世の中で専門家と呼ばれる人や、専門的な分野の権限を持つ組織においては、頻繁に「モラルハザード」を引き起こす。
これは、物事がうまくいっている場合は自分たちの手柄であり、その利益や役得は自分たちの仲間内で配分する。
そして、外的な要因で物事が悪い方に行くと、外部の責任にして、自分は被害を受けないポジションに移動して、逆風の収まるのを待っている。
そして、チャンスが来そうになると、また専門家の出番だとばかりに、表に出て権益を行使する。
日本の政治は、自民党の一党独裁と同じで、50年以上、権力の座に居座っていることで、批判に対して無頓着になっている。
一時期に政権を離れたが、代わりを務める政党がいなかったに等しいテイタラクなので、すぐに返り咲きして、権益の保持を主目的にしてきた。
日本の世界における地位の向上とか、社会構造の発展や健全な国民生活の基盤など、本当に追及すべき政策はすべて先送りして、支持基盤の既得権を守ることを優先してきた。
どうやらガン細胞は、有害なくらいに肥大化してしまった様である。
これは、代替の組織(対抗できる野党の生長)がなくても、すぐに削除しなければ、日本は重病に陥りかねない。
それでも政党政治という制度があるので、だれの目にも腐敗やモラルハザードが解るようになれば、交代させることができる。
民主主義制度の救いは、最終的には有権者の判断で交代させることができる。
しかし、官僚機構という制度は、この民主主義の埒外にあって、方向性の大きな間違いをしでかしても責任を負って腹を切るということが一切ない。
それは専門性が高い領域なので、間違いがあっても表面的にうまく繕うことができて、一般の人にはわからないように始末してしまう。
本来は政治家がある程度の専門的知識を持って、長期的利益の観点から適切な評価と判断をすべきであるが、今の政治家にそれを期待することは、どだい無理な話である。
選挙と政争が優先していて、地道に専門分野を突き詰めて、官僚の作文の欠陥や国民の利益にならないことを削る仕事をすることもできない。
最近ではようやく「マニフェスト」を作ることが政党や候補者にとっては必須の条件になってきたが、中身はまだまだ生煮えのもので、不十分なレベルである。
実務面で官僚を支配できるくらいに専門家集団、政策ブレーンを自前で持っていなければ、とても対抗できない。
官僚機構はそれに属している人の意思がほとんど盛り込めないようにできている。
幹部の若手官僚の中にも優れた人は大勢いるのだが、明治時代以来のガチガチになっている、お役所機構に縛られて、いくら立派な政策や企画を立案しても、いつも既得権益の中での優先度や判断基準でふるいにかけられてしまう。
トップを変えなければ組織改革は進まない。
しかし、そのトップは年次と経歴によってふるいにかけられて上がってきた人材からしか採用できない。
適切な人材は外部から、政策的な意図を理解している専門家を登用するしかない。
だが日本では、その制度は官僚機構によって頑強な抵抗で拒否されるであろう。
いま、地方分権を強力に推し進めるというスローガンが、話題を賑わしている。
地方に分権した行政権益は、「モラルハザード」を起こしにくくなる。
それは、「他の自治体との比較」で失敗した場合の評価が明確に出てくるので、責任のゴマカシはできにくくなる。
行政どうしの「やる気と能力の比較」が広範囲にできるようになる。
ここで適正な能力を発揮した人材を、中央政府に登用する制度も、実現の可能性が出てくる。
これは実施してみる価値がおおいにある。以下、次回に。
これは、物事がうまくいっている場合は自分たちの手柄であり、その利益や役得は自分たちの仲間内で配分する。
そして、外的な要因で物事が悪い方に行くと、外部の責任にして、自分は被害を受けないポジションに移動して、逆風の収まるのを待っている。
そして、チャンスが来そうになると、また専門家の出番だとばかりに、表に出て権益を行使する。
日本の政治は、自民党の一党独裁と同じで、50年以上、権力の座に居座っていることで、批判に対して無頓着になっている。
一時期に政権を離れたが、代わりを務める政党がいなかったに等しいテイタラクなので、すぐに返り咲きして、権益の保持を主目的にしてきた。
日本の世界における地位の向上とか、社会構造の発展や健全な国民生活の基盤など、本当に追及すべき政策はすべて先送りして、支持基盤の既得権を守ることを優先してきた。
どうやらガン細胞は、有害なくらいに肥大化してしまった様である。
これは、代替の組織(対抗できる野党の生長)がなくても、すぐに削除しなければ、日本は重病に陥りかねない。
それでも政党政治という制度があるので、だれの目にも腐敗やモラルハザードが解るようになれば、交代させることができる。
民主主義制度の救いは、最終的には有権者の判断で交代させることができる。
しかし、官僚機構という制度は、この民主主義の埒外にあって、方向性の大きな間違いをしでかしても責任を負って腹を切るということが一切ない。
それは専門性が高い領域なので、間違いがあっても表面的にうまく繕うことができて、一般の人にはわからないように始末してしまう。
本来は政治家がある程度の専門的知識を持って、長期的利益の観点から適切な評価と判断をすべきであるが、今の政治家にそれを期待することは、どだい無理な話である。
選挙と政争が優先していて、地道に専門分野を突き詰めて、官僚の作文の欠陥や国民の利益にならないことを削る仕事をすることもできない。
最近ではようやく「マニフェスト」を作ることが政党や候補者にとっては必須の条件になってきたが、中身はまだまだ生煮えのもので、不十分なレベルである。
実務面で官僚を支配できるくらいに専門家集団、政策ブレーンを自前で持っていなければ、とても対抗できない。
官僚機構はそれに属している人の意思がほとんど盛り込めないようにできている。
幹部の若手官僚の中にも優れた人は大勢いるのだが、明治時代以来のガチガチになっている、お役所機構に縛られて、いくら立派な政策や企画を立案しても、いつも既得権益の中での優先度や判断基準でふるいにかけられてしまう。
トップを変えなければ組織改革は進まない。
しかし、そのトップは年次と経歴によってふるいにかけられて上がってきた人材からしか採用できない。
適切な人材は外部から、政策的な意図を理解している専門家を登用するしかない。
だが日本では、その制度は官僚機構によって頑強な抵抗で拒否されるであろう。
いま、地方分権を強力に推し進めるというスローガンが、話題を賑わしている。
地方に分権した行政権益は、「モラルハザード」を起こしにくくなる。
それは、「他の自治体との比較」で失敗した場合の評価が明確に出てくるので、責任のゴマカシはできにくくなる。
行政どうしの「やる気と能力の比較」が広範囲にできるようになる。
ここで適正な能力を発揮した人材を、中央政府に登用する制度も、実現の可能性が出てくる。
これは実施してみる価値がおおいにある。以下、次回に。