東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 麻里府 住吉神社祭礼 2017 (4/6)

2017年05月08日 | 歴史探訪他ウォーキング

 中郷影平の御旅所を出ると、次に尾津西の御旅所に向かって出立しました。中郷影平と尾津西は少し距離があります。1.5Km位でしょうか。この頃になると疲れが出てきたのか、「じょーいさん、じょい!」の掛声も小さくなってきたように思います。

        桜川に沿う舗装道路を下流に向かって御神輿が進む


 尾津西の御旅所は桜川の河口近くにあります。そのため、スタートした住吉神社前を通り過ぎ、さらに旧麻里府小学校跡前を通り過ぎます。江戸時代ここが海だったことが信じられません。また、昭和2年頃に麻里府から光市へ抜ける国道188号線が開通しました。つまり、昭和2年までは麻里府は、行き止まりの里だったのです。

 桜川をどんどん下流に    桜川に泳ぐ鯉を見下ろす   元気な子供神輿
  

 昭和2年前までは海岸線に沿う188号線はありませんでした。しかし、尾津西から今の立石墓地に向かう古道がありました。今は立石墓地で古道は終わっていますが、かつては立石墓地からさらに大平山に向かう山道があり、峠を越えて伊保木に向かう道があったようです。おそらく中郷から伊保木に向かう古道と合流したのではないかと思います。

          スタートした住吉神社前を通過する御神輿


 麻里府の尾津は幕末に大事件がおきました。加徳丸事件です。麻里府の水田家所有の加徳丸が薩摩藩に借り上げられ、たまたま麻里府に寄ったときに大事件が起きたのです。当時(文久3年)、長州藩と薩摩藩は犬猿の仲でした。その敵である薩摩藩の船を上関の義勇隊が襲ったのです。そして、その船に運悪く乗っていた薩摩藩の大谷は殺害されました。その大谷は今、静かに尾津西の立石墓地に眠っています。

 尾津西に到着した本神輿     休む子供神輿      お接待をいただく
  

 幕末から明治にかけて貿易が盛んだった麻里府はとても興隆していました。明治22年に麻里府村ができた時、面白い逸話が残っています。麻里府村ができる時、麻郷村と境界線でもめたそうです。麻里府は貿易で栄えていましたので、陸地はそれほど重要ではなかったようです。そのため、取りたいだけ麻郷に渡したとか。

          尾津西の御旅所で禰宜(ねぎ)さんに交代


 ところで、見田団地は一見麻里府地区のように見えますが地目では麻郷です。陸地に興味がなかった当時の麻里府の方々が麻郷に渡したのです。でも団地が開発された今、見田団地の方々は麻里府の住人としてこの住吉神社のお祭りに参加しています。地目は麻郷であっても実質麻里府なのは歴史の不思議なところです。

  尾津西御旅所で休憩    子供神輿も休憩    次の尾津中御旅所に向かう
  

 明治22年に麻里府村ができた時、それまで上関だった馬島は麻里府になりました。近くでもあるし同じ貿易を生活にしていた馬島と気が合ったのでしょう。江戸,明治,大正と麻里府や水場など、平生湾に面する町は内陸の麻郷や田布施よりはるかに栄えていました。水場に遊郭があったほどです。同じように麻郷でも海側の米出が栄えていました。同じ麻郷でも米出側を麻郷と呼ぶのに対して、竹重・奈良・三宅方面を麻郷奥と呼ぶのはそのような時代背景があったためなのです。

                御神輿の行幸ルート

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