万葉雑記 色眼鏡番外 巻一と巻二の歌々について
今回に二つのコメントが巻一と巻二の歌々についてありました。その二つのコメントについて、弊ブログで思うところを紹介したいとおもいます。ただ、いつものことですが、弊ブログは正統な教育を受けていない者が、正統な論評を受けていないものを下に酔論を垂れ流しているものであることをご承知ください。あくまで、酔っ払いのクダ話です。
さて、コメントは次のようなものです。
万葉集巻2不思議、浅知恵をものともせず比較してみました。
巻1では13番の題詞で中大兄 本名の皇子、御歌を外して見せていました。
巻2では93-95番の歌で内大臣藤原卿として本名を伏せている。
藤原は死の枕元で与えられたもののはず、ことさらに藤原とするのはなぜ。
さらに111番では弓削皇子は額田王に贈与の歌は御歌ではなく「歌」を与えています。
最初に弓削皇子に関しますと、皇子は持統7年(693年)になって浄広弐に初叙位されています。ここから律令体系の蔭位の制度を流用して皇子は天武2年(673年)頃の誕生と推定されています。つまり、誕生年推定が正しいとしますと持統7年以前では未成年皇族のため無位無官、尊称は使用されません。中西進氏の『万葉集 全訳注原文付』では集歌111の歌は天武天皇時代に詠われたと推定されていますから、未成年皇族ですから無位無官です。一方、相手の額田王は天武天皇の妃(または宮中女官:采女頭)ですから内命婦などの官位を持つ立場です。そこで「贈」であり「歌」と云う言葉を使わなければいけなくなります。中大兄と藤原卿については、以前に弊ブログの考え方を「中大兄は誰か 云云」で紹介しましたの省略いたします。
119では弓削皇子は紀皇女を思う歌は御歌4首となる。
対して、集歌119の歌が詠われたのが持統7年以降ですと浄広弐(後の四品に相当)の官位を持つ青年皇族です。したがって、「御歌」と敬称を使う必要が出て来ます。原初万葉集が奈良時代の朝廷関係者により編纂されたとしますと、この二つの表記は正しい扱いとなります。また、藤原鎌足や藤原不比等に関係しませんから、後年に手を入れる必要もなかったと考えます。
110では日並皇子には大名児と念押ししているのに対して藤原卿には安見児。そして95番 安身児得有、安見児衣多利とする念の入れよう。
次に、大名児は本名の可能性があり、標題補注で示す「女郎字曰大名児(おほなご)」は石川女郎=蘇我媼子の可能性があります。ただし、鎌倉時代以降では意図して「蘇我媼子(おほなこ)」を「蘇我娼子(まさこ)」に誤記します。意図した背景に「媼子」は「年上の女性」の意味合いですが、鎌倉時代での「娼子」は「春をひさぐ女性」の意味合いがあり、それを暗に示す意図があります。蘇我娼子は藤原不比等の正室ですが、その藤原氏創始者の正妻に「娼子」と云う漢字を使う精神背景を理解する必要があります。対して集歌95の歌の標題では西本願寺本では「娶采女安見望時(娶ひし采女安見を望し時)」とあり、この采女は近江国野洲郡から贈られてきた「野洲の美人」と云う綽名で「安美(やすみ)」であったかもしれません。歌中の「安見児」の「児」は「嬬」を意味するともしますから、体つきがほっそりした小柄の若い女性の意味合いを持たせた、または官位などを持たない女嬬の身分の立場であったなどを解説するものかもしれません。
これを背景に集歌110の歌の標題では日並皇子尊の歌として「御歌」であり、内命婦などの身分を持つ石川女郎へ「贈」であり「賜」です。対して、集歌95の歌では臣民藤原卿ですから「歌」と表記することになりますし、歌自体が天皇から下賜された采女の女性を見た時の感想ですから、「贈」などと云う場面でもありません。編纂での標題は実に正しい漢文と云うことになります。
参考として、古代の風習からすると、日並皇子=草壁皇子の母方は蘇我氏ですので、袴着の儀式の夜に用意された添伏に蘇我媼子が選ばれる可能性があります。この時、草壁皇子の最初の女が蘇我媼子となります。そのような背景を想像すると、男になったあと、宮中行事などで偶然に再会した女性に思い出の歌を贈るのは不思議ではありませんし、十四歳から十五歳前後の男の子の感想とすると、周囲もほほえましく思っていたかもしれません。
さらに、寄せられたコメントに次のようなものがあります。
103-104では藤原夫人というのが出てきます。
このあたりの比較から万葉集編集者の意図とは何なのでしょうか。
また額田王の7-9と111-113を比較して、ホトトギスの声と113の題詞 読めないもの が9の莫囂円隣之に何か引っかかるのですが、どうなのでしょうか。
