明るい錦之助が私は好きだ。気風が良くて、ちょっと粋がって、べらんめぇ調で、強がりを言って……、これなら渥美清の寅さんだって変わらないが、錦之助はあの甘くてとろけるような美しい顔立ちで、威勢のいい啖呵を切る。これは、もうたまらない。「よっ、いなせなおあにいさん!」と声をかけたくなる。男ながらに惚れ惚れとしてしまう。
女に惚れたときの錦之助も私は好きだ。はにかんだ表情がなんともいえない。鶴田浩二もいいけれど、錦之助は女にとことん尽くす。あの甲斐甲斐しさ!女が病で弱っていれば、飯を炊いておかずを作って……、やさしい言葉を添えてそっとお膳を差し出す。こんな真似はそうはできない。惚れた女と離れ離れになるときは、女のかんざしを懐に入れ肌身離さず持っている。なんと女思いの男なのだろう。
度胸を据えたときの錦之助も好きだ。きりりと締まった真顔がいい。高倉健みたいに凶暴な顔ではない。健さんの凄みもいいが、錦之助はあんなに力まない。凛々しく、すっきりした晴れがましさがある。
男同士で語らう錦之助がまたいい。相手の男は、東千代之介、千秋実、三國連太郎などが思い浮かぶ。が、誰であろうと、錦之助といると相手も引き立つ。相手に対する人情がにじみ出て、男同士の心の交流がひしひしと伝わってくる。
中村錦之助が物心ついた頃から私はずっと好きだった。今でも好きで、錦之助を好きな私の気持ちは死ぬまで変わらないだろう。こんなことを言うと、錦之助の女性ファンと間違われるかもしれないが……、あいにく私は男である。任侠の世界では、男が男に惚れる、なんてことを言うが、錦之助への思いはそれとちょっと似ている。錦之助は、男が憧れる「いい男」の代表、日本人の心のなかにある理想の男である。
中村錦之助。この名前の響きだけでも懐かしさがこみ上げてくる。正直言って、萬屋錦之介という名前は、私の場合どうもなじめない。なにか別人のような気がするのだ。私のなかで大好きな錦之助ははっきりしている。昭和30年代東映時代の中村錦之助である。
女に惚れたときの錦之助も私は好きだ。はにかんだ表情がなんともいえない。鶴田浩二もいいけれど、錦之助は女にとことん尽くす。あの甲斐甲斐しさ!女が病で弱っていれば、飯を炊いておかずを作って……、やさしい言葉を添えてそっとお膳を差し出す。こんな真似はそうはできない。惚れた女と離れ離れになるときは、女のかんざしを懐に入れ肌身離さず持っている。なんと女思いの男なのだろう。
度胸を据えたときの錦之助も好きだ。きりりと締まった真顔がいい。高倉健みたいに凶暴な顔ではない。健さんの凄みもいいが、錦之助はあんなに力まない。凛々しく、すっきりした晴れがましさがある。
男同士で語らう錦之助がまたいい。相手の男は、東千代之介、千秋実、三國連太郎などが思い浮かぶ。が、誰であろうと、錦之助といると相手も引き立つ。相手に対する人情がにじみ出て、男同士の心の交流がひしひしと伝わってくる。
中村錦之助が物心ついた頃から私はずっと好きだった。今でも好きで、錦之助を好きな私の気持ちは死ぬまで変わらないだろう。こんなことを言うと、錦之助の女性ファンと間違われるかもしれないが……、あいにく私は男である。任侠の世界では、男が男に惚れる、なんてことを言うが、錦之助への思いはそれとちょっと似ている。錦之助は、男が憧れる「いい男」の代表、日本人の心のなかにある理想の男である。
中村錦之助。この名前の響きだけでも懐かしさがこみ上げてくる。正直言って、萬屋錦之介という名前は、私の場合どうもなじめない。なにか別人のような気がするのだ。私のなかで大好きな錦之助ははっきりしている。昭和30年代東映時代の中村錦之助である。
寝不足の昨今です。晩酌をしながらナイターで中日の勝ちを確認をすると(負けるとふて寝?)おもむろにざんまい三昧で気が付くと丑三つ刻、慌てて床に就くが映画のカットの数々がフエードバックし興奮して仲々寝付けずうとうととまどろんでいる内に起床時間、こんな毎日でコメントを書く余裕も無い状態ですが、背寒さんに共感・共鳴する錦之助ファンの小生としては、何か一言でもコメントしたいと思って、背寒さんのペースに追いつけないと思いますが最初のページから少しずつコメントをいれてゆきたいと思っています。
