方医と思われる)に医術を学ぶ。24歳で福井藩の福井医学校入学、27歳で同学全科を卒業し医術開業免状を授与され、名前を丹宮と改め父祖の医業を継ぐ。

(2)医術の道で北海道開拓に貢献しようと夢を馳せた山森丹宮は、明治19年(1886)40歳のとき来道、北海道庁の嘱託検疫医員として官立勇払病院医員に任命される。翌年には中山久蔵・新保鉄蔵に請われて無医村であった漁村に移住。その後、村医として献身的に活動する。

(3)開拓地の医療は万端多忙を極め、医師一人では診察に応じきれない状況であったと言う。近隣は歩いて往診するが、遠方には部落の人が迎えに来た農耕馬に専用の鞍をつけ出かけていた。また、小学校が開設されると校医を嘱託されている。村医を20数年勤めた後、65歳の時(明治44年)茂漁に医院を開業。

(4)骨身を惜しまず医療に取り組んだ山森医師は、村の発展にも大きな貢献をしている。明治20年には山森医師ら14戸の寄付で私立洞門小学校を建設、巡査駐在所の敷地を寄付、明治24年には盤尻用水組合を作り約36町歩の開田を成功させた。また、明治39年には恵庭村第一回村会議員選挙が施行され選出される。当選した10名の議員の中で、山森丹宮一人だけ鼻下に髭をたくわえ、洋服姿で写真に写っている。

(5)大正12年(1923)村民たちに惜しまれて大往生を遂げる。享年77歳。大安寺境内に当寺の開創「月海良光大和尚の碑」と並んで、山森丹宮の墓碑「大安開基 大安寺殿釈医高徳春嶺禅定門」(山森嘉人建立、父丹宮、母田都、茲に眠ると刻まれている)が建っている。

(6)なお、山森医院の後を継いで僻地医療に取り組んだのは、丹宮の娘寿満の夫となる菊地政之医師(北大帝国大学医学部卒)であった。菊地政之は昭和7年菊地内科医院を開業。当時、看護婦として働いていた松浦キエさんは「菊地先生は金銭に拘らない方でしたね。その病気に必要な薬と思うと、どんな高価な薬でも使ってしまうのです。患者さんが貧しくて、払えそうになくとも平気です。医は仁術を地で行った先生でした。奥さんがやりくりに大変なようでしたよ・・・」と語っている(引用、国府田稔「赤ひげ親子物語」百年100話)。国府田は山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」になぞらえ、「恵庭にも二人の“赤ひげ先生”がいたのである」と山森丹宮・菊地政之を称えている。

(写真左:盤尻用水記念碑、右:大安寺境内の墓碑)

 

<資料1> 北岡善作「千歳・恵庭・広島三村名鑑録」1935

三村名鑑録、山森丹宮翁の写真に添えられた紹介文を引用する。

「医師 故山森丹宮翁 恵庭村大字漁村 故翁は福井県の産にして安政元年父に従い皇漢学の研究を始める。文久3年京都府下広瀬玄恭に従い皇漢医学研究をなす。明治3年福井県医学校入学、同6年卒業、旧敦賀県より医術開業免状授与。明治17年内務省より医術開業免状授与される。同19年北海道庁検疫医員嘱託、同年勇払公立病院医員任命、同21年勇払郡役所より千歳郡漁・島松両村村医任命、同33年恵庭・松園・島松小学校校医を嘱託された。恵庭村を千歳村より分村するについては、その中心となって尽力された。その他、村事に対しては忘れる事の出来ない功労者。翁は恵庭村公益功労者として恵庭村より数回の表彰を受けられ、氏の人徳を知るべき也(筆者注、旧仮名遣いを改め)。

<資料2> 国府田稔「赤ひげ親子物語」百年100話(恵庭昭和史研究会)1997

国府田稔は、父親山森丹宮の思い出を語る娘寿満の言葉を紹介している。

「父は薬代の催促もしない人でしてね。村医で、生活する分はきちっと貰っているのだから、困っている人からお金を頂くつもりはないって言うんです。ですから村の人たちは山森医院の前で、手を合わせて通り過ぎる人もいて、子供の心に父の仕事の大切さを感じたものです」

