「木洩れ日」2号では、「繰婦は兵隊に勝る」と、題して、長野県松代ではじめて機械製糸の工女として、製糸工場の立ち上げと操業に貢献した横田英の生涯を追いました。
いま、私は、この松代で、「文化財ボランティア」として、無料接待所でお茶のサービスや町案内を時々していますが、横田英の生家も修復され、江戸時代中級武士の住居として公開されています。
明治維新の10年前、1857年に生まれた英ですが、この時代の変革期、特権を得ていた武士階級も変化を余儀なくされました。
英はいち早く、製糸工女として、群馬県富岡の官営製糸工場で、器械製糸の技術をまなびました。
武士の娘の職業訓練です。
この製糸業の興隆こそ、明治の日本を支えた原動力であり、日清・日露の戦争の戦費はここに負うところ大なのです。
それが題名の「繰婦は兵隊にまさる」のゆえんです。
この言葉は、英が技術を習得して富岡官営工場を去る時に、尾高という取締りから贈られた言葉であります。
さて、町案内をするさいには、この横田家が、いかに優秀な人材を輩出した一族かということが語られます。
英の弟の秀雄は東京に出て苦学の末、大審院長になります。今でいう最高裁判所長官です。その息子、正俊も最高裁長官になりましたから、親子2代の裁判官です。
もう一人の弟も鉄道大臣になっていますから、横田家は「階級の転換」を見事成し遂げた一族といえましょう。
今、松代には空き家が目立ちます。
かつてのお城の近く上級武士の住まいであったあたりが特に空いています。
明治になって、禄(給料)が支給されなくなって、大きな家屋敷を維持できなくなった果ての空き家ですが、明治維新からすでに140年たっていますから、その後の、社会経済の変動や、近頃、人々の意識にのぼるようになった少子高齢化がさらに加速させている現象でもあります。
その点、横田の人は先を見る目があるのでしょう。
東京へ去って、久しく空いていた、家屋敷を、当時の長野市に寄贈を申し出、
長野市も、横田家が改造などの手が入っていない、江戸時代の原型をとどめている武家として、修復、公開したのです。
寄贈と書きましたが、よく市の学芸員が力をこめて言うのは、決して寄付ではありません。つまりそれなりの対価を払っての譲渡である、というわけです。
譲渡する側からすると、固定資産税の支払いや家の維持を考えると、市価より安い価格でも、家が残るほうがいい。
これは昭和40年代の話ですが、今、市に引き取ってほしいという家があちこちにあるようです。近頃の財政難、なかなかうまくはいかないようですが。
ただ、市民や観光客から寄付を募って、江戸時代や明治時代の面影を残す建物を保存していこうという動きが出てきました。
いずれにしても、明治以降のいわば、「近代の光と影」を語るのも、また町案内の役目かと。