竹取翁と万葉集のお勉強

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偶然の一致? 和歌と漢詩

2009年09月17日 | 万葉集 雑記
偶然の一致? 和歌と漢詩

 普段の漢詩の解説では、漢詩は発声においてバランスから韻を踏むことが大切であり、その整った形は五言や七言の絶句や律詩とするようです。また、万葉集には漢語の表現を使用した歌があります。次の集歌1700の歌で使われている「金風」の「金」の用字がそうです。これは、陰陽五行の思想に基づくものですから、音を借字する万葉仮名の意味合い以外に漢語や漢詩の影響があったとしても良いのではないでしょうか。

集歌1700 金風 山吹瀬乃 響苗 天雲翔 鴈相鴨
訓読 秋風に山吹(やまふき)の瀬の鳴るなへに天雲(あまくも)翔(か)ける雁に逢へるかも
私訳 雲行き怪しい秋風の中に山吹の瀬の音が高鳴るとともに、空の雲に飛び翔ける雁を見るでしょう。

 ただ、理解しないといけないのは、漢詩が最初に詠われたときから韻を踏む五言や七言の絶句や律詩が存在したわけではありません。韻を踏む漢詩の歴史は、インド仏教の音韻学を取り入れた南北朝斉の武帝の永明年間(483-492)以降の「永明体と称される漢詩」の流行が最初とされています。そして、その永明体の漢詩が広く詠われるようになったのは唐代と云われています。つまり、時代と歴史から韻を踏む五言や七言の絶句や律詩の形式論を持って、日本の近江・飛鳥時代の歌を評価することは出来ないのです。それは、ちょうど、和歌において一字一音で表す万葉仮名表記の成立に百年の歴史があるような姿に似て、一字一音の万葉仮名表記の草仮名表記である古今和歌集以降の歌論で、漢語や漢字の持つ字の力を重視した本来の万葉集の歌を評価できないことに通じます。
 この中国や日本の歌の形式の歴史から見たとき、人麻呂時代の中国(隋・初唐)では、やっと韻を踏む五言や七言の絶句や律詩などの漢詩のルールが整い、笛や銅鑼に合わせて歌う「賦」から近世の漢詩スタイルで「詩」を吟じるようになって来ました。その五言絶句の源流にあるのが六国の宋代に現れ大流行した子夜歌で、呉声歌曲と呼ばれる南朝歌謡の一つです。
 時代や当時に日本で使われていた「呉音の中国語」の地域性から推測すると、額田王や人麻呂たちは和歌を創作するのに、この呉声歌曲に代表される南朝歌謡を参考にした可能性があります。南朝歌謡以前の漢詩は、おおむね、儒学が大切にする「楽」のように笛や銅鑼を伴う楽奏の儀礼的な「賦」や「楽府」、儒教的価値観を持つ説文的な「辞」の形式ですから、口吻で詠うものではありませんでした。つまり、漢字(漢語)で詩を表し、主に女性が娯楽的に口吻で詠う呉声歌曲は、額田王や人麻呂たちの和歌に通じるものがあるのではないでしょうか。
 このような前提条件で、額田王の集歌1606の歌と呉声歌曲「華山畿」を見比べて見てください。制作年代は約150年の時間差がありますが、歌の題材及び場面と発想はまったく同じものです。ただし、その呉声歌曲の伝来の時期を考えると斉明天皇の頃かもしれません。また、飛鳥・平城京時代の日本人は漢語を呉音発音で行っていますし、額田王は渡来系氏族の出身ともされていますから、集歌1606の歌の背景には非常に興味あるところです。また、古事記の歌謡や万葉集の雄略天皇の御製に見られる歌謡と万葉集の和歌(短歌)では、その表現方法に大きな相違があります。
 和歌での、その歌の表現方法の時代における相違を思う時、人麻呂の古体歌の表現の由来は、いったい何処なのでしょうか。

額田王思近江天皇作謌一首
集歌1606
君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
訓読 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸(やと)の簾(すだれ)動かし秋の風吹く
私訳 あの人の訪れを私が恋しく想って待っていると、あの人の訪れのように私の屋敷の簾を揺らして秋の風が吹きました。

六国時代の宋・斉の呉声歌曲「華山畿」より
夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
訓読 夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと
所歓:女性の寝所で歓びを与える人、転じて恋人のこと

 集歌1606の歌も華山畿も、ともに女性歌人の歌です。先にも紹介しましたが、発想的には非常に似たもので、その相違は日中の言語表現の差だけのようです。
 さて、正式の日中交流を小野妹子の遣隋使以降としますと、608年頃から隋や唐の文物が本格的に渡来してきたと考えられます。つまり、額田王の集歌1606の歌が詠われるまで、わずか40年ぐらいなのです。ここで、万葉仮名の表記に注目して人麻呂の初期の歌を、漢詩の雰囲気で見てみます。

