ところで、宮本武蔵は、プラトニック・ラブを貫いた男だったと私は思っている。これは無論、吉川英治の描いた宮本武蔵について言っているのだが、この小説は、武蔵とお通の相思相愛にしてすれ違いの物語でもある。前にも述べたように、タケゾウの初恋の相手はお通さんだったことは明らかである。お通さんも本当はタケゾウが好きだったのかもしれない。ただ、又八の許婚となって、無意識のうちにその気持ちを押さえていたようにも思われる。お甲と又八から手紙をもらい、お通さんは部屋にこもって悔し泣きをするが、沢庵和尚に慰められて、気持ちが固まる。杉の大木にくくりつけられたタケゾウを見ているうちに、憐れみと同情が強い恋心に変わっていく。原作では、お通さんが杉の大木に抱きついているうちに、タケゾウを頼る気持ちが募って、タケゾウを好きになり、タケゾウを逃がしてやろうと思うと同時に、自分もタケゾウに付いていこうと決意を固めることが書いてある。タケゾウはもともとお通さんが好きだったから、二人が寄り添いあって村を逃げ出すのも当然だった。お通さんはこの逃避行からタケゾウを一途に思う強い女に成長していく。
峰の頂でタケゾウとお通さんはいったん別れて、姫路城下の花田橋で再会を約束し合うが、その時のお通の言葉はぐっと胸に迫るものがあった。「待っています、たとえ百日でも千日でも!」
花田橋の場面は、『宮本武蔵』第一部と第二部に出て来るが、なんとも切なくて、私が目頭を熱くする場面である。お通さんは花田橋のたもとの店で働きながら、タケゾウを三年近くも待っているのだ。本当に心の強い女である。花田橋は二人の心の架け橋だったはずだった。それなのに……タケゾウは武蔵になってとりあえず再会する約束だけは守るが、勝手なものだ。武者修行を決意したために、すがり付くお通を振り切って一人旅立ってしまう。「ゆるしてたもれ」と橋の欄干に書き残して黙って去って行くとは、ひどい男だ。だが、そうしなければ剣豪宮本武蔵は生まれないし、物語もドラマも成り立たないのだから仕方がない。
『宮本武蔵』を観ていると(原作を読んでも同じである)、武蔵がなぜあんなに好きなお通さんを袖にするのか歯がゆい思いを感じる。お通さんは、武蔵のことをあんなに慕い、たとえ地の果てまで追いかけていこうとするのに、である。確かに、武蔵は剣の修業のため、そして同時に人間を磨くため、女への恋心を抑えに抑えている。時々、お通に会うと、その気持ちがあふれ出て、抑えきれず、お通を抱きしめたりするのだが、すぐに「許せ」と言って、お通を振り切ってしまう。「お通さんが好きだ」と愛の告白を武蔵がする場面があるが、好きなのにどうにもできない苦しさに武蔵はいつも付きまとわれている。
その点、又八のほうが、素直である。又八は武蔵にとって反面教師なのである。又八は、お甲の誘惑に負け、お甲と駆け落ちしたがために人生の道を踏み外し、お甲のヒモになってしまう。結局お甲に捨てられ、又八は武蔵に負けず自分も出世しようとするが、うまく行かない。最後は朱美と再会し、夫婦になって、子供を作る。彼は、剣の道に入ることもなく、出世もしないが、幸福を得る。
第五部完結篇の終わりで、又八と武蔵を見ると、武蔵の方が不幸になっている。ラスト・シーンで、佐々木小次郎と対決する前に、武蔵はお通さんが自分の妻であることを認めるが、あくまでも心の妻にすぎない。本当の夫婦になれたのか、なれなかったのかは分からないままの結末になっている。きっと武蔵は小次郎に勝っても、お通さんを伴わず、一人で放浪の旅を続けていくにちがいない。やはり『宮本武蔵』は、永遠のプラトニックラブ・ストーリーだったのだろう。(つづく)
舞台となった火野葦平の故郷にも行ってみたい思いは
同じです。 船島のこと、どうもありがとうございました。 五部全部で、9時間以上かかるんですねぇ
GWに全部は無理かなぁ。遊びにも行きたいし・・・
どうしん様は巌流島を訪ねてみたいとのことですが、私もいつか行ってみたい。小次郎の石碑があるそうですが、以前聞いた話では、ここは現在も無人島で、船を特別にチャーターしないと渡れないらしいですね。北九州は、「花と龍」の舞台でもあるので、ぜひ名所めぐりをしたいなーと思っています。
一昨日は、池袋で『股旅三人やくざ』を観てきました。「春の章」の錦ちゃんと若葉さんは、武蔵とお通さんとは役どころがまったく違いますが、どうも二人のイメージがダブって、頭から離れませんでした。
NHKへのリクエストに五部作品一挙放映を依頼してきました。