東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 麻里府 住吉神社祭礼 2017 (3/6)

2017年05月05日 | 歴史探訪他ウォーキング

 麻里府中郷集会所前広場の御旅所には15分位いたでしようか。飲み物や軽食が用意されていました。部外者の私ですが、何人もの方にお接待をいただいてもよいとのありがたいお声がけをいただきました。ありがとうございました。ただ、まだまだ先は長いので、またトイレが近くなっても困るため、わずかに喉を潤しただけでした。

         中郷集会所前広場の御旅所でお接待を受ける方々


 しばらくすると出発です。中郷の子供神輿を先頭に次の御旅所に向かって列が続きました。中郷は歴史的に興味がある場所です。古代においては中郷まで海が入り込んでいたようです。そして、中郷と上組の境位まで海が入り込んでいたようです。さらに、江戸時代初めまでには中郷と尾津の境まで海が後退したようです。江戸時代中期になると、今の麻里府小学校跡または住吉神社近くまで海が後退したようです。今この付近まで桜川の潮がのぼってきます。桜川の堤防をすべて撤去すれば、今でも住吉神社下は海岸のはずです。
 ちなみに、田布施川のすべての堤防や樋門を撤去すれば、田布施と平生に広がる平地は広大な海になるはずです。0m地帯は干潟となるでしょう。実際、江戸時代初めにそのような光景が広がっていたことが文献,古地図,地名などから分かります。

  中郷子供神輿が先頭    見田団地の子供神輿   最後に本神輿が続く
  

 住吉神社の成り立ちも海と関係しています。住吉神社は、もともとは中郷と上組の境近くにあったとされます。当時は住吉神社ではなく明神社と呼ばれていました。その明神社跡は今でも残っています。草で覆われていますが、その草を除けるとお社の柱跡が残っています。

            中郷を練り歩く御神輿の数々


 その昔、中郷に大水があり明神社のお社が流されたそうです。そのお社は今の住吉神社のふもとに流れついたとのこと。その時、「神様がここがいい。」とおっしゃったとのこと。そこで、今の場所にお社を立てたそうです。その時はまだ住吉神社ではありませんでした。  

 中郷と上組の境でターン   中郷影平を練り歩く   もうすぐ御旅所     
  

 その後、享保6年(1721年)に大阪堺の住吉神社を分神し、元々あった明神社と合祀して今の住吉神社となったようです。江戸時代後期に編纂された防長注進案には住吉大明神として記録されています。

    中郷影平の御旅所           水車で遊ぶ子供達
 

 当時の海岸線は今の麻里府小学校跡近くでした。そして住吉神社下が海岸だったのです。そのため、住吉神社のお祭り時には船が住吉神社下に集結したそうです。そして数百人の若者が交代で神輿を担いで住吉神社から二代川(尾津東集会所付近)まで押し歩いたとのこと。そして、途中で海に入っては暴れまくったそうです。それが「暴れ神輿」の由来です。

               御神輿の行幸ルート


コメント
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