竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二六九 今週のみそひと歌を振り返る その八九

2018年06月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二六九 今週のみそひと歌を振り返る その八九

 今回は巻十 寄雪と寄夜の部立に載る歌から、その訓じに関して問題があると思われるものを紹介し、すこし、弊ブログの解釈を紹介しようと思います。
 最初に標準的な訓じとその解釈をヤフーブログ「ニキタマの万葉集」から紹介いたします。

集歌2338 霰落 板敢風吹 寒夜也 旗野尓今夜 吾獨寐牟
訓読 霰降り いたく風吹き 寒き夜や 旗野に今夜 吾が独り寝む
意訳 あられが降り強い風が吹く寒い夜なのに、はて この旗野で、今夜は独り寝しなければならないのか

集歌2350 足桧木乃 山下風波 雖不吹 君無夕者 豫寒毛
訓読 あしひきの 山のあらしは 吹かねども 君なき宵は かねて寒しも
意訳 山のあらしはまだ吹いてはいませんが、あなたの居ない夜は、本当にかねて思った以上に寒いですよ

 今回、弊ブログで問題視していますものは集歌2338の歌では二句目「板敢風吹」であり、集歌2350の歌でも二句目「山下風波」の訓じです。最初に紹介しました「ニキタマの万葉集」では標準訓から「板敢風吹」を「いたく風吹き」、「山下風波」を「山のあらしは」と訓じています。一般的にはこの標準訓について問題視する人は少ないのではないでしょう。
 一方、弊ブログでは次のようにそれぞれの歌に訓じを与えています。

集歌2338 霰落 板敢風吹 寒夜也 旗野尓今夜 吾獨寐牟
試訓 霰(あられ)落(ふ)り塡(は)むこ風吹き寒き夜や旗野(はたの)に今夜(こよひ)吾(あ)が独り寝(ね)む
試訳 霰が降り、風が粗末な小屋の板の間から吹き込み寒い夜です。貴女が私の訪れを許してくれないと、この旗野で今夜は、私は独り野宿するのでしょう。

集歌2350 足桧木乃 山下風波 雖不吹 君無夕者 豫寒毛
訓読 あしひきの山し下風(おろし)は吹かねども君なき夕(よひ)はかねて寒(さむ)しも
私訳 葦や桧の茂る山からの吹き降ろしの風は吹かないでしょうが、貴方のいらっしゃらない今宵は、きっと肌身に寒いことでしょう。

 集歌2338の歌は強いて云うと難訓歌に属するもので、原歌の「板敢風吹」の「敢」は、一般に「玖」の誤記として「いたく風吹き」と訓みます。ただし、板聞(イタモ)、板敢(サカヘ)、板暇(イタマ)等の別訓があります。つまり、西本願寺本万葉集の表記のままですと適切な訓じが得られない歌と云うことになります。対して、弊ブログは西本願寺本万葉集の表記を変更しないで訓じることを原則としていますので、その原則に従い試訓を考察します。その考察からは原歌表記を尊重して音韻での「敢」の反切上字が「古」であることから「板敢」を「はむこ=塡むこ」と訓み、意味としては板の隙間から強いて取り込むとします。板敢を「サカヘ」と訓じるものについては「サ+カへ」が漢字からの直読みと思われますが、板を「サ」と読む由来・根拠などを調べ切れていませんので、訓じの紹介に留めます。実に申し訳ありません。
 なお、「板敢風吹」は二句目ですので原則七音です。風吹を「カゼフキ」と訓じますと板敢は三音で訓じるという縛りがあります。試訓はこのような縛りを踏まえる必要と歌が歌である読解での意が通る必要があります。漢文的には「板に敢えて風が吹く」と云う意が汲み取れますし、歌全体には漢文調の感覚があります。
 次に集歌2350の二句目「山下風波」は伝統では嵐と云う漢字を分解して「山の下に風」とし、山下風は嵐と云う漢字への遊びとします。つまり、戯訓です。ところが、二句目ですから和歌としては七音でなければいけません。そこで「山下風波」を「山の嵐は」と訓じることになります。しかしながらこれですと、「山の下に風」とはなりません。ただ、「下に風」です。ここに弊ブログは異議を唱えます。確かに「山の下に風」として「嵐」と読むと面白いのですが、歌の表記と和歌の規則からはそのようには読めないのです。
では、どうしましょう。日本には天武天皇の新字と云う漢字があり、これが日本独特の漢字である国字の由来とされています。その国字に「下に風」と書いて「颪(おろし)」と読む山から吹き降ろす風を示す漢字があります。弊ブログでは歌がそのものに詠う「颪」の方を採用したいと考えています。「颪(おろし)」と云う漢字は嵐のような有名で頻度のある漢字ではありません。また、万葉集、古事記、日本書紀、続日本紀にも使われない漢字です。そのために従来の読解では「颪」が得られなかったのでしょう。ただ、今日ではWord IMF Pad手書き検索では瞬時に得られ、それをネット検索すると国字であるとの情報も瞬時に得られます。
ひどい世の中になったものです。

 おまけとして、
 原歌表記に対する訓じに問題は無いのですが、ままに原歌を訓じたとき、それで歌意があっているのかどうか、不安な歌を紹介します。最初に標準的な解釈を紹介し、最後に弊ブログでの解釈を示します。

集歌2344 梅花 其跡毛不所見 零雪之 市白兼名 間使遣者
標準 梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使(まつかひ)遣(や)らば
意訳 どれが梅の花なのか、見分けがつかないほど降る雪のように、目立って(あなたとの関係が人にわかって)しまうでしょうね、使いをあなたに遣ったならば。

 時代性として奈良時代の梅の花は現代で云う野梅系に分類される早咲きの白梅です。そこから万葉集の見なし技法でのお約束では梅の花びらが散る様を雪が舞う姿に見、逆に枝先に積もる雪を梅の花と見なします。
 ところが集歌2344の歌で、前半では梅の花を隠し、積もる雪と見間違うようにしっかりと雪が降る様を詠います。これはお約束の表現方法です。対して、後半では白雪が降る様に人ははっきりと(いちしろく)と比喩と縁語用法で、妻問いを予告する使者が人目につくでしょうねと詠います。およそ、前半部分と後半部分とがギクシャクするような比喩・見なし技法の用法です。
 すると、二句目「其跡毛不所見」の解釈が違うのでしょうか。標準的には見立て技法を前提に「見分けがつかない」の意味合いを重視しますが、それ故に歌の解釈がギクシャクするのでしょうか。すると、漢字表記通りに「どこにあるのか判らない」と解釈すべきなのでしょう。ある種、大雪のような雪の降り様を表現しているのかもしれません。

訓読 梅し花それとも見えず降(ふ)る雪しいちしろけむな間(ま)使(つかひ)遣(や)らば
私訳 梅の花が、それがどこにあるのか判らないほどに降る雪。その降る雪がはっきりと見えるように、きっと、人目に付くでしょうね。妻問いの使いを貴女の許に送ると。


 一般に紹介される標準訓とは違う、ある種、言い掛かりのような弊ブログの解釈を紹介しました。正統な学問からしますと与太話ですので、それを前提でお願いします。
 すこし、弊ブログの舞台裏を紹介しましたが、集歌2344の歌のような訓じが同じで解釈が違う場合は特段にそのような事情を紹介せずに「私訳」を載せています。時に標準解釈と違うものがあるのはこのような事情です。よろしく、ご配慮ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする