竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 八八 「鳥翔成」の歌を鑑賞する

2014年11月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 八八 「鳥翔成」の歌を鑑賞する

 今回は大変にズルを致しました。多くをインターネット上から引用してしまいました。それを最初にお詫びいたします。
 さて、今回は巻二に載る山上憶良が詠う集歌145の歌を鑑賞致します。この山上憶良は遣唐使の秘書官的な立場で遣唐使の一員に無位無姓の立場から抜擢され、その後は律令時代の上級官僚に昇進、さらに東宮侍講を勤めたほどの人物です。その為、彼の作品の背景には四書五経、仏教や道教経典、古事記や万葉集の前身である古集・人麻呂歌集、さらに藤原京時代に生まれた神道や現御神の思想があります。現代なら知識のスーパーマンです。そのような彼の作品鑑賞ですから、手強いです。
 今回、鑑賞する集歌145の歌を紹介しますと、次のようになっています。

山上臣憶良追和謌一首
標訓 山上臣憶良の追(お)ひて和(こた)へたる謌一首
集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
試訓 鳥(とり)翔(かけ)りあり通(かよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
試訳 皇子の生まれ変わりの鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、人も神も何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。

 なお、この歌の初句「鳥翔成」が難訓とされており、現在もまだその句の解釈に論議のある歌となっています。試訓で紹介したものは個人の考えであって、標準的なものではありません。そこで、歌の鑑賞の手始めに和歌鑑賞の分野においてインターネットでは有名なHP「千人万首」からこの歌の標準的な解説を引用いたします。

<千人万首 山上憶良>より引用
山上臣憶良の追和する歌一首
翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
【通釈】皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては何度も結び松を見たであろうが、人が知らないだけで、松はそのことを知っているだろう。
【語釈】◇翼なす 原文は「鳥翔成」で、難訓。「つばさなす」の訓は賀茂真淵に拠る。「鳥のように」ほどの意か。◇あり通ひつつ (有間皇子の御霊は)何度も空を行き来しながら。
【補記】大宝元年(701)の紀伊行幸で詠まれた長意吉麻呂の結び松の歌「磐代の岸の松が枝結びけむ人は還りてまた見けむかも」に和した。「結び松」は有間皇子の故事に因む。遣唐使に任命される前後の作か。

となっています。
 一方、『万葉集』の原文引用では有名なバージニア州立大学公開の電子データでは次のようになっています。
<Manyoshu ;University of Virginia Library Electronic Text Center>より引用
[題詞]山上臣憶良追和歌一首
[原文]鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
[訓読]鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
[仮名]あまがけり、ありがよひつつ、みらめども、ひとこそしらね、まつはしるらむ
[左注]右件歌等雖不挽柩之時所作<准>擬歌意 故以載于挽歌類焉

 このように初句「鳥翔成」については、色々な訓があります。ただ、歌の鑑賞では紀伊行幸で詠まれた有間皇子の故事に因んだ「結び松」が背景にある歌ですから、鑑賞内容について異同はありません。しかしながら作品鑑賞に焦点を当てますと、有名歌人である山上憶良の最初期の作品がきちんと訓めないことに万葉集研究家の困惑と苛立ちがあるようです。
 参考情報として、この集歌145の歌の製作年については、巻一に載る集歌34の歌と巻九に載る集歌1716の歌との関連性を考慮して、山上憶良は朱鳥四年(690)九月(『日本書紀』では持統天皇四年九月)の御幸の折、それに従う川嶋皇子に扈従して紀伊国の磐代を訪れたときに皇子の意を受けて代作した可能性があります。憶良は彼の作品群から斉明天皇六年(660)頃の生まれの人と推定されていますから、時に集歌145、集歌34と集歌1716の歌は彼が三十歳の時のものかもしれません。一方、「千人万首」では集歌146の歌の標題から推定される大宝元年(701)、彼が四十歳の時の作品説の方を採用しています。なお、本ブログでは持統天皇四年九月の持統天皇紀伊国御幸説の方を採用します。

幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作
標訓 紀伊國に幸(いでま)しし時に、川嶋皇子の御(かた)りて作らしし謌 或は云はく「山上臣憶良の作」といへり。
集歌34 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武
訓読 白波の浜松し枝(え)の手向(たむ)け草幾代さへにか年の経(へ)ぬらむ
私訳 白浪のうち寄せる浜辺にある松の枝に懸かる手向の幣(ぬさ)よ。あれからどれほどの世代の年月が経ったのでしょう。
一云 年者經尓計武
一(ある)は云はく、
訓読 年は経にけむ
私訳 年月を経たのだろう。
日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也
注訓 日本紀に曰はく「朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊國に幸(いでま)す」といへり。

標訓 山上(やまのうへ)の歌一首
集歌1716 白那弥之 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄經濫
訓読 白波し浜松し木の手(た)向(む)け草(くさ)幾世(いくよ)さへにか年は経ぬらむ
私訳 白波の寄せる浜の浜松の木に結ばれた手向けの幣よ。あれからどれほどの世代の年月が経ったのでしょうか。
右一首、或云、川嶋皇子御作謌。
注訓 右の一首は、或は云はく「川嶋皇子の御(かた)りて作(つく)れる歌なり」といへり。


 ここで、テーマとしました集歌145の歌に戻ります。
 難訓歌とされるこの歌の初句「鳥翔成」の訓みについてはインターネットで調べますと、次のような解説に出会うことが出来ました。それを紹介します。

