本書の初出原稿は1983年の週刊朝日で、今から34年前のことである。南蛮とはスペイン・ポルトガルの事で、「南蛮のみちⅠ」はバスク地方紀行になっている。この地は昔から独立志向の強い地域で、それを話題にしたものと思われる。本書はマドリード周辺とポルトガル紀行だ。なぜ今ごろこの古い本を取り上げたかと言うと、実は7月28日から8月5日までの10日間スペイン・ポルトガルを旅行して、人々の余裕のある生活ぶりとカテドラルの壮大さに大いに感動した(私にとってはじめてのヨーロッパ)のだが、司馬遼太郎はどのように書いているのだろうと思って、読み返してみた次第である。
私の旅程は、関西国際空港からKLMオランダ航空でアムステルダムのスキポール空港で乗り換えて、バルセロナへ。スキポール空港では厳重な身体検査があった。昨今のテロ多発に対応するものだ。でも一旦ユーロ圏内に入ると後は楽だ。今回はLOOK・JTBのツアーで、関西からは6人(3組の夫婦)と東京から18人の混成だった。添乗員は東京組について、羽田からルフトハンザ航空に搭乗のため、関空組は自分で乗り換えてバルセロナ空港まで行くように指示された。今回私ら夫婦と友人夫妻の4人で行ったので何かと気が紛れて良かったが、この乗り換えも自分一人では不安がある。というのも搭乗ゲートが予告なしに変更されるので、常に電光掲示板を見て確認することが大切だからだ。実際スキポール空港で変更があり、もう少しで乗りそこなうところだった。帰りのパリでも変更があった。日本の懇切丁寧な説明はヨーロッパではお目にかかれない。自己責任の世界である。逆に言うと、日本が異常なのだろう。
ツアー客は東京の人が多かった(4人は九州から)ので、東京弁が主流で関西の客の騒がしさはない。これはとても過ごしやすいことだった。それから少し感じた事だが、東京のご主人は概してサービス精神が豊富で、食事の時も話題を提供しようと努力されていた。そして奥さんの写真を盛んに撮っていた。そこまでやるかと言うぐらい撮っていた。私は妻にそれを指摘され、見習いなさいと言われる始末。これは個人の問題というより文化の問題だと思うのだが、どうだろうか。
バルセロナではガウディのサグラダ・フアミリア(聖家族教会)を見学して、タラゴナからバレンシアへ。夕食はホテルでミックスパエリアをたらふく食べた。ビールもワインもうまい。翌日、バレンシアからクエンカで宙吊りの家、カテドラルを見学。ひなびた町の風情が素晴らしい。こんな熱い午後に真面目に観光するのは日本人ぐらいだそうだ。その後マドリードへ。翌日プラド美術館で、ベラスケスの名画、ラスメニーナスとエルグレコ、ゴヤの作品などを見る。そしてソフイア王妃芸術センターでピカソのゲルニカを鑑賞。素晴らしい。説明役の藤田さんは30年前にスペインに旅行に来てそのまま居ついてしまったという男性で、近江八幡出身とのこと。説明は非常に分かりやすい。昼食後、トレドへ。カテドラルとサント・トメ教会へ。ここはギリシャ生まれの画家エル・グレコが後半生を送った町だ。おじさんが日本語の『TOREDO その歴史と芸術』という本を買ってくれと言うので、買った。司馬遼太郎もこう書いている、「ベンチに座っていると、三十五、六の品のいい主婦がそばのアパートから出てきて、一冊の本を売り付けた。街灯の淡いひかりで眺めると『魅力の街トレド』とある。写真を主とした小冊子で、発行所も定価もない、本の正体としてはのっぺらぼうなものであった。しかしトレドのことが書かれているなら、反故でも読みたい心境だったから、立ちあがって、ズボンの尻のポケットに手を突っ込みペセタを取り出した。ガス灯めいた街灯の下で、彼女は影のように静かで無表情でいる。私は、金を渡し、彼女は受け取った。まことに舞台的な光景だが、観客はこの黙劇(パントマイム)をどう理解するだろう。その後ろ姿を、一種の情感とともに見送りながら、私は意味もなく祈る気持ちになった。といって、祈る言葉は見出せない。私には、スペインへの感謝の気持ちがある。彼女の先祖は、私どもの文化に強烈な刺激を与えてくれたのである。しかしながら、いまタホ川を見、彼女を見、さらにはのっぺらぼうの本を見てしまった。神よ、あなたが創ったスペインは偉大すぎるようです、というほかなかった」と。スペイン文化の伝統の厚みに感動する司馬の姿が余すところなく描かれていて、感動的だ。
翌日はコンスエグラからコルドバを経てグラナダへ。グラナダとはザクロのことだと教わる。次の日、アルハンブラ宮殿を見学してセビリアへ。暑さが尋常ではない。夜フラメンコショーをみる。踊り手の男女はみな彫が深くて美しい(顔も体も)。この造形美はイタリアの美にも通じるものがあり、真似できない。
