この一週間ほど、以前買い集めた映画雑誌を読みあさっている。「近代映画」「映画ファン」「キネマ旬報」「映画評論」「時代映画」、そして「平凡」「明星」に「東映の友」などである。主として、錦之助関連の記事を拾い読みしているのだが、錦之助とは無関係でも面白い記事があると、ついそれも読んでしまい、道草ばかり。それでやたらと時間を食う。午後から読み始めると、あっという間に夜中になっている。
この間の木曜日には久しぶりに神田の古本屋街へ行って、持っていない雑誌を8冊ほど買って来た。昭和29年春以降の「キネマ旬報」5冊と「映画評論」2冊、それに昭和32年6月号の「平凡」別冊を購入したところ、全部で1万2千円も遣ってしまった。とんだ出費だ。
なにしろ「平凡」別冊が9,000円もしたのには参った。「オール東映スタアグラフ」という特集で、表紙は錦之助のいなせな町人姿。別にこの表紙につられて買ったのではない。ペラペラめくっていたら、三つほど興味を惹いた記事があったからだ。
一、「スタジオ人名録」。東映京都のスタッフ五人のことが書いてある。小道具の西田孝次郎、結髪の桜井文子、殺陣の島義一、衣裳の三上剛、馬の高岡政次郎についてである。
二、映画教室「東映スコープの出来るまで」。ざっと読むと、実に分かりやすい。「平凡」の読者向けに書いたからだろう。ミーハー誌にしては、珍しいと思えるような専門技術の解説である。
三、座談会「ぼくらはチャンバラ学校優等生」。殺陣師の足立伶二郎に、弟子の島義一と谷俊夫、剣会の藤木錦之助と中野文男(尾形伸之介)の座談記事である。
これを見て、9,000円でも買おうと思った。
他に、錦之助と津川雅彦、千代之介と尾上鯉之助、橋蔵と丘さとみ、といった対談記事もあり、ちょっと珍しい記事では、片岡栄二郎が司会で、若手女優の円山栄子、若水美子、松風利栄子、宮島智恵子の四人との座談会が載っている。
古い「キネマ旬報」を探しに行ったのは、『笛吹童子』のクランクインの時期とその興行成績を調べたかったからだ。また『ひよどり草紙』『笛吹童子』などの映画評が載ってないかと思ってのことだった。『ひよどり草紙』と『唄しぐれ おしどり若衆』の批評を見つけたので、立ち読みする時間もなく、とりあえず買った。家に帰ってから読んでみると、二つともひどい文章だったが、ほかに思わぬ収穫も得た。
そんなわけで、この一週間にいろいろ雑誌を読んで、新たな知識を得た。そのいくつか紹介しておこう。なかには、私だけが納得し、錦之助伝には取り上げないと思うようなマニヤックな事柄もある。
一、福島通人の顔写真をずっと探していたが、ようやく発見。
新芸術プロの会社組織と役員も分かった。(ただし、錦之助が加わった昭和29年春当時)
有限会社 新藝術プロダクション 昭和25年5月創立 資本金100万円
本社住所:新宿区角筈3丁目194(福島通人の自宅だと思われる)
事務所:中央区銀座西4丁目5(創立時は京橋の裏通りにあったが、昭和27年末か昭和28年春に、まず銀座和光ウラの写真店の二階を借り、すぐ近くの二階建てモルタル造りのビルを購入して、ここへ移転。二階を事務所にして、一階は福島が妻に喫茶店をやらせた。その名は「アルエット」、フランス語で「ひばり」の意)
取締役:福島通人(代表)、加藤キミ(ひばりの母、喜美枝のこと)、川田晴久、田端義夫、斉藤寅次郎、児玉博
監査役:南亘、金田福太郎(旗一兵の本名)
職制:総務部(部長光川仁郎)、営業部(部長児玉博)、製作部(部長旗一兵)
専属契約者:美空ひばり、堺駿二、丹下キヨ子、山茶花究、白根一男(歌手)、星十郎、石田守衛、楽団レッドスタアズ、ダイナブラザーズ
事業目的:劇映画の製作及び芸能一般のマネージメント
*昭和29年、銀座7丁目(資生堂の一本裏通り)の4階建のアクメビルを購入し、事務所を移転。
二、東映京都撮影所の名物所長山崎真一郎の略歴。(真市郎という表記もあり)