<河童老「万葉集を読む」;『万葉集』を訓(よ)む(その222)>より引用
 なお、本歌は、1句の訓に諸説があり、未だに定訓のない、いわゆる難訓歌の一つである。写本に異同はなく、原文は次の通り。
鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
 1句「鳥翔成」は、その文字から「鳥が翔るように」の意を持つことは容易に想像できるのだが、それを5音の句に訓むことがむつかしく、間宮厚司『万葉難訓歌の研究』によれば、16種類の訓みが提唱されていることになる。稲岡耕二『萬葉集全注』が、この句について、要点をうまく押さえながら、諸説の紹介を行い、簡潔にコメントを付けているので、少々長くなるが次に引用する。
 旧訓トリハナスであったのを、真淵の考に「羽して飛ものをつばさといふ、成は如也。今本とりはと訓しはわろし、とりはてふ言はなき也」として、ツバサナスの新訓を提出した。略解にこれを継承し、翔は翅の誤字かとも言う。攷証には、これに対してカケルナスと訓むことを記し、新考にはトトビナスの訓も見える。佐伯梅友「鳥翔成」(短歌研究昭和十八年十月)には、鶏鳴(あかとき)(一〇五)・馬酔木(あしび)(一六六)・相競(あらそふ)(一九九)・浦不楽(うらさび)(二一〇)・不怜(さびし)(二一八)・得物矢(さつや)(二三〇)・五十戸良(さとをさ)(5・八九二)・五月蠅(さばへ)(5・八九七)などと同様の義訓として扱っており、アマガケリという新訓を示している。難訓の個所の一つで、戦後の諸注でも定訓はまだ得られていない。澤瀉注釈には「ツバサナスでは翼の形を云つてるやうで言葉が足りない。カケルナスでも鳥の文字が生きなくて、拙劣な句となる」と評した上で、佐伯説のアマガケリを採用。窪田評釈にも「神霊の行動を叙する語としては、最も妥当なものであり、現に憶良の巻五(八九四)にも用いている例がある」と、アマガケリを採る。そのほか古典集成・講談社文庫なども、とくに理由を記してはいないが、この訓によっている。一方、佐佐木評釈・古典全集にはツバサナスと訓み、とくに後者には高知県長岡郡国府村(南国市)の方言に、鳥類を意味するトリツバサという語のあること、嬰児が死んだらトリツバサになると言われているという注記(土佐民俗叢書一)を付す。今までに示された訓の中では、アマガケリとツバサナスの二訓が注目されるだろう。原文に「鳥翔成」とあって同種の例は「入日成」「鶉成」のように「~ナス」と訓まれるのが一般である。山田講義に、「翔」は動詞をあらわす文字で名詞を表わす文字でないこと、下のアリガヨフに対してツバサはしっくりしないこと、鳥のことをツバサと言った例も、魚のことをヒレと言ったような例も存しないことなどを挙げて、ツバサナスとは訓みえないだろうと推定しているのは、詳細な考察でもっともだと思われるが、なお、ツバサナスの訓を完全に否定することにはならないようだ。まして古典全集の頭注に見られるようにツバサで鳥類を意味する場合があるとすれば講義の説の迫力はかなり弱められるに違いない。佐伯説のアマガケリは、魅力的な訓である。憶良の好去好来歌(5・八九四)に「天地の 大御神たち 大和の 大国御霊 久方の 天のみ空ゆ 阿麻賀気利 見渡し給ひ」と歌われているし、続日本紀神護景雲三年十月詔に「…朕必天翔給天見行之退給比…」ともあって、神霊や人の魂について用いられているので、有馬皇子之場合にもふさわしいように思われる。しかし、佐伯説のようにアマガケリと訓むべきものとすれば、なぜ憶良は続紀宣命のように「天翔」とするか、八九四歌のように仮名書きにしなかったのだろう。「鳥翔成」を義訓としても、アマガケリと訓ませるのはかなり無理を伴うように思う。佐伯説に挙げられている鶏鳴・馬酔木・不怜・五月蠅などの義訓の例は正訓字表記の困難なものであると考えられるのに、アマガケリの場合はアマ(天)にしろカケリ(翔)にしろ容易に正訓字の表記を想起させることばであって、とくに義訓として「鳥翔成」と記さねばならない理由を見出しがたいのである。旧訓以来「~ナス」と訓まれることが多かったのも、理由のあることと思われる。トトビナスとか、カケルナスとかは、句として拙劣に過ぎるだろうが、ツバサナスならばアマガケリに対して、音調の上からも遜色はあるまい。「~ナス」と訓むのが穏やかなことと、「翔」は、あるいは「翅」の誤字かも知れないことを併せて、いちおうツバサナスにより、後考を俟ちたい。

 非常に長い引用を致しました。なお、引用した文は引用の引用で成り立っていますので、そこは注意をお願いいたします。
 本来ですと初句「鳥翔成」を素人感覚に従い素直に「トリカケリ」と訓めば良いのですが、その場合、研究者には「翔」と云う字は主に動詞で使われる字ですから句末の「成」と云う字との接続が気持ち悪いようです。それが文中の「山田講義に、『翔』は動詞をあらわす文字で名詞を表わす文字でない」と云う説明になっているのでしょう。そして、句末の「成」の字を『万葉集』に調査しますと「~なり・なる」と訓むのが大半であるため、「トリ+xx+ナリ」のような形で訓むべきであるとの意見や学会の空気に支配されていると考えられます。そのため、本来なら「成」の字よりもより重要であるはずの「翔」の字の方に対し色々な訓みの解釈を持ち出しているのでしょう。俗に言う「議論の為の議論により、本末転倒」が生じていると推定します。
 ところが、現代はインターネットの時代で古典文献検索は簡単に行える時代です。「鳥翔成」を「トリカケリ」と訓めない理由の一つである「『翔』は動詞をあらわす文字で名詞を表わす文字でない」と云うものを調べてみますと、以外にそれは日本語からの漢文への思い込みなのかもしれません。律令体制での官人登用試験の項目に四書五経があり、その中の易経に次のような「翔」と云う字を持つ文章があります。