また、追加したコメントとして
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟名原瀛真人天皇、謚曰天武天皇
天皇賜藤原夫人御謌一首
集歌103 吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後
訓読 吾(わ)が里に大雪降(ふ)れり大原の古(ふ)りにし里に降らまくは後(のち)
藤原夫人奉和謌一首
集歌104 吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
訓読 吾(わ)が岡の御神(をかみ)に言ひて落(ふ)らしめし雪の摧(くだ)けし其処(そこ)に散りけむ
---何時なのか知りませんが、こんなことを言うのでしょうか
令落 雪之摧之 彼所尓塵家武 などと 壬申の乱があってもですね。
集歌103の歌は天武天皇の雪景色を詠い、藤原夫人の実家の里を軽くからかったもので、集歌104の歌はそのからかいに対する返歌です。ここで、藤原夫人とは大原大刀自または藤原五百重娘、藤原鎌足の娘で新田部皇子の母となります。従いまして、敬称表記を問題としますと、集歌103の歌は天武天皇から妃(律令身分区分では「夫人」)へのものですから「御歌」であり「賜」が正当ですし、集歌104の歌の「奉」も正しいものとなります。原初万葉集の編集者は、その時代では藤原不比等たちを持ち上げる必要はありませんから、当時そのままの身分で標題の漢文を整理していたと考えられます。
参考として、天武天皇は壬申の乱に戦い勝った天皇と紹介されますが、天武天皇は生涯戦場には出馬していません。戦場の武人は高市皇子です。逆に天武天皇は、現在の日本の伝統芸能を整備・育成された御方で、和歌の口調、大和舞、田楽舞、催馬楽、伎楽なども、天武天皇時代に地域々々の鄙のものから形式などが整備されたようです。また、弊ブログでは万葉集に載る相聞・問答も神社や岐で行われていた歌垣が整備・洗練されて宮中で和歌形式で詠われるようになったものと考えています。このような文化クリエーターである天武天皇であればこその集歌103の歌と思いますし、その天皇の性格に合った妃の返歌集歌104の歌と考えます。
最初に紹介しましたが集歌113の歌から集歌115の歌での敬称問題も、歌が詠われた時点での相互の身分と将来の身分が予定された弓削皇子の立場を考えますと集歌111の歌で「御歌」ではなく「歌」でなくてはいけませんが、一方、集歌112の歌で建前上の身分は上の額田王が将来の皇族男子には「奉」でなくてはいけないでしょう。「贈」ではやや不敬になるのではないでしょうか。
話題を変えて、
ご存知のように、聖武天皇やその皇后である光明皇后などの伝説は、鎌倉時代に東大寺などの再建に必要性に応じて全国勧進の一環で創作されたものです。下世話で、寄付金集めの時の作り話です。史実ではありませんし、それらを裏付けるものもありません。そのため、それを信じれば懐風藻に載る爵里などを鎌倉時代以降の説話に合わせるために曲訳せざるを得なくなったりしています。
また、小野小町の東北地方に残る伝説は鎌倉時代に流行した九相図に由来する可能性が非常に高いと考えられます。この九相図には絶世の美女を描く(名を借りる)のが約束事ですので、当たり障りのないところで鎌倉時代では小野小町の名を借用しました。西日本では室町時代になっても檀林皇后九相図の存在などから九相図の成り立ちとその意味するものを庶民も知っていましたが、東北地方では僧侶が九相図を実話と信じ込ませた可能性があります。そこに東北地方特有に小野小町伝説が残ったのでしょう。
斯様に鎌倉時代以降に生まれた説などはその背景を確実に調べる必要があります。ただし、明治から昭和時代のものでは「学者が唱える学説」と云うものを疑う必要があります。例として光明皇后の悲田院の湯殿伝説を現在の学者は史実として信じる人はいませんが、さてはて、昭和時代以前はどうでしょうか。弊ブログで紹介したように律令制度を下に懐風藻を眺めた人はいたでしょうか。はたまた、まじめに遊仙窟で遊んだひとはいたでしょうか。
弊ブログでは日本書紀や続日本紀での藤原氏にとって、百済系貴族にとって都合の悪いことは書き換えられたと考えています。そのため、酔って立つ史実が違います。拙いものですが、弊ブログでの歴史感を弊ブログ内の「実験 小説で万葉時代を説明する」に紹介しています。その中で示す史観で万葉集を鑑賞していますから、標準的な解釈からみれば、与太話であり、酔論です。
今回もまた、長々と馬鹿話を展開しました。眉に唾を付け、ご笑納ください。
今回に二つのコメントが巻一と巻二の歌々についてありました。その二つのコメントについて、弊ブログで思うところを紹介したいとおもいます。ただ、いつものことですが、弊ブログは正統な教育を受けていない者が、正統な論評を受けていないものを下に酔論を垂れ流しているものであることをご承知ください。あくまで、酔っ払いのクダ話です。
さて、コメントは次のようなものです。
万葉集巻2不思議、浅知恵をものともせず比較してみました。
巻1では13番の題詞で中大兄 本名の皇子、御歌を外して見せていました。
巻2では93-95番の歌で内大臣藤原卿として本名を伏せている。
藤原は死の枕元で与えられたもののはず、ことさらに藤原とするのはなぜ。
さらに111番では弓削皇子は額田王に贈与の歌は御歌ではなく「歌」を与えています。
最初に弓削皇子に関しますと、皇子は持統7年(693年)になって浄広弐に初叙位されています。ここから律令体系の蔭位の制度を流用して皇子は天武2年(673年)頃の誕生と推定されています。つまり、誕生年推定が正しいとしますと持統7年以前では未成年皇族のため無位無官、尊称は使用されません。中西進氏の『万葉集 全訳注原文付』では集歌111の歌は天武天皇時代に詠われたと推定されていますから、未成年皇族ですから無位無官です。一方、相手の額田王は天武天皇の妃(または宮中女官:采女頭)ですから内命婦などの官位を持つ立場です。そこで「贈」であり「歌」と云う言葉を使わなければいけなくなります。中大兄と藤原卿については、以前に弊ブログの考え方を「中大兄は誰か 云云」で紹介しましたの省略いたします。
119では弓削皇子は紀皇女を思う歌は御歌4首となる。
対して、集歌119の歌が詠われたのが持統7年以降ですと浄広弐(後の四品に相当)の官位を持つ青年皇族です。したがって、「御歌」と敬称を使う必要が出て来ます。原初万葉集が奈良時代の朝廷関係者により編纂されたとしますと、この二つの表記は正しい扱いとなります。また、藤原鎌足や藤原不比等に関係しませんから、後年に手を入れる必要もなかったと考えます。
110では日並皇子には大名児と念押ししているのに対して藤原卿には安見児。そして95番 安身児得有、安見児衣多利とする念の入れよう。
次に、大名児は本名の可能性があり、標題補注で示す「女郎字曰大名児(おほなご)」は石川女郎=蘇我媼子の可能性があります。ただし、鎌倉時代以降では意図して「蘇我媼子(おほなこ)」を「蘇我娼子(まさこ)」に誤記します。意図した背景に「媼子」は「年上の女性」の意味合いですが、鎌倉時代での「娼子」は「春をひさぐ女性」の意味合いがあり、それを暗に示す意図があります。蘇我娼子は藤原不比等の正室ですが、その藤原氏創始者の正妻に「娼子」と云う漢字を使う精神背景を理解する必要があります。対して集歌95の歌の標題では西本願寺本では「娶采女安見望時(娶ひし采女安見を望し時)」とあり、この采女は近江国野洲郡から贈られてきた「野洲の美人」と云う綽名で「安美(やすみ)」であったかもしれません。歌中の「安見児」の「児」は「嬬」を意味するともしますから、体つきがほっそりした小柄の若い女性の意味合いを持たせた、または官位などを持たない女嬬の身分の立場であったなどを解説するものかもしれません。
これを背景に集歌110の歌の標題では日並皇子尊の歌として「御歌」であり、内命婦などの身分を持つ石川女郎へ「贈」であり「賜」です。対して、集歌95の歌では臣民藤原卿ですから「歌」と表記することになりますし、歌自体が天皇から下賜された采女の女性を見た時の感想ですから、「贈」などと云う場面でもありません。編纂での標題は実に正しい漢文と云うことになります。
参考として、古代の風習からすると、日並皇子=草壁皇子の母方は蘇我氏ですので、袴着の儀式の夜に用意された添伏に蘇我媼子が選ばれる可能性があります。この時、草壁皇子の最初の女が蘇我媼子となります。そのような背景を想像すると、男になったあと、宮中行事などで偶然に再会した女性に思い出の歌を贈るのは不思議ではありませんし、十四歳から十五歳前後の男の子の感想とすると、周囲もほほえましく思っていたかもしれません。
さらに、寄せられたコメントに次のようなものがあります。
103-104では藤原夫人というのが出てきます。
このあたりの比較から万葉集編集者の意図とは何なのでしょうか。
また額田王の7-9と111-113を比較して、ホトトギスの声と113の題詞 読めないもの が9の莫囂円隣之に何か引っかかるのですが、どうなのでしょうか。
また、追加したコメントとして
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟名原瀛真人天皇、謚曰天武天皇
天皇賜藤原夫人御謌一首
集歌103 吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後
訓読 吾(わ)が里に大雪降(ふ)れり大原の古(ふ)りにし里に降らまくは後(のち)
藤原夫人奉和謌一首
集歌104 吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
訓読 吾(わ)が岡の御神(をかみ)に言ひて落(ふ)らしめし雪の摧(くだ)けし其処(そこ)に散りけむ
---何時なのか知りませんが、こんなことを言うのでしょうか
令落 雪之摧之 彼所尓塵家武 などと 壬申の乱があってもですね。
集歌103の歌は天武天皇の雪景色を詠い、藤原夫人の実家の里を軽くからかったもので、集歌104の歌はそのからかいに対する返歌です。ここで、藤原夫人とは大原大刀自または藤原五百重娘、藤原鎌足の娘で新田部皇子の母となります。従いまして、敬称表記を問題としますと、集歌103の歌は天武天皇から妃(律令身分区分では「夫人」)へのものですから「御歌」であり「賜」が正当ですし、集歌104の歌の「奉」も正しいものとなります。原初万葉集の編集者は、その時代では藤原不比等たちを持ち上げる必要はありませんから、当時そのままの身分で標題の漢文を整理していたと考えられます。
参考として、天武天皇は壬申の乱に戦い勝った天皇と紹介されますが、天武天皇は生涯戦場には出馬していません。戦場の武人は高市皇子です。逆に天武天皇は、現在の日本の伝統芸能を整備・育成された御方で、和歌の口調、大和舞、田楽舞、催馬楽、伎楽なども、天武天皇時代に地域々々の鄙のものから形式などが整備されたようです。また、弊ブログでは万葉集に載る相聞・問答も神社や岐で行われていた歌垣が整備・洗練されて宮中で和歌形式で詠われるようになったものと考えています。このような文化クリエーターである天武天皇であればこその集歌103の歌と思いますし、その天皇の性格に合った妃の返歌集歌104の歌と考えます。
最初に紹介しましたが集歌113の歌から集歌115の歌での敬称問題も、歌が詠われた時点での相互の身分と将来の身分が予定された弓削皇子の立場を考えますと集歌111の歌で「御歌」ではなく「歌」でなくてはいけませんが、一方、集歌112の歌で建前上の身分は上の額田王が将来の皇族男子には「奉」でなくてはいけないでしょう。「贈」ではやや不敬になるのではないでしょうか。
話題を変えて、
ご存知のように、聖武天皇やその皇后である光明皇后などの伝説は、鎌倉時代に東大寺などの再建に必要性に応じて全国勧進の一環で創作されたものです。下世話で、寄付金集めの時の作り話です。史実ではありませんし、それらを裏付けるものもありません。そのため、それを信じれば懐風藻に載る爵里などを鎌倉時代以降の説話に合わせるために曲訳せざるを得なくなったりしています。
また、小野小町の東北地方に残る伝説は鎌倉時代に流行した九相図に由来する可能性が非常に高いと考えられます。この九相図には絶世の美女を描く(名を借りる)のが約束事ですので、当たり障りのないところで鎌倉時代では小野小町の名を借用しました。西日本では室町時代になっても檀林皇后九相図の存在などから九相図の成り立ちとその意味するものを庶民も知っていましたが、東北地方では僧侶が九相図を実話と信じ込ませた可能性があります。そこに東北地方特有に小野小町伝説が残ったのでしょう。
斯様に鎌倉時代以降に生まれた説などはその背景を確実に調べる必要があります。ただし、明治から昭和時代のものでは「学者が唱える学説」と云うものを疑う必要があります。例として光明皇后の悲田院の湯殿伝説を現在の学者は史実として信じる人はいませんが、さてはて、昭和時代以前はどうでしょうか。弊ブログで紹介したように律令制度を下に懐風藻を眺めた人はいたでしょうか。はたまた、まじめに遊仙窟で遊んだひとはいたでしょうか。
弊ブログでは日本書紀や続日本紀での藤原氏にとって、百済系貴族にとって都合の悪いことは書き換えられたと考えています。そのため、酔って立つ史実が違います。拙いものですが、弊ブログでの歴史感を弊ブログ内の「実験 小説で万葉時代を説明する」に紹介しています。その中で示す史観で万葉集を鑑賞していますから、標準的な解釈からみれば、与太話であり、酔論です。
今回もまた、長々と馬鹿話を展開しました。眉に唾を付け、ご笑納ください。