木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

自分で考える機会

2014年06月06日 | Weblog

「親米右翼」というゆがんだ心性に蹂躙されている日本社会。
70年前の戦争ではアジア諸国に対しては多くの加害責任がある日本だが、アメリカ(連合国軍)との戦争では本土空襲、原爆投下、沖縄戦と、日本国民は徹底的に痛めつけられた。
にもかかわらず、加害を与えた相手を憎悪し、被害を与えた国のために「なんでもします」と、自らその身を投げ出す政策を、国民の同意もなしに勝手に推し進めようとする安倍政権とその同調者の頭の中身、およびその精神構造は全く理解しがたい。
こうした強い者には徹底的にこびへつらい、そのうっ憤を別のところで晴らすというもっとも卑怯で、姑息なゆがんだ心性の持ち主がいわゆる「親米右翼」という連中だ。
安倍晋三とその取り巻き、橋下徹や石原慎太郎が率いる「維新」とやらがその中心軸になっている。
このような連中になぜ日本はここまで蹂躙されなければならないのか。
「1強多弱」で、まともな野党が存在しないからと言われるが、

哲学者の柄谷行人は「そもそも、議会は国家がやりたいことを国民が自分で選んだかのように思わせる手の込んだ装置だと思う。選挙で人が意思を表示するというのは幻想で、無理に選ばされているだけ」と言い「議会政治を無視しろというのではないが、彼らがやることに任せることはできない。国家に何かをやってもらおうとすれば、いよいよ国家に従属することになる。重要なのは国家にすべて頼るのではなく、それ以外の自立の道を自分たちで考えていくことだ」と、2013年3月6日付けの信毎紙上で述べている。
確かにそれは言える。選挙が近づくと、マスコミは街を行く人に「政治に何を望みますか」と聞き「景気をよくしてもらいたい」などという答えを引き出して、事足れりとしている。
聞くほうも答えるほうも何も考えていない。
柄谷式に考えるなら「何々してもらいたい、ではなく、どんな社会であればよいのか、と自分なりの意見を持たなくてはならない」ということになる。
私がまだ青年だったころ、日本には社会党や共産党といった、庶民の側に立つ政党が一定勢力として、国会に議席を持ち、またそれらに飽き足らず、議会を超えた社会運動を主張する勢力もまた大いに活動していた。
だからそれらのリーダーの言うことを受け売りしてればよくて、自分で一所懸命苦しみながらも考えなくてもよかったとも言えるが、今もう一度「どういう社会であればよいのか」真剣に考える機会が来ている。

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