デヴィッド・クローネンバーグ監督、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』、KBCシネマにて鑑賞。
4/1は映画の日ということもあって映画のハシゴをしてきました。(正確には映画の日は12/1で、この日はただのファーストディだけど。)
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と『ウォレスとグルミット』を観たかったんでこの二本と、余力があればもう一本何か観ようと思ってました。
しか~し!!
何とこの日、KBCシネマで『かもめ食堂』公開を記念して、出演者(小林聡美、もたいまさこ、片桐はいり)による舞台挨拶があったんですよ。
普段であればスルーする作品だけど、舞台挨拶があるなら観に行こうか、、、しかしこれを観ると自然と『ヒストリー・オブ・バイオレンス』がタイムテーブル的に弾かれて観れなくなってしまう、、、前日まで散々悩んだんですが、結局当日になって家を出るのが遅くなったので『かもめ食堂』の舞台挨拶開始の時間に間に合わず、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を観ることと相成りました。
じゃ、『かもめ食堂』のこと、触れなくていいじゃん。
ごもっとも。
閑話休題。
スピルバーグ監督の『ミュンヘン』(当ブログのレビューはこちら)同様、報復をテーマにした作品ですが、『ミュンヘン』と違い、鑑賞後本作はどうにも薄っぺらい印象ばかりが残りました。
ストーリーは一見どこにでもいる家庭的で平凡な男と思われたトム・ストールが実はマフィアの殺し屋だった過去を持ち、ある事件をきっかけに以前所属していた組織から命を狙われるようになる、というものです。
ストーリー自体は取り立てて目新しいものではなく、むしろ古典的ともいえるのですが、それ自体は悪いことでも何でもない。
自分が薄っぺらいと感じたのは人物造形です。
主人公であるトムは、かつてはジョーイと名乗っていて、マフィアの世界では名の知れた存在でした。
トムはこういった言葉を口にします。「かつての自分はクズだった」とか「ジョーイは砂漠で死んだ」とか「三年を掛けてトムになった」などなど。
トムという人間にジョーイという殺し屋だった過去があったということは、逆に言えば、ジョーイというどうしようもない極悪人が、何らかのきっかけがあってトムという真人間に生まれ変わった、ということです。
けれど作中なぜジョーイが真人間になろうとしたのか、その理由が一切明かされません。
戦いに疲れ果てたから?いやいや、ジョーイであれば喜々として追っ手を残らず返り討ちにするでしょう。
愛する女性と出会ったから?これも違います。のちに妻となるエディと最初に会った時点ではすでにジョーイはトムと名乗っていました。
何となく真人間になろうとした?まさか!相手の片目を有刺鉄線で抉り取るような男が然したる理由もなく真人間になろうとするはずがありません。
とにかく何かがあって、おそらくは劇的な何かが、ジョーイは真人間になるべく過去と決別したんだと思います。(そうでなければおかしい。)
ところがその“何か”が具体的には一切語られないので、トム・ストールという人物そのものに自分はリアリティを感じられず、ついでに彼の言葉も説得力を欠き、自然と『ヒストリー・オブ・バイオレンス』という作品もひどく薄っぺらいものに思えてなりませんでした。
ですから、この作品が最終的に何を訴えたいのかも、自分にはよくわかりませんでした。
暴力の連鎖の空しさなのか、それとも降りかかる火の粉は手で払うのも止むなしという暴力の肯定なのか、もしくは傷ついた男を受け入れる家族の素晴らしさなのか。
そんな感じで自分の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の評価は高いとはいえないのですが、こと人物破壊描写においてはさすがはクローネンバーグ、スピルバーグに努々劣るものではありません。
例えば普通のアクション映画だったら銃で撃たれた人間はピクリとも動かないというのが相場じゃないですか?
でも本作では違うんです。銃で撃たれ、明らかに死んでいると思しき男の身体がピクピクと動いてるんです。活け作りの魚みたいに。リアルでしたよ、今まで観たどの映画よりも。
というわけで『ヒストリー・オブ・バイオレンス』、ごく一般的な映画ファンには自分はちょっと薦められません、人物破壊描写フェチの方には必見だと思いますけど。
4/1は映画の日ということもあって映画のハシゴをしてきました。(正確には映画の日は12/1で、この日はただのファーストディだけど。)
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と『ウォレスとグルミット』を観たかったんでこの二本と、余力があればもう一本何か観ようと思ってました。
しか~し!!
何とこの日、KBCシネマで『かもめ食堂』公開を記念して、出演者(小林聡美、もたいまさこ、片桐はいり)による舞台挨拶があったんですよ。
普段であればスルーする作品だけど、舞台挨拶があるなら観に行こうか、、、しかしこれを観ると自然と『ヒストリー・オブ・バイオレンス』がタイムテーブル的に弾かれて観れなくなってしまう、、、前日まで散々悩んだんですが、結局当日になって家を出るのが遅くなったので『かもめ食堂』の舞台挨拶開始の時間に間に合わず、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を観ることと相成りました。
じゃ、『かもめ食堂』のこと、触れなくていいじゃん。
ごもっとも。
閑話休題。
スピルバーグ監督の『ミュンヘン』(当ブログのレビューはこちら)同様、報復をテーマにした作品ですが、『ミュンヘン』と違い、鑑賞後本作はどうにも薄っぺらい印象ばかりが残りました。
ストーリーは一見どこにでもいる家庭的で平凡な男と思われたトム・ストールが実はマフィアの殺し屋だった過去を持ち、ある事件をきっかけに以前所属していた組織から命を狙われるようになる、というものです。
ストーリー自体は取り立てて目新しいものではなく、むしろ古典的ともいえるのですが、それ自体は悪いことでも何でもない。
自分が薄っぺらいと感じたのは人物造形です。
主人公であるトムは、かつてはジョーイと名乗っていて、マフィアの世界では名の知れた存在でした。
トムはこういった言葉を口にします。「かつての自分はクズだった」とか「ジョーイは砂漠で死んだ」とか「三年を掛けてトムになった」などなど。
トムという人間にジョーイという殺し屋だった過去があったということは、逆に言えば、ジョーイというどうしようもない極悪人が、何らかのきっかけがあってトムという真人間に生まれ変わった、ということです。
けれど作中なぜジョーイが真人間になろうとしたのか、その理由が一切明かされません。
戦いに疲れ果てたから?いやいや、ジョーイであれば喜々として追っ手を残らず返り討ちにするでしょう。
愛する女性と出会ったから?これも違います。のちに妻となるエディと最初に会った時点ではすでにジョーイはトムと名乗っていました。
何となく真人間になろうとした?まさか!相手の片目を有刺鉄線で抉り取るような男が然したる理由もなく真人間になろうとするはずがありません。
とにかく何かがあって、おそらくは劇的な何かが、ジョーイは真人間になるべく過去と決別したんだと思います。(そうでなければおかしい。)
ところがその“何か”が具体的には一切語られないので、トム・ストールという人物そのものに自分はリアリティを感じられず、ついでに彼の言葉も説得力を欠き、自然と『ヒストリー・オブ・バイオレンス』という作品もひどく薄っぺらいものに思えてなりませんでした。
ですから、この作品が最終的に何を訴えたいのかも、自分にはよくわかりませんでした。
暴力の連鎖の空しさなのか、それとも降りかかる火の粉は手で払うのも止むなしという暴力の肯定なのか、もしくは傷ついた男を受け入れる家族の素晴らしさなのか。
そんな感じで自分の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の評価は高いとはいえないのですが、こと人物破壊描写においてはさすがはクローネンバーグ、スピルバーグに努々劣るものではありません。
例えば普通のアクション映画だったら銃で撃たれた人間はピクリとも動かないというのが相場じゃないですか?
でも本作では違うんです。銃で撃たれ、明らかに死んでいると思しき男の身体がピクピクと動いてるんです。活け作りの魚みたいに。リアルでしたよ、今まで観たどの映画よりも。
というわけで『ヒストリー・オブ・バイオレンス』、ごく一般的な映画ファンには自分はちょっと薦められません、人物破壊描写フェチの方には必見だと思いますけど。