「父が茶の間にいるときは、なぜか近寄れない感じがしましたね。でも患者さんには優しくて、結構冗談なんか言って笑わせてました。患者さんが大きな声で怒鳴られたこともあるんです。そんな時は自分の不注意で病気に罹った人だったようです・・・」

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亀田和明「ウクライナ侵攻を読み解く構図」(北海道文教大学特別公開講座)

2023-07-26 11:41:32 | 講演会、学成り難し・・・

北海道文教大学特別公開講座

2023年7月25日北海道文教大学特別公開講座を聴講した。講師は亀田和明氏、演題は「ウクライナ侵攻を読み解く構図」。時宜を得た演題である。

講師は赤平市出身、外務省入省後は東欧専門の外交官としてユーゴスラビアを始め東欧諸国およびアフリカで活動。前ウガンダ共和国大使、在札幌ウガンダ共和国名誉領事。当日は猛暑日だったが、多くの市民・学生が鶴岡記念講堂に集まった。

「ロシアによるウクライナ侵攻がもたらした激震」「ウクライナ侵攻の構図」「侵攻後のロシア」について、解説された。

(写真は北海道文教大学特別公開講座案内ポスターから)

 

1.ロシアによるウクライナ侵攻がもたらした激震

世界に走った激震として次の三点を挙げ、それに伴う情勢を解析された。①第二次大戦後の世界ルールである「主権国家に対する領土不可侵」を破ったこと、②国連安保理における拒否権付与が国連機能に与える影響を知ったこと、③法の支配をないがしろにする行為に対する中小国の危機感。

2.ウクライナ侵攻の構図

「ソ連とロシアの比較」「国際社会の対応」「旧ソ連諸国との関係」に分けて解説した。

*東ヨーロッパ諸国のNATO加入に対してロシアは恐怖を感じている。ロシアはNATOに加入させないよう求めたが拒否され侵攻に至った。

*国連でのロシア非難決議に対し、賛成141、反対5、棄権35、欠席12か国の現実。アフリカは約半数が棄権か欠席。背景には経済問題がある。

*旧ソ連諸国圏から離れロシアに距離を置く国々が増えている。

3.侵攻後のロシア

侵攻が終わった後のロシアはどうなるか? 私見だがと断り、解説を加えた。

*経済の壊滅的負担、国民の不満が高まる。

*エネルギー輸出依存経済から変革が必要になる。そのためには西側技術が必要。

*西側企業が参加するために政治体制の民主化が必要。経済メカニズムの自由化が不可欠。

*核大国の立場、安保理の地位は変わらないだろう。

 

さて、侵攻を終わらせるために仲介努力が続けられるが、どこまで有効か? 難しい。いずれにせよ、戦争当事国の悲惨な状況を鑑みるとき、戦争の早期終結を望む。

7月12日現在、ウクライナから日本への避難民は2,465人(北海道25人)だと言う。我々にできることは、現状を知ること理解することウクライナの人々に自分たちの気持ちを伝えることしかないのだろうか。

ロシアのウクライナ侵攻に対して、数々の予兆があったにもかかわらず何故止めることが出来なかったのか。講師の見解を聞きたかった。

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恵庭の歴史びと-3 「中山久蔵」

2023-07-22 14:33:19 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

寒地稲作の祖、篤農家「中山久蔵翁」

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。

今回は「中山久蔵翁」、恵庭及び北広島の誰もが知る歴史上の人物である。河内国春日村生まれ、明治4年(1871)島松沢に入植して開拓に尽力した篤農家。道央地域で初めて水稲「赤毛」の栽培に成功し、種籾を無料配布するなど普及に努め、「寒地稲作の祖」と呼ばれている。島松駅逓4代目取扱人。洞門小学校(恵庭小学校)、大安寺の創設など公的施設整備に熱心で、後に月寒村・広島村総代を務める。現在、島松沢に国指定史跡「旧島松駅逓所(旧中山久蔵宅)」、「寒地稲作発祥の碑」「クラーク博士記念碑」があり、中山久蔵翁の偉大さを知ることが出来る。

国道36号を外れて島松沢に立ち寄ってみよう。島松川左岸(北広島市島松1番地)に旧島松駅逓所(旧中山久蔵宅)や記念碑が建っている。大きな建物が旧島松駅逓所で、明治天皇が北海道巡行の際に御昼食をとられた行在所でもある。

この地を訪れた方は、島松駅逓所は最初からこの場所にあったと錯覚するが、この建物が駅逓所となるのは中山久蔵が第4代駅逓取扱人となった明治17年以降のことである。島松沢に駅逓が設置されたのは明治6年、札幌本道開通の年。その場所は島松川対岸の胆振国千歳郡島松村1番地(現在の恵庭市)で、現在は民家が建っている。橋を渡って「こちら側に最初の駅逓があったのか」と昔を偲ぶがよい。

待てよ、と言うことは、明治10年(1877)札幌農学校の教頭であったW・S・クラーク博士が任期を終え帰国する際に、島松駅逓所で「Boys, be ambitious(青年よ、大志を懐け)」と名言を残したとされるが、その場所は現在記念碑が建つ島松川左岸(北広島)だったのか。むしろ、当時駅逓所があった島松川右岸(恵庭)で別れたとするのが妥当ではあるまいか? と、歴史に想いを巡らしてみたらどうだろう。

 

◆中山久蔵翁の略歴1828-1919

(1)文政11年(1828)河内国石川郡春日村(現、大阪府南河内郡太子町春日)に農業松村三右衛門の次男として生まれる。弘化2年(久蔵18歳)江戸へ出て、江戸と大坂を転々、各所へ寄留する。

(2)嘉永6年(1853)仙台藩士片倉英馬に従仕。翌年、仙台藩白老陣屋で北方警備に着く藩士熊沢伊豫之助に従い蝦夷地白老に渡る(幕府は蝦夷地がロシアに侵略されないよう東北各藩に警備を命じていた)。明治維新を契機に仙台藩士のもとを辞し、余生を蝦夷地開墾にささげようと決心する。

(3)明治2年(1869)白老に来村。明治3年戸籍を勇払郡苫小牧に移し開墾に着手するが、そこは海霧に覆われ農業に向かない土地であった。

(4)明治4年(1871)肥沃な土地を求めて北上し、千歳郡島松村1番地(現、恵庭市島松沢137)に入植。勇払会所の植田甚蔵から小屋一棟を5円で購入、借地を得る。また、月寒村から宅地および耕地を譲り受ける。畑地6千坪を開墾し雑穀・大豆80俵を収穫。この時、久蔵は既に44歳であった。

(5)明治6年(1873)島松駅逓所が島松村1番地に開設されることになり、住居を島松川対岸の札幌郡月寒村島松(現、北広島市)に移す。道南から水稲「赤毛」を取り寄せ試作に挑戦し、水温を高めるなど努力して秋には反当345kgを収穫。以降、水田の拡張を図ると共に林檎苗園、葡萄・桃園、鯉養殖、蓮根栽培など導入を試み、勧業博覧会にも出品。

(6)明治12年(1879)「赤毛種」種籾100俵の無料分与を勧業協会に申請し配分を始める。稲作が全道に拡がる。

(7)明治14年(1881)明治天皇巡幸に際し行在所を新築。明治天皇の昼食所となる。天皇は稲作など視察され、久蔵に御下問あり。

(8)明治17年(1884)島松駅逓所第4代取扱人となる。駅逓所は明治30年廃止。

(9)明治19年(1886)北海道庁民間指導員として、農家を訪ね歩き栽培法を指導。また、小学校、神社、寺院、道路など公共施設の整備にも尽力。明治25年から月寒村総代、明治27年から広島村総代人を務める。

(10)明治36年(1903)殖産興業に尽くした功績で緑綬褒章。大正6年「中山久蔵翁頌徳記念碑」(発起人北海道帝国大学総長南鷹次郎ら)が建立される。大正8年(1919)逝去。享年92歳。

◆寒地稲作の祖と称えられる

(1)北海道における稲作は大野平野(函館平野)で始まった。南部藩から亀田郡大野村へ移住した作右衛門が元禄5年(1692)米10俵を収穫したのが最初とされるが、その後も幾多の失敗成功が繰り返され、道南で栽培が定着するのは150年余り後の嘉永3年(1850)大野村文月の高田松五郎・万次郎親子の成功以降のことである。道南では幕末に300町歩を越える面積となったが、道央以北では稲作が困難であった。