錦之助が東映京都にいた若き頃、大恩人として名前を挙げている三人のうちの一人。(あとの二人は、マキノ光雄と大川博)
山崎所長と『新選組鬼隊長』の打ち合わせ
山崎真一郎は、明治39年(1906年)4月東京生まれ。中央大法科卒。戦前は、朝日新聞社を経て、日本ニュース勤務。戦時中は中国でニュース報道の特派員をやっていたようだ。
昭和22年、太泉スタジオに入って、取締役となる。昭和26年4月、三社(東横映画、太泉映画、東京映画配給)合併によって東映設立後、東映東京撮影所長になる。昭和27年4月より東映京都撮影所長になり、昭和32年5月まで5年間務める(後任の京都撮影所長は坂上休次郎)。山崎は同年6月に東京へ転任し、東映東京撮影所長と東映動画スタジオ所長となる。
東京で入江たか子と一緒にいた娘の若葉を見つけ、内田吐夢監督に『宮本武蔵』のお通役にどうかと注進したのは、山崎所長だった。これは入江若葉さんご自身に伺った話である。
三、殺陣師足立伶二郎の略歴。
東映京都時代の錦之助の立ち回りはほぼすべて、足立伶二郎の指導によるものだったので、錦之助にとって欠かせなかった人物である。
足立伶二郎は、明治43年(1910年)生まれ。神戸の工業学校を出て、日活大将軍撮影所に入る。初めは役者だった。斬られ役のほかに、スタンドインもやり、川に飛込んだりする役も引き受けていた。足立が役者を辞め、当時「頭(かしら)」と呼ばれる殺陣師になろうと志したのは、昭和4年頃。その後ずっと片岡千恵蔵の殺陣をつけ、戦後は大映にいたが、千恵蔵とともに東横映画に移った。錦之助が初めて足立に殺陣を教わった時、足立は殺陣師25年だった。
四、女優美山黎子の略歴。(のちに、れい子、麗子と改名)
美山黎子は、『笛吹童子』で、明の国での菊丸の恋人役をやった女優で、その後、錦之助映画では『源義経』で良い役をやったほかは、脇役ないし端役に回ってしまった。『怪談千鳥ヶ渕』の遊女、『おしどり駕篭』の矢場の娘の一人など。私がなぜ彼女に興味を覚えたかというと、千原しのぶさんがご生存中、トークで美山黎子の話をしていたからだ。千原さんが東映の女優になろうと京都へ出て来た時、最初は東山の寮で、それから宣伝課長の彼末光史の家にいたが、しばらくして仲良しになった美山黎子さんの京都の家へ同居するようになったそうだ。女ばかりが住む家で彼女のおばあちゃんとお母さんの三人暮らしで、千原さんは一年間、美山家で暮らしたことを懐かしそうに語っていた。そこで美山黎子の略歴。近代映画の『源義経』特集号を読んでいたら、出演者の紹介があった。
昭和8年5月16日生まれ。京都市出身。本名岡村揚子。京都府立第一高女卒業後、神戸銀行京都支店に勤務。昭和25年、東横映画京都撮影所に入った。デビュー作は『夢介千両みやげ 春風無刀流』(昭和26年3月公開)。「日舞、声楽、ダンスなど多芸多才の持ち主で、時代劇において今後を嘱望されている」と書いてある。出演作は、『忠治旅日記 逢初道中』(千原しのぶのデビュー作である)、『春秋あばれ獅子』『闇太郎変化』など。
その後、美山黎子は、助監督の山崎大助と恋愛し、昭和34年彼が監督に昇進したのと同時に結婚し、女優を引退した。錦之助と播磨屋一家総出演の『蜘蛛の巣屋敷』が最後の出演作だったようだ。
山崎大助(1929年~?)は、京都生まれで、日大芸術学部映画科を卒業後、昭和29年12月東映京都に入ると東映の大躍進期で、佐々木康、松田定次、マキノ雅弘、内田吐夢、沢島忠の助監督として馬車馬のように働かされた。その間、『一心太助 天下の一大事』など、錦之助の映画も何本か助監督をしている。そして、やっと監督になったかと思うと、第二東映にまわされ、プログラムピクチャーを何本か作らされた挙句、昭和37年東映をお払い箱にされた。いわば悲運の映画人だった。
