「木洩れ日通信」1号を出した1997年当時、歴史の教科書には、ようやく「従軍慰安婦」や731部隊の記述がされるようになっていた。
その一方で、「歴史認識の風化」は進み、横浜に寄港したアメリカ軍の原子力空母に人々が嬉々として、見学に押し寄せる様子がニュース映像として流された。
その30年前、同じ日本人が、ベトナム戦争反対の意志を示すために、佐世保に寄港しようとした原子力空母エンタープライズの入港を阻止しようとして、港に集結した時とは大違い。
こんなにみんなノー天気になってしまっては、あの大戦が理由で死んでいった人々はあまりに浮かばれない、と思ったことがこの文を書く動機だった。
しかし、アレから十年、状況はますます悪くなって、「平和憲法は時代に合わないから変えよう」というところまで来てしまった。
この事態に対して、私自身はなんらの力も持たない。
私はいわゆる「団塊の世代」だ。世の中に対する「異議申し立ての世代」とも言われた。
しかし、その世代は、次の世代に「ろくな社会」をバトンタッチしていない。
なぜ、こうなった、なぜこうなんだ、それを考えるのが残された時間の課題だ。
柳沢厚労大臣の「生む機械発言」。
まず、柳沢氏の言葉の貧困がある。「生む性」とか何とか言い方がありそうなものだが。
でも言葉を言い換えたとしても、根底にある精神のありようは変わらないが。
辞めなくても、もう彼の立場は死体だ。誰も柳沢氏を厚労省のトップしてふさわしいとは思わなくなっているから、これから何も進まない。
少子化社会は資本主義社会が極端に進んで、利潤追求だけが目的化されることによって、必然的に起こってくる現象だ。
物があふれて、あらゆるサービスが金で買えるようになれば、人はそれほどお互いに助け合ったり、共同でなにかする必要がなくなる。
一人で暮らすことのほうがいいと思う人間が増えるのも当然。
男女が出会って、結婚に至るまでは、相手と自分との違いや距離を乗り越えてゴールしなければならないが、そういう葛藤に慣れていない生活を送ってきていれば、それを避けるようにもなる。
豊かな社会は「葛藤を避ける社会」でもある。
食べ物も着るものも豊富。個室もある。家庭では葛藤のタネはない。
だから学校での葛藤は耐えられない。
大きく、遠くを見れば、新自由主義経済といわれる社会のありようが問題だろうし、近い視点で考えてみても、そういう社会の中で、仕事が無い、劣悪な労働条件のもとで働かざるを得ない、したがって、結婚して子供を生み、育てる条件がそなわっていないことが問題なのだとは、現実を知っていればわかることだ。
まあ、国のために子供を生まなくては、と考える人は、権力を持って、支配する側にいる人たちだけだろうから。そしてこの人たちは、「生む機能」は持っていない。