(2)中山久蔵は明治6年、島松沢へ入植すると大野村から種籾「赤毛」を取り寄せ、苗代や本田の水温を温めるなど苦労の末に反収2石3斗を収穫する。翌年以降も引き続き水田を広げ、良く稔る稲穂を選んでは種籾にするなど改良を加えながら稲作を実践。明治12年から希望者に種籾の無償配布を始め、明治19年からは北海道庁民間指導員として農家に「赤毛」の栽培法を指導にあたっている。

(3)開拓使は当初外国人顧問の意見で畑作畜産を中心に北海道開拓を推進するが、入植した人々は米への執着が強く稲作を試みる者が多かった。例えば、勇払郡、千歳郡に入った高知藩は、明治3年漁太など3か所に大野から取り寄せた種籾を試作している。久蔵が稲作に成功すると、開拓使も移住者の稲作願望を無視できなくなり札幌官園でも試作を始めた。久蔵の成功を契機に稲作は道央・道北地域へ拡大することになったと言えよう。

(4)久蔵が栽培した「赤毛」は「中山種」と呼ばれ広がりを見せ、石狩の農家江藤庄三郎が明治28年「赤毛」の中から籾に芒のない「坊主」を発見、その小作人中田光治の努力により美唄一帯に作られるようになった。さらに上川盆地にまで広がり、農業試験場の純系分離により「坊主2号」「坊主6号」などの優れた耐寒品種が誕生、その後も農業試験場は交雑育種法を駆使し多くの優良品種を育成した。現在の「ゆめぴりか」「ななつぼし」なども「赤毛」の延長線上にある。

(5)昭和39年(1964)、久蔵翁の業績を称える記念碑「寒地稲作この地に始まる(北海道知事町村金吾書)」が建立された。稲穂を抱える農民と久蔵翁のレリーフがはめ込まれている。背面の碑文を紹介しよう。「ここは 明治六年 大阪府出身の中山久蔵が最初に米作を試みたところとして 永く記憶さるべき地である 当時道南地方を除いては 北海道の米作は危険視され 万全の開拓方針をたてることができなかったが 明治四年 単身率先してこの地に入地し開墾に従事した久蔵は あえてまずここに水田一反歩を開き 種子を亀田郡大野村から求めてこれを試み成功し その安全さを証明したばかりではなく その種子を道内各地の希望者に無償配布して成功せしめた ために附近の水田耕作熱は とみに高まり 空知 上川の穀倉を拓く基を開き ついに北海道を全国一の米産地に育てる因を作ったのである 昭和三十九年九月 北海道大学教授農学博士 高倉新一郎 撰文」

(6)久蔵翁は「小柄な体躯だった」と言う。晩年の写真はいかにも好々爺、農業人の顔である。久蔵翁には、農業人としての魂が脈々と宿っていたのだろう。①自助自立の精神、②実直に辛抱強く、③興味旺盛で挑戦する、③常に改良を重ね、忍耐強く続ける、④惜しみなく社会へ還元、公に奉仕など、農業人そのままの姿は篤農家と称される所以だろう。

◆島松駅逓所と中山久蔵

(1)島松駅逓所はいつ何処に開設されたか? 

島松駅逓所は明治6年(1873)、札幌本道開通に伴い島松川右岸(胆振国千歳郡島松村1番地、現在の恵庭市島松沢137番地)に設置された。この場所は中山久蔵が明治4年に入植した場所であるが、設置に際し土地を山田文右衛門に譲り、久蔵は対岸(札幌郡月寒村)に住居を移した。

札幌本道の開通に合わせ札幌創成橋脇に「北海道里程元標」が設置されたが、島松駅逓前に「六里標」が建てられた。大日本帝国測量部大正5年「中之澤」によれば、その場所は島松川右岸(恵庭側)にある。

(2)何故島松川の南(右岸)だったのか? 

松浦武四郎の西蝦夷日誌(安政5年1858)に「島松川川幅五・六間、橋あり、南に小休所あり・・・島松川中央を以てイシカリとチトセの境」とある。島松川右岸には、江戸時代から旅人の利便のために利用されていた小屋(島松から美々まで道路を開いた山田文右衛門所有か)があったことになる。ここに駅逓所を開設するのが自然だったのだろう。

(3)島松駅逓所の取扱人は? 