“生涯錦之助ファン”正に私もそのとおり小4の時“笛吹童子”で出合って“本覚坊遺文 千利休”まで映画の錦ちゃんが好きです。テレビ・舞台は観る機会が制限され、又 集中力とでも言うの何か熱中出来なくて!特に”萬屋錦之介”時代は名前も演技も重々しく感じて馴染めないところも有って一時錦ちゃん離れした時期も有りましたが、“柳生一族の陰謀”で久しぶりに“映画”の錦ちゃんに再開して“萬屋錦之介”ファンとして復活!!リバイバル上映の“名画座”巡りと関連書籍を求めて”古書店”巡り。しかし中部地区は仲々そのチャンスも少なく“首都圏”や“関西圏”の人を羨ましく切歯扼腕していました。
定年リタイヤしてからは、“京都映画祭””京都文博”“高槻松竹セントラル”等関西圏は何とか無理をしても通いましたが、東京へはちょっと?でも11月の何とか渋谷へはスケジュールしだいでは2,3日の泊り込みをしたいと思っているところです。
話が逸れましたが錦ちゃん映画をリアルタイム欠かさず観るように成ったのはやはり中学生になってからで、きしくもシネスコに成った「源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流」ころからだと思います、それ以前の作品は「笛吹童子」「紅孔雀」「七つの誓い」の“新諸国物語シリーズ”そして併映の「おしどり若衆」「勢ぞろい 喧嘩若衆」「任侠清水港」単発で「新撰組鬼隊長」「源義経」「赤穂浪士」「青年安兵衛 紅だすき素浪人」等は記憶にありますが、あとは“ビデオ”“再映版”とテレビ放映で観ていますがビデオ未発売の17本は永遠の未見?
その中で「紅顔の若武者 織田信長」は高千穂ひづるの“濃姫”の印象は強烈に残っているのに“風雲児 織田信長”重なって映画で観たのか雑誌のグラビアでのイメージか定かでなく何とか観て確認したいと思っていますが!
もう一本「青雲の鬼」は当時“山手樹一郎”の原作を読んで“天に梯子を架ける”主人公“早水東吾”に共鳴した記憶が有るのに映画の記憶が全然沸いてこない原作と映画のギャップが大きすぎて欠落したのかも知れない、これも確認の為是非観たい映画です。
まだまだ書きたいことはたくさんありますが長くなりましたので次回に・・・
倭錦さんと同じで私も萬屋錦之介にはどうも馴染めません。この気持ちは昔も今も変わりません。
私は、映画スター中村錦之助ファンであることは、自信を持って断言できますが、萬屋錦之介ファンではないと思います。大好きな錦之助は、この文章にも書いたとおり、昭和30年代東映時代の中村錦之助です。
錦之助が東映を辞めてから出演した映画も、何本かは封切りの時観に行ったのですが、正直言って、失望の連続でした。東映復帰作「柳生一族の陰謀」を観た時も、さすが錦之助と思い、また映画の大ヒットに喜びはしましたが、何か違うなーという後味の悪さを感じました。「真田幸村の謀略」でまた失望。「赤穂城断絶」の内蔵助もまあまあで、感動したのは「青春の門・自立篇」の落ちぶれたやくざに扮した錦之介だけでした。
私は、「祇園祭」以降の錦ちゃんの映画では、「尻啖え孫市」と「幕末」と「真剣勝負」だけが好きで、あとはそれほど好きになれない。
倭錦さん同様、テレビに出演しているた頃の錦之介も「子連れ狼」以外は熱中して観ていなかった。今ビデオで観られるテレビ出演作などたまに見ることもありますが、どうしても作り方が安っぽく、製作者の情熱も足りない気がします。錦之助も演技の切り売りみたいで…、やはり映画に打ち込んでいた錦之助の方がはるかに素晴らしいと思います。錦之助の舞台は、一度も観たことがないので、私には語る資格はありません。ただ、芝居の演技に凝り固まった錦之助には残念ながら魅力を感じないんです…。