人麻呂歌集より
集歌2240 誰彼我莫問 九月露沾乍 君待吾
訓読 誰(たれ)彼(かれ)を吾に莫(な)問ひそ 九月の露に濡れつつ 君待つ吾そ
私訳 誰だろうあの人は、といって私を尋ねないで。九月の夜露に濡れながら、あの人を待っている私を。

 この表記を見るとき、人麻呂もまた呉声歌曲の表現方法にヒントを得ていたのではないかと想像してしまいます。その私の想像を判り易くするために、集歌2240の人麻呂の歌の詩句の順番を入れ替えて遊んでみますと、次のような形が現れてきます。これを先ほどの華山畿と並べて紹介します。

君待吾 誰彼我莫問 九月露沾乍
君待つ吾 誰れ彼れと我に問ふなかれ 九月の露に濡れいるを

夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと

 上段が日本語の和歌の変形で下段が中国語の漢詩です。当然、日本語と中国語では語調が違いますから和歌の変形になっています、しかし、不思議な世界です。呉声歌曲は宴や酒楼で女性が詠う娯楽の歌謡とされていますから、和歌が呉声歌曲に関連するものならば、娯楽として恋唄が主要テーマとなり、集団歌謡の旋頭歌から単独口唱歌の短歌となるのは必然です。また、日本で歌垣における掛け合いの男女の相聞歌と同様に、中国の呉声歌曲においても重要なテーマです。
 これは偶然でしょうか、これもまた万葉集の主要テーマと重なるものです。私は、人麻呂のいわゆる古体歌(特に最初期の5字+5字+3字の表現)は、人麻呂達が漢詩から和歌(短歌)を築き上げる過程の一端を示唆するものではないかと想像しています。

 どなたか、この方面に詳しい方に正論を教えていただければ幸いです。色々と探していますが、漢語漢詩と初期和歌(古体歌)の関係を簡単に説明したものはなかなか見つけられません。発声学に依るものはありますが、詩自身に注目したものは白川静氏のもの以外について見つけられていません。
 また、岩波文庫「中国名詩選」などを眺めていて感じることですが、距離感や時間の流れを示す修辞としての自然の状況を歌う詩句はありますが、山野河海の「自然自体」の情景を歌の直接のテーマとしたものはあまり見つけることが出来ませんでした。漢詩が、儀式での賦や贈文の辞などの「人」がテーマの中心だったからでしょうか。そうしたとき、万葉歌人の阿部仲麻呂と王維や李白との関係が非常に気になります。場合によっては、人の介在を必要としない日本人の「自然」の情景に対する感性について、晁衡(阿部仲麻呂)を通じて王維や李白に影響を与えた可能性があるのではないでしょうか。
 当時、人の介在を必要としない日本人の「自然」の情景を詠う詩人の代表が柿本人麻呂です。紹介する人麻呂が詠う集歌1816の歌には、中国人の詠う漢詩とは違い、そこには人の姿はありません。夕刻に西に沈み逝く太陽の光と東の弓月が嶽の稜線を昇りゆく残照の光の帯がテーマです。明るい山稜が刻の移り行きで光の帯を狭め、最後に弓のような光の帯となる光と闇です。そして、その光は蜻玉のように妖しく色変わりするのです。この歌の世界は、その光の帯と霞の懸った闇の山容のコントラストの美しさにあります。

集歌1816 玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏微
訓読 玉(たま)蜻(かぎ)る夕さり来れば猟人の弓月が嶽に霞たなびく

 阿部仲麻呂が遣唐使として唐に赴いた奈良時代、人麻呂歌集は世に広まり、山上憶良の類聚歌林も人に知られていたと思います。阿部仲麻呂が、晁衡として漢詩を詠ったとき、そのベースには漢詩から和歌を発展させ、その進歩を遂げて最高水準に達した和歌から漢詩を見直した感性があったのではないでしょうか。
 ここで、晁衡(阿部仲麻呂)より少し前に二人の日本人が中国で同じテーマで歌を詠ったものを紹介します。二人は帰国を同じくする遣唐使の一員と思われ、同じ詩歌の題材です。そこから、私は同じ宴会で披露された詩歌と思っていますが、一人は和歌で、もう一人は漢詩で望郷の思いを詠っています。

山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌
標訓 山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌
集歌63 去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
訓読 いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ

釋辨正 二首より一首
五言 在唐憶本郷 一絶     在唐憶本郷
日邊瞻日本          日邊 日本を瞻み
雲裏望雲瑞          雲裏 雲瑞を望む
遠游勞遠國          遠游 遠國に勞し
長恨苦長安          長恨 長安に苦む

 以前に紹介しましたが、山上憶良は貧窮問答に見られるように美しい対句の漢語で歌を歌える人物ですし、人麻呂時代の和歌を研究した人物です。その遣唐使通訳である彼が、あえての在唐での和歌です。
コメント (4)
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