駅逓所は勇払場所総支配人山田文右衛門(代理人3名)の名前で請願(明治6年3月)、認可された(同年12月開設)。駅逓取扱人は初代植田礼助、2代目山口安五郎、3代目鶴谷新次郎があたった。鶴谷新次郎が取扱人になった明治10年、中山久蔵は請人(保証人)として名を連ねた。そして、明治17年(1884)久蔵が4代目駅逓取扱人となり、駅逓所が廃止になる明治30年までその経営にあたった。

(4)駅逓所の役割は?

駅逓所は主として人馬の継立、宿泊、御用状(公文書)取扱いを行っていた。馬小屋や馬留場が必要で、馬の世話や接客の常駐人も必要だった。明治15年島松駅逓所には34頭が飼われていたと言う(駅逓会報、林嘉男「ふたつの駅逓」恵庭昭和史研究会2007)。

(5)駅逓取扱人山口安五郎、郵便局取扱役となる 

北海道郵便制度は明治5年札幌本庁に郵便局を置いたのが始まりだが、島松駅逓所は郵便取扱いがなく千歳まで行かなければならなかった。駅逓取扱人2代目山口安五郎は千歳郡郵便取扱人石山専蔵と連名で島松駅へ郵便局設置を申請し(明治9年6月)、同年10月開設、これが恵庭最初の郵便局となった。安五郎は駅逓と道路を挟んだ島松村2番地に住み明治20年まで郵便取扱役を続けている。

(6)駅逓所の建物は元高知藩「漁太止宿所」だった? 

島松駅逓建設陳情書に添付された図面は間口十八間半、奥行六間、高知藩引き継ぎ書の「漁太止宿所(止宿所梁間六間、桁間十六間半、壱棟)」に極めて類似している。漁太止宿所が高知藩撤退後どうなったか記録はないが、解体後に川を利用して島松沢に搬送し駅逓所、ないしは中山久蔵宅に使われたとの説がある(林嘉男「ふたつの駅逓」恵庭昭和史研究会2007)。

(7)恵庭側にあった駅逓所の行方は? 

鶴谷新次郎が手を引いた後の駅逓建物等は山口安二郎が買い戻したと思われる。土地・家屋台帳によれば、土地は山口安五郎→山口信助→菅原某→中島国助と移譲され、駅逓だった家屋(木造柾葺平屋一棟建坪四十七坪五合造作付)も明治39年4月山口安五郎から山口信助が家督相続したものを中島国助に移譲されている。

恵庭市史の「山口安五郎が旅館丸萬を経営していた」との記述、中島国助氏の納屋から発見された「山安萬覚留」の宿泊台帳からも、この建物は明治20年代にも旅人宿舎として利用されていたと思われる。中島国助の代になっても当初は旅館として使われていたと言う。駅逓所だった建物は昭和28年火災で消失するまで恵庭に残っていたことになる(「百年100話」恵庭昭和史研究会1997、林嘉男「ふたつの駅逓」恵庭昭和史研究会2007)。

◆行在所と中山久蔵

(1)明治天皇が北海道巡行で島松沢を通ったのは明治14年(1881)9月2日。当日、明治天皇御一行は中山久蔵宅で昼食をとられた。以降、中山邸は行在所として語り継がれてきた。明治17年久蔵が第4代駅逓取扱人となってからは駅逓所と呼ぶようになり、現在は国指定史跡「旧島松駅逓所(旧中山久蔵宅)」として管理されている。

(2)明治天皇御一行は当初島松駅で休憩をとる予定だったが、中山久蔵が行在所を新築し中山邸が御昼食場所となった。しかし、札幌本庁駅逓課からの御巡行文書は全て島松駅逓所取扱人鶴谷新次郎宛てになっており、御一行の賄い、会食所など恵庭駅で対応している。御一行の接遇は、行在所だけでなく島松駅逓一体となって対応したことが伺える(御巡幸雑書類 明治14年)

(3)明治23年、行在所十周年記念として「駐驛處の碑」(元北海道庁長官永山武四郎書)が裏の丘に建立された。

(4)大正5年、久蔵宅増築部(行在所部分)を広島村が買い上げ修理。昭和8年には「明治天皇島松行在所」として行在所部分のみ指定史蹟となったが、戦後GHQ による明治天皇聖蹟の文化財指定一斉解除指令より昭和 23年に解除。昭和 43 年には、建物全体を修理・復元し「北海道指定史跡 島松駅逓所跡」となった。昭和 59 年に「史跡旧島松駅逓所」となり、7 年かけて大規模な保存修理工事が実施された。

◆クラーク博士が教え子たちと別れたのは何処?

