木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

松代の近代を語ることこそ意味がある

2007年02月22日 | Weblog

明治維新以降、かつての武士階級だった人々の生きる道としては、横田家の兄弟のような官僚の道と、もう一つ軍人になるという道があった。
横田英の夫になる和田盛冶がその道を行った。
しかし、硬骨漢の盛冶は出世コースを順調に進むことができず、48歳で予備役となったという。
「軍人の官僚化」。つまり、軍人
養成の学校でペーパーテストの成績が優秀なものが、出世の先頭をいくことになっていく。
その行き着く果てが、昭和の惨憺たる大戦争の結果を招く。
最近、『硫黄島からのの手紙』という映画や、「散るぞ悲しき」というノンフィクション作品で、にわかに注目を浴びている栗林中将は、松代西条地区に実家があるのだが、なにやら、中将を賛美する気配に、「それでいいのか」という気がする。
たしかに硫黄島の守備を命じられた中将も犠牲者の一人だとは思う。
その命令がどれほど理不尽なものか知りながら、それを断って軍人をやめるということができない時代というか、めぐりあわせのもとに生きていた。
昨年、「戦後60年の視点」という文章を書いたが、一番痛感したのは、「こんな無責任な、理不尽な戦争を引き起こし、内外に多大な犠牲者を出した責任者出て来い」ということだった。
「男達の大和」も「硫黄島からのの手紙」も私は見ていない。
見る気がしない。本当はそれらを見て、何か言うべきなのだろうが、戦争遂行の決断や、続行に権限があった軍のトップがどれほど無責任で、卑劣であったかに焦点を当てた映画があれば、私は見に行く。
松代には、藩政時代の史跡とともに、この太平洋戦争末期、どこまでも「国体護持」にこだわって、天皇以下、中央官庁、そして軍の大本営の設営をひそかに進めていた地下壕跡がある。
今、松代を訪れる人の関心は、江戸時代の史跡以上に、この地下壕にあるように思う。
ますます、明治以降の松代の歴史を語ることが重要で、興味深いことに思えるが、案内ガイドのボランティアの意識は、まだそこには向いていない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする