錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『沓掛時次郎 遊侠一匹』

2006-03-18 05:26:52 | 沓掛時次郎 遊侠一匹


 錦之助の股旅映画の中でも長谷川伸原作の三作品、『瞼の母』(昭和37年)『関の彌太ッペ』(昭和38年)『沓掛時次郎 遊侠一匹』(昭和41年)はいずれも甲乙つけがたい名作であるが、この『沓掛時次郎 遊侠一匹』は、寄る辺のない男と女の深い情愛を描いて比類のない作品である。
 長谷川伸の戯曲「沓掛時次郎」は、沢田正二郎によって新国劇の舞台で上演されたのが最初で、その後舞台だけでなく、戦前戦後と何度も映画化されている。主役の沓掛時次郎を演じた映画俳優は、大河内伝次郎、長谷川一夫、島田正吾、市川雷蔵などがいる。しかし、錦之助主演、加藤泰監督のこの作品を観てしまった人にとっては、錦之助の時次郎が最高である、と口を揃えて言うにちがいない。
 共演者も良い。おきぬ役の池内淳子が絶品である。池内淳子は、この映画の女房役が代表作の一本であろう。
 朝吉役の渥美清がまた実にいい味を出している。そして東千代之介。出番は少ないのだが、おきぬの亭主、六ツ田の三蔵を演じる千代之介が際立っている。この二人は映画の前半にしか登場しないが、その存在感は残像となって映画の後半までずっと頭から離れないほどである。

 『沓掛時次郎』は、非常にヴォルテージの高い作品だった。やくざ渡世に身を置く時次郎は、一宿一飯の恩から助っ人を頼まれ、何の縁も恨みもない男(六ツ田の三蔵=東千代之介)を斬ってしまう。斬られた男もいっぱしのやくざで、いまわの際に時次郎に遺言を託す。残した女房(おきぬ=池内淳子)と幼い一人息子を頼むと言うのだ。そこから類まれなドラマが始まる。時次郎は、おきぬと息子を郷里の実家まで送って行く羽目になってしまう。そして、旅をしているうちに、時次郎とこの女の間にあった心の距離が徐々に縮まっていく。互いに心を寄せ合い、離れたくないほど好きになってしまうのだ。

 時次郎とおきぬの心の交流と葛藤。これが観る者にひしひしと伝わってきて胸を打つ。
 時次郎の側から言うと、殺した男の恋女房に惚れてしまった辛さ、良心のとがめ。惚れたなんて口が裂けても言えない苦しさ。でも、好きだから、尽くすだけ尽くす。女が病気になったときの甲斐甲斐しさ。看病できる喜び。錦之助のはにかんだ表情、嬉しくて生き生きとした表情がたまらない。
 おきぬの側から言うと、敵愾心が溶けていく心の移り変わり。死んだ亭主に対する貞淑さが崩れていくことへの心の乱れ、自責の念。男に尽くされる女の喜び。もうこれは、あのしっとりと落ち着いた池内淳子ならではの役どころとしか言いようがない。

 この映画でとくに印象に残るシーンを挙げておこう。
 まず、時次郎とおきぬが初めて出会う場面。時次郎は後で知らないままおきぬの亭主と刃を交える宿命になるのだが、ここはその前のいわば布石に当たるところである。子連れのおきぬが、どこか知り合いの家でも訪ねた帰り道、渡し舟に乗って、土産にもらって風呂敷に包んで持ってきた柿を惜しげもなく舟に乗っているみんなに配る。舟の中でぽつねんと坐っていた時次郎にもおきぬは声をかけ、そっと大きな柿を手渡す。時次郎は柿を両手で大事に包むようにして受け取る。色鮮やかな大きな柿におきぬの心の温かさを象徴させ、そのぬくもりを肌で感じて、時次郎の頑な心が打ち解けていく。
 もう一つ、印象的というよりむしろ感動的なシーンがある。時次郎の看病の甲斐あって、おきぬの病気が快方に向かい、明日には床上げできるという一夜の場面である。お祝いにお銚子一本つけて、子供が寝入ってから、二人が盃を交し合うところである。ここが実に素晴らしい。おきぬは初めて時次郎の前で三味線を手にして唄を聞かせる。時次郎に対し、ついにおきぬは自分の心を開き、切々と自分の思いを唄に託して打ち明けるのだ。
 下世話な言葉で言えば、これは一種のラブシーンなのだが、二人は手を握り合うことも体を寄せ合うこともなく、感極まったまま画面は暗転してしまう。この契りの一夜(私はそう解釈している)を境にして、話は急展開し、おきぬは子供を連れて、時次郎の前から姿をくらましてしまう。
 そこから最後の悲劇に至るまでの展開はあえて書かないが、この映画を観ていると、感情の波がうねりのように押し寄せては引き、また押し寄せるといった具合で、観ている者もこの波に呑み込まれ、心を揺さぶられ続ける。そんな稀有な作品である。(2019年2月4日一部改稿)