翌日、リスボンへ。司馬曰く、「私は、昔から、スペインが主力をなすイベリア半島の一角にポルトガルという国がなぜ古くから存在するのか不思議であった。いまも、わからない」と。山脈、大河、海洋で隔てられてもいないのに、本当に不思議だと私も思う。二日の滞在であったが、結構、魅力的であった。もう一度行きたいと思う。今度はゆっくりと。
私の旅程は、関西国際空港からKLMオランダ航空でアムステルダムのスキポール空港で乗り換えて、バルセロナへ。スキポール空港では厳重な身体検査があった。昨今のテロ多発に対応するものだ。でも一旦ユーロ圏内に入ると後は楽だ。今回はLOOK・JTBのツアーで、関西からは6人(3組の夫婦)と東京から18人の混成だった。添乗員は東京組について、羽田からルフトハンザ航空に搭乗のため、関空組は自分で乗り換えてバルセロナ空港まで行くように指示された。今回私ら夫婦と友人夫妻の4人で行ったので何かと気が紛れて良かったが、この乗り換えも自分一人では不安がある。というのも搭乗ゲートが予告なしに変更されるので、常に電光掲示板を見て確認することが大切だからだ。実際スキポール空港で変更があり、もう少しで乗りそこなうところだった。帰りのパリでも変更があった。日本の懇切丁寧な説明はヨーロッパではお目にかかれない。自己責任の世界である。逆に言うと、日本が異常なのだろう。
ツアー客は東京の人が多かった(4人は九州から)ので、東京弁が主流で関西の客の騒がしさはない。これはとても過ごしやすいことだった。それから少し感じた事だが、東京のご主人は概してサービス精神が豊富で、食事の時も話題を提供しようと努力されていた。そして奥さんの写真を盛んに撮っていた。そこまでやるかと言うぐらい撮っていた。私は妻にそれを指摘され、見習いなさいと言われる始末。これは個人の問題というより文化の問題だと思うのだが、どうだろうか。
バルセロナではガウディのサグラダ・フアミリア(聖家族教会)を見学して、タラゴナからバレンシアへ。夕食はホテルでミックスパエリアをたらふく食べた。ビールもワインもうまい。翌日、バレンシアからクエンカで宙吊りの家、カテドラルを見学。ひなびた町の風情が素晴らしい。こんな熱い午後に真面目に観光するのは日本人ぐらいだそうだ。その後マドリードへ。翌日プラド美術館で、ベラスケスの名画、ラスメニーナスとエルグレコ、ゴヤの作品などを見る。そしてソフイア王妃芸術センターでピカソのゲルニカを鑑賞。素晴らしい。説明役の藤田さんは30年前にスペインに旅行に来てそのまま居ついてしまったという男性で、近江八幡出身とのこと。説明は非常に分かりやすい。昼食後、トレドへ。カテドラルとサント・トメ教会へ。ここはギリシャ生まれの画家エル・グレコが後半生を送った町だ。おじさんが日本語の『TOREDO その歴史と芸術』という本を買ってくれと言うので、買った。司馬遼太郎もこう書いている、「ベンチに座っていると、三十五、六の品のいい主婦がそばのアパートから出てきて、一冊の本を売り付けた。街灯の淡いひかりで眺めると『魅力の街トレド』とある。写真を主とした小冊子で、発行所も定価もない、本の正体としてはのっぺらぼうなものであった。しかしトレドのことが書かれているなら、反故でも読みたい心境だったから、立ちあがって、ズボンの尻のポケットに手を突っ込みペセタを取り出した。ガス灯めいた街灯の下で、彼女は影のように静かで無表情でいる。私は、金を渡し、彼女は受け取った。まことに舞台的な光景だが、観客はこの黙劇(パントマイム)をどう理解するだろう。その後ろ姿を、一種の情感とともに見送りながら、私は意味もなく祈る気持ちになった。といって、祈る言葉は見出せない。私には、スペインへの感謝の気持ちがある。彼女の先祖は、私どもの文化に強烈な刺激を与えてくれたのである。しかしながら、いまタホ川を見、彼女を見、さらにはのっぺらぼうの本を見てしまった。神よ、あなたが創ったスペインは偉大すぎるようです、というほかなかった」と。スペイン文化の伝統の厚みに感動する司馬の姿が余すところなく描かれていて、感動的だ。
翌日はコンスエグラからコルドバを経てグラナダへ。グラナダとはザクロのことだと教わる。次の日、アルハンブラ宮殿を見学してセビリアへ。暑さが尋常ではない。夜フラメンコショーをみる。踊り手の男女はみな彫が深くて美しい(顔も体も)。この造形美はイタリアの美にも通じるものがあり、真似できない。
翌日、リスボンへ。司馬曰く、「私は、昔から、スペインが主力をなすイベリア半島の一角にポルトガルという国がなぜ古くから存在するのか不思議であった。いまも、わからない」と。山脈、大河、海洋で隔てられてもいないのに、本当に不思議だと私も思う。二日の滞在であったが、結構、魅力的であった。もう一度行きたいと思う。今度はゆっくりと。