錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(その七)

2007-04-09 22:10:42 | 宮本武蔵
 『宮本武蔵』第一部の終わり近くである。峰の頂でお通さんと別れて、タケゾウは囚われている姉を助けに山牢へ行く。が、そこはもぬけの殻で誰もいない。そこで、引き返して、お通さんの待っている姫路の花田橋へ向かう。映画では、山道の岐路でタケゾウは沢庵和尚に出会う。真ん中に石の道しるべが立っていて、右の道が「花田橋」と書いてある。タケゾウは沢庵和尚から姉が無事であることを告げられ、「わしについて来い」という彼の言葉に従って、姫路城へ通じる左の道を歩いていく。結局、タケゾウは花田橋でお通さんとは会わずに、沢庵和尚に連れられて姫路城へ行き城主の池田輝政と会い、そのまま天守閣の一室に三年間幽閉されてしまうことになる。
 花田橋で再会する約束をしたのに、お通さんを置いてきぼりにして、タケゾウはずいぶん薄情な男だなーと私は思ったのだが、原作を読むとこの辺はちょっと違う。山牢に姉がいないことが分かると、タケゾウはすぐに花田橋へ行くことになっている。しかし、お通さんはそこに待っていない。タケゾウは落胆する。それでも数日間花田橋に通ってお通さんを探すのだが、会えない。姫路へ移されたと聞いた姉のことも気に懸けながら、姫路城下を菰(こも)を被ってうろうろしている時に沢庵和尚に出会うのだ。お通さんがなぜ花田橋にいなかったかと言うと、彼女は一人で峠を越えて姫路へ向かう途中、病気で倒れ山道のお茶屋で寝込んでしまう。ところが、そこに居るところを、追討の旅に出たお杉婆さんと権(ごん)叔父に見つかり、お通さんは危難を知って逃げ出す。そして、タケゾウと別れて20日目にようやく花田橋にたどり着く。それからずっと(970日)、橋のたもとにある土産物を売る竹細工屋で働きながら、タケゾウを待ち続けるのである。
 映画は、このすれ違いの部分を省いていたので、タケゾウが不実な男のように私には思えたわけである。が、映画は、限られた時間の中でこういう細かい部分まで描けないので、仕方がないとも言えよう。いや、こうしたまだるっこい箇所はばっさり切って、本筋をしっかり描き出すことに内田吐夢は力を傾けたのだろう。
 花田橋のすれ違いの経緯はともあれ、結局二人は、峠で別れて以来三年間も会えなかった。このことに変わりはない。むしろ、『宮本武蔵』第一部の鮮やかで印象的なラストシーンを語らなければならない。ここは、逆に原作にない場面を挿入し、映像的な構成によって最後を盛り上げていた。天守閣の一室で柱から血をしたたらせたり、赤松一族の亡霊を出して恨みを語らせたりする部分は、内田吐夢のハッタリっぽく、やり過ぎの感もいなめないが、花田橋のたもとの竹細工屋で茶杓(ちゃしゃく)を作っているお通さんの姿をありありと描いたところは余韻が残って素晴らしかった。気長に、そして幸せそうに待っているお通さんを観て、安心し、心なごむ気持ちになったのは私だけではあるまい。
 店の主人に扮した宮口精二の味のある演技とセリフがまた見事だった。茶杓の作り方を教えながらお通さんにそれとなく人の生き方も教え、暖かくお通さんを励ます宮口精二がなんとも言えず良かった。姫路城の天守閣に閉じこもって人間修業に励んでいるタケゾウのカットは短くして、花田橋のたもとで待っているお通さんのカットを長めに入れたのが実に効果的だったと思う。
 お通さんの様子を見に来た沢庵和尚が、遠くの天守閣を眺めながら、輪を描いて飛んでいるトビを見ているお通さんに「ほかに何かが見えないか」と尋ねる。お通さんは怪訝そうな表情をして素直に「何も見えない」と答える。お通さんはタケゾウが天守閣にこもっていることを知らない。沢庵和尚もあえてそれを教えようとしない。ただ、「今に分かる。待てば分かる」と希望的な言葉をかける。お通さんは嬉しそうにうなずく。この場面も良かった。
 
 さて、タケゾウは、三年間、姫路城の天守閣の一室に引き籠り、万巻の書を読みながら人間を磨き、宮本武蔵に変わっていく。最後の最後で、真正面から映し出された錦之助の変貌ぶりが凄かった。叡智の光に照らされたかのように徐々に顔かたちが見えてくるのだが、まるで仙人のように変身している。これにはびっくり仰天!錦之助得意の大変身である。あのタケゾウが、こんな立派な男になるのだろうか、といささか疑問に思わなくもないが、眼光鋭く、悟り切ったような顔つきになっているのだ。そして最後に「もののふの強さとは、こわいものの恐ろしさをよく知り、命を惜しみ、いたわらなければならない」ときっぱり言い放つ。これで第一部が終わる。『宮本武蔵』五部作を観ていて私はいつも思うのだが、この第一部のラストのタケゾウは、全作を通じて、いちばん悟りの境地に達した武蔵の表情になっていると感じる。まるで「五輪書」を書いてもおかしくない武蔵になっているような印象を私は覚えるのだが、皆さんはどう感じたのだろうか。




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