信濃毎日新聞2月26日の記事「現代史の残像」は戦後日本の分岐点として、たった2ヶ月の短命で終わった石橋内閣と、その石橋湛山の政治思想を紹介していた。
半世紀前の1957年2月、石橋総理は、風邪をこじらせ、「2ヶ月の加療を要す」の医師団の診断に「予算審議に出席できない以上、進退を決すべきだ」と、あっさり退陣したとある。
岸信介との決選投票を制して、首相になった石橋は、
「1千億減税、1千億施策」をスローガンに、のちに池田勇人氏が進めた「所得倍増政策」の先取りとも言うべき政策を掲げ、
外交面では、日中国交回復に意欲を示し、「米国とは提携するが、向米一辺倒にはならない」姿勢を打ち出した。
日本がこの道を進んでいたなら、その後の日本の問題点、例えば、沖縄米軍基地の弊害、残留孤児問題などは、もっとすみやかに解決への道を歩んでいた可能性が高い。
北朝鮮による拉致問題も起きていなかったのでは。
ところが先のような事情で、退陣(病気以外の圧力があったかもしれないが)。
政権は、外相だった岸氏に。
まさに新聞のタイトルが言うようにこれが「戦後日本の分岐点」になった。
岸は日米安保改定を強行し、対米従属、協調の路線は、その後一貫して政権与党の路線となった。
アメリカのイラク侵略への協力によってその路線はこのところ更に強まっている。
その政権与党の路線が一瞬揺らいだ時がある。
それが94年の自・社・さによる村山内閣時代だ。
「石橋内閣が続いていれば、日本の針路は、今論議されている日米基軸の集団的自衛権ではなく、集団安全保障の方向に進んだはず。湛山から岸への転換は戦後日本の分岐点だった」とは、元経企庁長官、さきがけ代表代行だった田中秀征氏の弁。
「村山政権は、自分にとって、第二次石橋内閣のつもりだった」とも。
山梨県の日蓮宗の僧侶の息子である石橋氏は、旧制甲府中で、札幌濃学校長クラーク博士の教え子大島正健校長の影響を受け、大学では哲学を専攻。
アメリカの実用主義哲学、ケインズ経済学などを吸収してジャーナリストとして活躍。
1921年「東洋経済新報」社説で「植民地は経済的、軍事的に利益が無く、わが国が大日本主義を棄つることはかえって大なる利益を我に与うるものなるを断言する」と述べ、明治以降、欧米に見習った大国主義を疑わなかった政府、国民に、画期的対論を突きつけた。
さて、今、日本を対米追随の道に導いた岸首相の孫が、祖父やその系譜の総理が成し遂げられなかった「改憲への道」を前のめりになって推し進めようとしている。
腸に難病を抱え、健康不安のある安部首相は、とにかく早く、早く、体調不良で、首相の座を降りなくてはならない事態になる前に、「改憲・9条改定」の道筋をつけようと、なりふり構わない状態だ。
今日、「西部戦線異状なし」という映画をテレビで見た。
そのセリフに「老人が戦争をあおり、若者が戦場で死ぬ」とあった。
今、日本も「老人が愛国と平和憲法改定を叫び、若者の未来を失わせている」