美山黎子は、山崎大助の妻となり、一姫二太郎を産んだ。その娘が後年、女優でモデルとなった山咲千里であるとのこと。私はこの人のことはよく知らないが、写真を見ると、美山黎子によく似ている。
この間の木曜日には久しぶりに神田の古本屋街へ行って、持っていない雑誌を8冊ほど買って来た。昭和29年春以降の「キネマ旬報」5冊と「映画評論」2冊、それに昭和32年6月号の「平凡」別冊を購入したところ、全部で1万2千円も遣ってしまった。とんだ出費だ。
なにしろ「平凡」別冊が9,000円もしたのには参った。「オール東映スタアグラフ」という特集で、表紙は錦之助のいなせな町人姿。別にこの表紙につられて買ったのではない。ペラペラめくっていたら、三つほど興味を惹いた記事があったからだ。
一、「スタジオ人名録」。東映京都のスタッフ五人のことが書いてある。小道具の西田孝次郎、結髪の桜井文子、殺陣の島義一、衣裳の三上剛、馬の高岡政次郎についてである。
二、映画教室「東映スコープの出来るまで」。ざっと読むと、実に分かりやすい。「平凡」の読者向けに書いたからだろう。ミーハー誌にしては、珍しいと思えるような専門技術の解説である。
三、座談会「ぼくらはチャンバラ学校優等生」。殺陣師の足立伶二郎に、弟子の島義一と谷俊夫、剣会の藤木錦之助と中野文男(尾形伸之介)の座談記事である。
これを見て、9,000円でも買おうと思った。
他に、錦之助と津川雅彦、千代之介と尾上鯉之助、橋蔵と丘さとみ、といった対談記事もあり、ちょっと珍しい記事では、片岡栄二郎が司会で、若手女優の円山栄子、若水美子、松風利栄子、宮島智恵子の四人との座談会が載っている。
古い「キネマ旬報」を探しに行ったのは、『笛吹童子』のクランクインの時期とその興行成績を調べたかったからだ。また『ひよどり草紙』『笛吹童子』などの映画評が載ってないかと思ってのことだった。『ひよどり草紙』と『唄しぐれ おしどり若衆』の批評を見つけたので、立ち読みする時間もなく、とりあえず買った。家に帰ってから読んでみると、二つともひどい文章だったが、ほかに思わぬ収穫も得た。
そんなわけで、この一週間にいろいろ雑誌を読んで、新たな知識を得た。そのいくつか紹介しておこう。なかには、私だけが納得し、錦之助伝には取り上げないと思うようなマニヤックな事柄もある。
一、福島通人の顔写真をずっと探していたが、ようやく発見。
新芸術プロの会社組織と役員も分かった。(ただし、錦之助が加わった昭和29年春当時)
有限会社 新藝術プロダクション 昭和25年5月創立 資本金100万円
本社住所:新宿区角筈3丁目194(福島通人の自宅だと思われる)
事務所:中央区銀座西4丁目5(創立時は京橋の裏通りにあったが、昭和27年末か昭和28年春に、まず銀座和光ウラの写真店の二階を借り、すぐ近くの二階建てモルタル造りのビルを購入して、ここへ移転。二階を事務所にして、一階は福島が妻に喫茶店をやらせた。その名は「アルエット」、フランス語で「ひばり」の意)
取締役:福島通人(代表)、加藤キミ(ひばりの母、喜美枝のこと)、川田晴久、田端義夫、斉藤寅次郎、児玉博
監査役:南亘、金田福太郎(旗一兵の本名)
職制:総務部(部長光川仁郎)、営業部(部長児玉博)、製作部(部長旗一兵)
専属契約者:美空ひばり、堺駿二、丹下キヨ子、山茶花究、白根一男(歌手)、星十郎、石田守衛、楽団レッドスタアズ、ダイナブラザーズ
事業目的:劇映画の製作及び芸能一般のマネージメント
*昭和29年、銀座7丁目(資生堂の一本裏通り)の4階建のアクメビルを購入し、事務所を移転。
二、東映京都撮影所の名物所長山崎真一郎の略歴。(真市郎という表記もあり)
錦之助が東映京都にいた若き頃、大恩人として名前を挙げている三人のうちの一人。(あとの二人は、マキノ光雄と大川博)
山崎所長と『新選組鬼隊長』の打ち合わせ