原文 象曰、豊其屋、天際翔也
訓読 象に曰く、其の屋を豊かにするとは、天際(てんさい)に翔(かけ)るなり。

 つまり、「孔子、魯人也」と同じような表現ですから漢詩体和歌において「成」を「也」と同じような助詞のようなものと考えると、律令体制が整備される過程、または、それが実行されていた藤原京から前期平城京時代の官僚にとっては大和言葉表現での「鳥翔成」の句を「トリカケリ」と訓んでも違和感のない表現なのです。ここで、『説文解字』によると「成」の文字について「成、就也」と解説します。そうしたとき、大和歌で初句を「鳥翔也」と表現するよりも「鳥翔成」と表現し、その「成」の字に「也」の訓みと「就」の意味とを合わせ持たせたと考えるのが普通ではないでしょうか。
 参考として「上代文献に於ける『野』字の訓」(濱田數義)の論文では「奴」と「努」との混用など『万葉集』における用字事例を取り上げ、濱田氏はその論文で憶良には彼特有の特殊な用字法があると指摘しています。そして、この「奴」と「努」との混用状況は「記紀」に見られるものと同様なため、憶良は『古事記』などの編纂に関与したか、多大な影響を受けているとしています。この面からしますと、『万葉集』だけからの文字用法の調査から「鳥翔也」は「トリ+xx+ナリ」のような形で訓むべきであるという態度は、作品が憶良のもの、それも最初期のものであることからしますと採用されない可能性があります。
 当然、「成」は「なり」、「也」も「なり」とは訓めるが、「鳥翔成」の表現で「成」を「也」と同等な意味合いで使ったと解釈するのは不適切だとの指摘は至極正当な非難だと思います。ただし、「鳥翔成」を義訓扱いとして「アマガケリ」や誤記説を導入の上で「ツバサナス」と訓む古風よりも、まだ、自然体と考えます。ただ、その時、研究テーマとして取り上げ易い「難訓」と云うものは生じません。論文を一つ、損することになります。
 ここでは、やはり、以上のような論点からの帰結で個人の試訓を採用したいと考えます。

集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
試訓 鳥(とり)翔(かけ)りあり通(かよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
試訳 皇子の生まれ変わりの鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、人も神も何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。

 終わりに、<河童老「万葉集を読む」;『万葉集』を訓(よ)む(その224)>でも指摘されていますが、山上憶良の作品には『古事記』や『延喜式祝詞』などとの共通点が多々見られるとします。そてて、その『古事記』には倭建命の故事に関係して次のような文章があります。文章は「八尋白智鳥」と「翔天」とで分けられますが、文中に「鳥翔」と云う文字の組み合わせが見られるのは興味があるところです。

『古事記』 倭建命の歌竟即崩の件より
於是化八尋白智鳥翔天而向濱飛行

 和歌の分野では山上憶良は努力型の秀才タイプの人物と思います。一方、柿本人麻呂は天才肌タイプの人物ではないでしょうか。努力型の憶良に詩中に使う用字について、すべての作品に完璧を求めるのは酷な話だと考えます。『万葉集』から推定すると、今回、取り上げました集歌145の歌は山上憶良三十歳にして初めて宮中の詩歌グループへ参加した、記念する作品の位置にあります。そのためでしょうか、それとも旅先での即興のためでしょうか、使われる用字は結構、意字と音字とがバラバラに使われています。それでいて、歌のスタイルは常体歌でもありません。本作品への評価の時、人麻呂のものを基準として比較の上で表現スタイルを語るのはいかがなものかと考えます。山上憶良は類聚歌林を編み、それにより和歌の研究が進んだと考えます。そのため、筑紫文壇に参画するまでは、漢学者のような人物と考えるのが良いのではないでしょうか。なお、これも表記スタイルを下にしたものですから「訓読み万葉集」に翻訳したものでは見えない世界ではあります。
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