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8 コメント

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時次郎 (倭錦)
2006-10-02 22:51:45
 長谷川 伸の股旅物、錦之助は、この映画を含めて「越後獅子祭 やくざ若衆」「瞼の母」「関の弥太っぺ」の四本に出演しているが初期の「越後獅子祭りやくざ若衆」を別にしてあとの三作は“錦之助の長谷川 伸 三部作”として評価が高い、私としても甲乙付けがたくすべてが好きな作品群である。中でもこの「沓掛時次郎 遊侠一匹」は錦之助が東映を去る「丹下左膳 飛燕居合斬り」の前に任侠映画は時代劇でも充分描ける、いや“義理と人情”の世界は時代劇の方が優れている!という“意地”をみせて東映を去って行った作品として“最高傑作”と言えるかもしれない。

仁義の切り方、一宿一飯の重さと旅人の命の軽さ、そして恩義やけじめのつけ方、最後には“やくざ渡世”がいかに儚いものかを見せ付けてドスを投げ出し去って行く後姿の悲しさ、その後10年余り続いた“任侠映画”を予見さえしていたのでは!!

タイトルバックにかかる“渥美 清の身延の浅吉”のさえない仁義と河原の決闘からラストの“太郎吉”を負ぶって立去る後姿まですべてのカットが昨日観たばかりのように思い出せる、“お絹”との出会いの“柿”の手渡し、一転、ホリゾントの夕焼けを歩く“太郎坊”を肩車しての道行き、“六田の三蔵”との一瞬の勝負、床上げの日のささやかな宴・・・ 中でも暗転から雪が降り注ぎ行灯の灯がともり“中村芳子”とのやり取りから三味線の音色と太郎吉の唄う追分節に“はっと”して表へ飛び出す時次郎、雪の中を行く母子と追う時次郎とお絹の喀血のシーンは思いだすたび涙が出てくる。

出入りが終わって駆け足で帰ってきた時次郎へ“清川虹子”が“時さん! 遅かった!!”ローアングルの“加藤 泰”もさすがにここは“俯瞰撮影”だなと別のことを考えたっけ!ETC・・・ひとつひとつのシーンが思い出せる。

実は、私はビデオは持っているが買って来たとき以外は出きるだけ観ないようにしている、テレビ放映も“録画”はしても殆ど観ない、何故なら映画館のスクリーンで観たいから、いつかホームシアターで100インチ以上のマイ・スクリーンを持つ夢の実現を待って、それまでは名画館での上映を追い求めて・・・その意味で首都圏に住む背寒さんが本当に羨ましい限りです。



(作品論や演技論は背寒さんの記事を読むととても書けませんが、ほぼ同感・同意見です!!)
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時次郎とおきぬ (背寒)
2006-10-06 19:13:39
記事にも書きましたが、『沓掛時次郎・遊侠一匹』は、恋愛映画として秀作だと思っています。私の見方はちょっと片寄っているかもしれませんがね。

この映画は凄惨な斬殺シーンが多く、今観るとそれが欠点のような気もします。まあ、あの頃の時代の反映なんでしょうが、後年の任侠やくざ映画を思わせる過激な描写が目立ちます。『関の弥太ッペ』も竹林のシーンが壮絶だった。最近私は、肉を切る音とか血の流れるシーンが苦手になって、白黒ならまだいいのですが、カラーだとノー・サンキューといった感じです。

渥美清の身延の浅吉という登場人物は原作にはありませんが、加藤泰の工夫なのか、脚本家の鈴木尚之の創案なのか、それは知りません。どうもこの最初の部分は褒める評論家が多いようですね。やくざのミジメさが強調され、ラスト・シーンで時次郎がやくざをやめる理由付けになった、みたいに言う人が多い。でも、私はなくてもよかったのではないかと思っています。六ツ田の三蔵(千代之介)と時次郎の決闘シーンは、昔の東映時代劇らしくて良かった。