山崎真一郎は、明治39年(1906年)4月東京生まれ。中央大法科卒。戦前は、朝日新聞社を経て、日本ニュース勤務。戦時中は中国でニュース報道の特派員をやっていたようだ。
昭和22年、太泉スタジオに入って、取締役となる。昭和26年4月、三社(東横映画、太泉映画、東京映画配給)合併によって東映設立後、東映東京撮影所長になる。昭和27年4月より東映京都撮影所長になり、昭和32年5月まで5年間務める(後任の京都撮影所長は坂上休次郎)。山崎は同年6月に東京へ転任し、東映東京撮影所長と東映動画スタジオ所長となる。
東京で入江たか子と一緒にいた娘の若葉を見つけ、内田吐夢監督に『宮本武蔵』のお通役にどうかと注進したのは、山崎所長だった。これは入江若葉さんご自身に伺った話である。
三、殺陣師足立伶二郎の略歴。
東映京都時代の錦之助の立ち回りはほぼすべて、足立伶二郎の指導によるものだったので、錦之助にとって欠かせなかった人物である。
足立伶二郎は、明治43年(1910年)生まれ。神戸の工業学校を出て、日活大将軍撮影所に入る。初めは役者だった。斬られ役のほかに、スタンドインもやり、川に飛込んだりする役も引き受けていた。足立が役者を辞め、当時「頭(かしら)」と呼ばれる殺陣師になろうと志したのは、昭和4年頃。その後ずっと片岡千恵蔵の殺陣をつけ、戦後は大映にいたが、千恵蔵とともに東横映画に移った。錦之助が初めて足立に殺陣を教わった時、足立は殺陣師25年だった。
四、女優美山黎子の略歴。(のちに、れい子、麗子と改名)
美山黎子は、『笛吹童子』で、明の国での菊丸の恋人役をやった女優で、その後、錦之助映画では『源義経』で良い役をやったほかは、脇役ないし端役に回ってしまった。『怪談千鳥ヶ渕』の遊女、『おしどり駕篭』の矢場の娘の一人など。私がなぜ彼女に興味を覚えたかというと、千原しのぶさんがご生存中、トークで美山黎子の話をしていたからだ。千原さんが東映の女優になろうと京都へ出て来た時、最初は東山の寮で、それから宣伝課長の彼末光史の家にいたが、しばらくして仲良しになった美山黎子さんの京都の家へ同居するようになったそうだ。女ばかりが住む家で彼女のおばあちゃんとお母さんの三人暮らしで、千原さんは一年間、美山家で暮らしたことを懐かしそうに語っていた。そこで美山黎子の略歴。近代映画の『源義経』特集号を読んでいたら、出演者の紹介があった。
昭和8年5月16日生まれ。京都市出身。本名岡村揚子。京都府立第一高女卒業後、神戸銀行京都支店に勤務。昭和25年、東横映画京都撮影所に入った。デビュー作は『夢介千両みやげ 春風無刀流』(昭和26年3月公開)。「日舞、声楽、ダンスなど多芸多才の持ち主で、時代劇において今後を嘱望されている」と書いてある。出演作は、『忠治旅日記 逢初道中』(千原しのぶのデビュー作である)、『春秋あばれ獅子』『闇太郎変化』など。
その後、美山黎子は、助監督の山崎大助と恋愛し、昭和34年彼が監督に昇進したのと同時に結婚し、女優を引退した。錦之助と播磨屋一家総出演の『蜘蛛の巣屋敷』が最後の出演作だったようだ。
山崎大助(1929年~?)は、京都生まれで、日大芸術学部映画科を卒業後、昭和29年12月東映京都に入ると東映の大躍進期で、佐々木康、松田定次、マキノ雅弘、内田吐夢、沢島忠の助監督として馬車馬のように働かされた。その間、『一心太助 天下の一大事』など、錦之助の映画も何本か助監督をしている。そして、やっと監督になったかと思うと、第二東映にまわされ、プログラムピクチャーを何本か作らされた挙句、昭和37年東映をお払い箱にされた。いわば悲運の映画人だった。
美山黎子は、山崎大助の妻となり、一姫二太郎を産んだ。その娘が後年、女優でモデルとなった山咲千里であるとのこと。私はこの人のことはよく知らないが、写真を見ると、美山黎子によく似ている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます