読書日記

いろいろな本のレビュー

ヒトラーの裁判官フライスラー ヘルムート・オルトナー 白水社

2017-06-04 09:48:02 | Weblog
 フライスラーはナチスドイツ時代の人民法廷長官(第一部部長)で1942年8月に49歳で就任し、国家反逆罪等で多数の市民に死刑を言い渡した。その実態を著者は次のように述べる、判決には部内で協議する必要はなかった。部のメンバーが異なる意見を出すようなことがあると、フライスラーは熱弁をふるい、下手に触れれば手が切れるような鋭さで応酬したので、誰も異を挟むことができなかった。採用されたのは、ほとんどいつもフライスラーが予め決めていた判決文だった。人民法廷の判決は「我らが民族の継続的な自己浄化」であるという彼の根本思想に違わず、フライスラーは死刑判決を連発した。人民法廷が1942年に言い渡したほぼ1200件の死刑の内、半数以上の約650件がフライスラーの第一部によって下されたものであった。翌1943年でも1662件の死刑の内、約半数の779件がこの第一部によるものだった。1944年でも2100件の死刑の内、第一部の下したものは886件だったと。
 法廷でフライスラーの前に立たされた被告はほぼ死刑になったということだ。その罪状というのは、些細な体制批判、ヒトラーの悪口などで、普通ではどう考えても死刑とはなりえないものばかりである。たとえば、ヒトラー暗殺未遂事件に関して、「ついてなかったわね」と発言した女性に対して、民族と総統閣下と帝国に反逆したということで死刑が言い渡された等々、反論を一切許さぬ姿勢は裁判とは言い難い。これを支えていたのが、市民間の密告の常態化である。これは戦後の東ドイツに受け継がれた。
 フライスラーはいわばヒトラーという虎の威を借る狐のようなもので、典型的な権力依存症といえるだろう。元々は優秀な弁護士だったが、ナチスに入党してから党同志の弁護人として多数の刑事裁判にして、帝国司法省司法次官を経て人民法廷長官に上り詰めた。敗戦に伴って戦犯として裁かれるはずが、1945年2月3日、ベルリン空襲の際に被弾して死亡した。他の裁判官たちは戦犯として起訴されたが、ただ法に従っただけで悪意はなかったということで、戦後何年かして法律家として西ドイツなどで復活している。著者はこれを追求が甘いと厳しく批判している。上からの命令に従っただけだというのはアイヒマンを始めとする戦犯の決まり文句だが、裁判官を裁くというのは結構難しいのがよくわかった。法に従って粛粛と死刑判決を下しただけだという言い訳を罪に問えないのはすっきりしない。フライスラーが生き残って裁かれたとしたらどうなっていただろうか。許されて後、弁護士として復活したのだろうか。本書はその問題を読者に投げかけている。