(1)札幌農学校資料によると、クラーク博士と学生たちは明治10年4月16日「島松駅」で別れたことが確認できる。調所校長はじめ職員、佐藤昌介、大島正健ら一期生等20数名が騎乗し、開拓使本陣前で記念撮影をしている。

(2)駅逓中山久蔵宅で休息し、別れ際に「ボーイズ・ビー アンビシャス」の言葉を残したと語り継がれ、北広島教育員会HPもこれを踏襲している。しかし、①当時の駅逓は千歳郡島松村にあった旧駅逓で、現存の国指定史跡の建物ではないこと、②当時の駅逓取扱人は鶴谷新次郎に交代したばかりで、中山久蔵ではないこと、③中山邸は明治14年行在所になったとき増築されており、クラーク離日時の建物でないことなど問題もある。

(3)「駅逓中山久蔵宅で別れた」説は札幌農学校一期生大島正健の書(クラーク先生とその弟子たち)、ないしはここから孫引きした著作物を典拠としている。初版本は昭和12年に刊行されたが、大島正健はその頃病床にあり子息正満に口述筆記させたと言われる。正健は翌年76歳で没するが、その後も改版増補が重ねられている。因みに、大島正健「クラーク先生」文部省中等国語(昭和22)では、「駅逓中山久蔵宅」ではなく「駅逓の家」となっている。

(4)クラーク博士記念碑は、昭和9年に大島正健・佐藤昌介・宮部金吾ら有志によってクラーク博士と分かれた場所を探るべく島松沢を訪れ、行在所(旧中山久蔵宅)裏の丘に記念碑予定地標識を建てた。時を経て、記念碑は昭和25年に道路脇の現在地に建立。宮部博士は設置場所について「当時とは地状が変わっているのと、諸種の事情で・・・」と述べているが、昭和9年の設置場所選定は妥当なものか、諸般の事情とは何だったのか。

(5)恵庭市昭和研究会「百年100話(村上利雄)」「ふたつの駅逓(林嘉男)」では、いくつかの資料と理由を挙げて、クラーク博士別離の場所は島松川右岸にあった旧駅逓だとする方が整合性ありとしている。

(6)駅逓から坂を上り室蘭街道の先まで見渡せる場所が別離の場所だとする話もあるが、確証はない。

(7)恵庭年代記(恵庭市1997)、新恵庭市史通史編(編纂委員会2022)は、クラーク博士別離の場所を島松駅逓(島松川右岸、恵庭市)としている。

(8)“Boys, be ambitious like this old man.”の言葉が最初に語られるのは、明治27年(1894)札幌農学会学芸会機関誌「蕙林」の安東幾三郎「ウ井リヤム・クラーク」だと言う。安東は大島正健の札幌農学校における講演(明治25)を聴いたのだろうと推察されるが、それにしても、クラーク博士に同行した他の一期生から別離の場面を描写した記録が出ていないのはどうしたことだろう。

資料1 札幌農学校資料「明治十年一月以降取裁録」

「明十六日、教頭クラーク氏出発候ニ付、シママップ驛マデ生徒一同見送リトシテ羅越シ申度キ旨願出候ニ付・差遣シ申度ク此段相伺ヒ候也。十年四月十五日」

資料2 札幌農学校資料「明治十年一月ヨリ日誌」

四月十六日晴。一、当直井川洌。一、教頭クラーク氏帰国ニ付森源三付添生徒一同嶌松迄見送事。一、通学生徒者豊平橋迄見送ノ事」

資料3 写真「クラーク博士帰国に際し見送りの教職員学生一同(開拓使旧本陣前)」北海道大学北方資料室151

資料4 大島正健著、大島正満補訂「クラーク先生とその弟子たち」1937帝国教育会、その後増補版は教文館など

札幌の南六里島松駅に達するや、先生は馬をとめて駅逓中山久蔵氏の家に入って休憩し、先生を囲んで別れがたなの物語にふけってゐる教へ子の顔をのぞき込んで一人一人力強い握手をかはし、『どうか一枚の端書でよいから時折消息を聞かせてほしい。では愈々御別れじゃ。元気で常に祈ることを忘れないやうに』と力強い口調で別辞を述べ、ヒラリと馬背に跨ると同時に、“Boys, be ambitious !”と叱呼して長鞭を打ちふるひ、ふりかへりふりかへり、雪泥を蹴立てゝ疎林の彼方にその姿をかき消された。