倭錦さんは、映画をビデオで繰り返し観ないようですが、私はビデオで何度も観ます。映画館のスクリーンで観る方がもちろん良いに決まっていますが、良い映画はビデオで観ても、十分感動します。私はこの20年くらいの間はビデオ鑑賞ばかりでした。最近、映画館へよく足を運ぶようになりましたが、東京にいるとやはり有利ですね。でも、観たい映画をあちこちでやっているので、観始めるとキリがありません。
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こんな本ご存知ですか? (竜子)
2006-10-07 18:09:52
ワイズ出版から日本カルト映画全集5として「沓掛時次郎、遊侠一匹」という薄い本が出ています。一冊まるごと錦之助の時次郎の記事で映画の脚本と長谷川伸原作の脚本が含まれています。鈴木尚之と掛札昌裕のインタビュー、加藤泰の講演などが載ってます。

それによりますと、鈴木尚之さんが先に脚本を書いて、監督が後から決まったとき、渥美清さんの部分に難色を示して、口論になったとかかいてあります。

先に錦之助の股旅物という企画があって、それに渥美清を参加させて、遊侠一匹というタイトルでオリジナルを考えたが、うまく出来なくて、沓掛時次郎になったということです。

加藤泰監督はこの作品で究極のラブストーリーを描きたかったと述べておられますね。勿論プラトニックラブです。
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持っているだけで… (背寒)
2006-10-07 18:53:43
その本、この間買って、まだ読んでいません。積んである本ばかりで、読む方が追いつきません。

そうですか、錦之助と渥美清の共演作の企画ですか…。

渥美清の殺し方が残酷なところが問題だったのでしょうかね。

加藤泰は、究極のラブストリーを描きたかった!そうでしょうね。すると、私の見方もあながち的外れではなかったわけで、なんだか嬉しい気がします。

プラトニック・ラブという点では、どうでしょうか。私の解釈では、床上げの祝いの日の晩が二人が契りを結ぶ決定的な一夜で、そこから急転して翌日おきぬが子供を連れて、時次郎の前から姿をくらましますね。あれは、良心の呵責に耐え切れなくなった貞淑な女の行動だと思って、いつも観ております。ブログの本文にもそんなニュアンスで書きましたが…、異論のある方もいるかもしれません。加藤泰はそういうつもりで、あの場面を演出した、と私は勝手に思っています。

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良心の呵責・・・ (竜子)
2006-10-08 00:04:08
夫を殺した人に引かれていく・・、ともすれば夫の事を忘れてしまって、時次郎との生活に幸せな気持ちを感じるそうゆう自分の心が怖くなったのだと私は感じてますが。

再会した時、咳き込むお絹さんの背中をさすろうとして、一瞬躊躇しますね。錦之助さんはあの演技で二人の間を表現したのだと思いました。

プラトニックかどうかを本の中で論じてますが。

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また見ようかな… (背寒)
2006-10-08 13:45:48
しばらく「沓掛時次郎」にはご無沙汰していますが、また見ようと思います。

ところで、昨日はずっとビデオのジャケットをスキャニングしていました。これまでの記事にあったボケている画像はほとんど差し替えたので、見やすくなったと思いますよ。
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プラトニック (どうしん)
2006-10-09 23:27:46
私は、竜子様の読まれた本を、まだ読んではおりませんが、相手を本当に大切にしたいという、触れることのできない「愛」だと思います。だからプラトニックなのかな。そのように感じ今まで観ていた気がします



「女と男 情感の美学 加藤泰」では、最後の場面

刀を捨てて、子供を抱えて去ってゆく場面のことですが、ここで監督は、錦之助に「時次郎は、刀を捨てるが、やくざから堅気にはなれない」という思いをもって歩くんだということを言われたらしい。みている者には、確かにこれから、どうするのだろうかというところで「終」のマークですもの。・・・余情があって

本当によい映画でしたね。
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ラストシーン (背寒)
2006-10-10 13:14:49
そうですね。ラストシーンは、印象的で良かった!

子供を抱えて、時次郎は一体これからどうするのだろう?と思わせる終わり方でした。それもこの子供は、自分が殺した男と愛した女の遺児ですからね…。ものすごい重荷を背負って生きていくんだなーと思いました。やくざから足を洗えない?そうかもしれません。

それにしても、錦之助は、子供と共演している姿がどんな作品を見ても、愛情があふれていて実にイイですね。ホントに。

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