島松駅逓中山氏の家は後に明治天皇御巡幸の際の行在所になり、その「明治天皇行在所跡」という石碑が建っている。内部のありさまもクラーク先生が愛弟子達と別れの茶を汲みかわされた折と少しも変わっていないという。昭和九年頃なつかしき島松の地にクラーク先生をしのぶ記念碑を建立しようとの儀が有志の間に起こり、別離の地点を承知している佐藤昌介君を煩わし、宮部君その他北大基督教青年会有志相伴って島松に向い、クラーク先生が馬上から自愛こもるまなざしで学生達に呼びかけた土地を探った。そして建設の地を選定して記念碑建設予定地と佐藤君が墨痕あざやかに記した標杭が建てられた。その後故あってその建設は見合わせになったと聞く。

資料5 大島正健「クラーク先生」文部省 中等国語二(2)1947                  

*札幌の南六里、千歳に近い島松駅に着するや、先生はうまをとめて駅逓の家に休憩したが、先生を囲んで別れがたなの物語にふけっている敎え子の顔をのぞきこんで、(中略)力強い口調で別辞を述べ、ひらりとうまにまたがると同時に、Boys, be ambitious! と叱呼して長鞭をうちふるい、振り返り振り返り、雪泥をけ立てて疎林のかなたにその姿をかき消された(文部省 中等国語二(2)昭和22年9月8日発行)。

資料6 宮部金吾博士記念出版刊行会編「宮部金吾」岩波書店1953

*ボーイズ・ビー アンビシャス」と激励の一語を残し、クラーク先生が終生の思い出とした札幌農学校生徒と袂を分かった地島松に、師を偲ぶ記念碑建立の儀が、昭和九年頃有志の間に起こった。九年六月十五日全北大総長佐藤昌介男爵を始め、新島名誉教授に私も加わり、北大キリスト教青年会汝羊会有志は島松に向い、クラーク先生が馬上から慈愛籠るまなざしで決別した土地を探った。当時とは地状が変わっているのと、諸種の事情で、明治天皇行在所裏の丘を建設の地と選定し、予定地の標杭を建てた。蝉声に包まれて佐藤男爵が筆をとり、墨痕鮮やかな標杭が建てられた。その後大戦で、一時この案は案のまま放置されるの止むなきに到ったが、戦後私は「北海道教育界のシンボル、クラーク先生の功績を永く讃ふべし」と提唱した。そこで、伊藤前学長、福田道副知事が中心となり、BBAの運動の一環としてこれが実行にとりかかった。昭和二十五年秋以来、島松決別の地と認めらるる道路沿いの地に北大生及び村民の奉仕で、建設基礎工事は進められ、二十五年十二月に記念碑は完成した。

資料7 岩沢健蔵「北大歴史散歩」北海道大学図書刊行会1986

*行くこと、約二時間。島松宿の駅逓中山久蔵宅に到着する。現在は広島町に属し、すぐそばを千歳川支流の島松川が流れている。何回か上りくだりを繰り返すかえす札幌本道の、ここは低地に位置している。駅逓の建物は、いまもある。駅逓で、一同は各々持参の弁当を開いた

*クラークを語り、その別れの情景や例の国関連した著述を試みる人の全てが、大島のこの書、ないしはここから孫引きした著作物を典拠とすることとなり、ボーイズ・ビー アンビシャスは確乎不滅の金言となってしまうのである。

資料8 札幌市教育委員会編「農学校物語」札幌文庫61、北海道新聞社1992

*札幌の南六里島松駅に達するや、先生は馬をとめて駅逓中山久蔵氏の家に入って休憩し、先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子達一人一人その顔をのぞき込んで、『どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。ではいよいよ御別れじゃ、元気に暮らせよ』といわれて生徒と一人一人握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、“Boys be ambitious”と叫ぶなり長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された(引用:大島正健「クラーク先生とその弟子たち」)。

資料9 蛯名賢造「札幌農学校」新評論1991

*急勾配の坂をくだると、左側に駅逓中山久蔵の家があり、その前を小川が流れ、島松と恵庭の境をなしていた。小川を渡ると、また勾配の急な坂道をのぼらねばならず、それから先は胆振国であった。 一行は中山の家の前の広場で休憩しながら、クラークを囲んで・・・

資料10 北広島市教育委員会「旧島松駅逓所(国指定史跡)」2023

*歴史の舞台としての駅逓所 明治10年、札幌農学校の教頭であったW・S・クラークは、約9か月の任期を終え米国に帰国する際に中山久蔵宅に立ち寄り、「Boys, be ambitious(青年よ、大志を懐け)」という名言を残しました。明治14年には明治天皇が北海道を巡幸した際の行在所ともなりました(北広島教育委員会HP 2023.3.21)」。

資料11 北広島教育委員会「クラーク博士と旧島松駅逓所」2023

*クラークは、教え子らに「Boys, be ambitious(青年よ、大志を懐け)」という言葉を残し、米国への帰途についたといわれています。この有名な言葉は誰もが知るところですが、その舞台となったのがここ北広島市だったのです。その後、教え子らによってクラークと一行が別れた地に記念碑が建てられることとなりました。昭和26年、当時を知る佐藤昌介らの証言から中山久蔵宅(現在の旧島松駅逓所)付近に「クラーク記念碑」が建てられました(北広島教育委員会HP 2023.3.21)。

資料12 恵庭昭和史研究会「百年100話、恵庭の風になった人々」1997

*クラーク博士の別れた舞台は、札幌農学校資料で島松駅頭とされている。駅頭とは島松駅逓を指すのか、それとも島松駅のことなのか。当時、駅と駅逓は混同されることが多かったから判然としないが、いずれにしても中山久蔵直筆の絵図面は、クラーク博士が恵庭側で別れたことを意味している。それなのに、なぜ北広島側に記念碑が建ったのか。それは恵庭側の島松駅も、島松駅逓も古くから取り壊され、跡形もなくなっているのに対し、中山久蔵の駅逓は、修復されて今もクラーク碑横に残ることに起因すると思われる(第七話「青年よ大志を抱け、クラーク博士は恵庭で叫んだ?」文責村上利雄)。

資料13 林嘉男「ふたつの駅逓、クラーク博士は恵庭で叫んだ」恵庭昭和史研究会2007

*クラーク博士と学生達は春先の泥んこ道を馬に乗って来たわけで、その馬を停める場所は駅逓所の馬留めしかない。さらに昼食をとり、お茶を飲んだとすれば、それは民家というより駅逓所の役割。当時、札幌農学校は北海道本庁に属し、その中に駅逓を所管する勧業課もあり、『四月十六日何名、島松駅逓所に立ち寄る』という先触れが入るわけです。その点からも、そういう施設と用意があった島松駅逓に立ち寄ったと考えるのが妥当だと思われる。明治17年に中山久蔵翁が札幌県の申請書に添付した手書きの図面には、駅逓所の向いに島松駅があり、この島松駅で馬を留めたことは殆ど間違いないと思われる。さらに、明治14年のご巡幸の際には60頭の馬がつながれたという記録がある。

島松駅略図(明治14年頃御巡幸の際の位置図、巡幸予定地より提出たもの)には、中山久蔵宅が御昼食行在所、恵庭側にあった駅逓所の向い広場に会食所が設けられている。ここが言わば島松駅で、明治10年クラークは博士一行26人が来た島松駅はこの場所にあたる。明治10年当時中山久蔵宅は民家で、26人もの方々を休息させる場所であったかどうか説得力に欠ける。

資料14 恵庭年代記(恵庭市1997)

*教え子たちに「Boys,be ambitious!(青年よ大志を抱け)」この言葉を残して去っていったことはあまりに有名です。そしてその言葉を交わした場所が、本市の島松沢にあった島松駅逓の駅頭でした

資料15 新恵庭市史通史編2022

*別れた場所については、札幌農学校に関する資料に島松駅逓所であることがわかる記述があり、クラーク博士送別に臨場した佐藤昌介は、後年に島松駅逓で別れたと回顧している。

 (久蔵翁写真は「三村名鑑録」1934から引用)

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