ブログ 「ごまめの歯軋り」

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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月11日 | 書評
栃木県真岡市井頭公園の森広場

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第10回

第1章 「国家成立史における国際的契機」 (第7講)

4) 天平期 第2の周期:

 7世中頃までの戦争と内乱の周期に比べると、第2の周期の動乱はるかに小規模で短期であった。朝鮮の情勢が新羅の統一によって安定したこと要因である。第2の周期は、高句麗の残党が建国したという渤海と唐の戦争および唐における安禄山の内乱を契機に、日本が巻き込まれた国際関係である。それらが内政に及ぼした影響は文物・法の交流事業に比べると過小評価されがちであるが、律令制国家機構の確立・実施・支配者内部の矛盾となって現れた。斉明・天智朝の百済援助の敗北経験からして、758年恵美押勝の乱で斬首された藤原仲麻呂の新羅征討計画のとん挫に見られるように、唐が新羅を援助する限りあり得ない選択肢であり現実性は無かった。ところが渤海より唐の安禄山の乱の報がもたらされたことが、仲麻呂が新羅征討計画を国家政策として実現するため3年間鋭意検討する契機となった。安禄山・史思明の内乱は唐王朝没落の危機であったが、国内政治がそれによって動かされるにはそれなりの条件がなくてはならない。①最高軍事指揮権の確立(仲麻呂が紫微内相になる)、②政治的反対派の弾圧、③新羅を攻撃できるかどうか戦争勝利の戦略の条件が揃わなくてはならない。国家官僚機構としては、机上のプランではなく、船舶、兵士、兵站に自信がなければ戦争に踏み切れない。国家機構の確立は、対外戦争を全官僚機構によって計算され準備される系統的な事業を可能にしなければならない。百済、高句麗の滅亡によって、その王族系帰化人が大量に来朝し、仲麻呂は彼らに氏姓を与えて征討計画の節度使といて採用した。惣管・鎮撫使体制は律令国家の強権的収奪体制を支え、畿内と西国の軍事態勢を固める意図があった。しかし孝謙上皇(道鏡)と淳仁天皇(仲麻呂)の対立が計画とん挫の端緒となった。天平期の日本・新羅関係は対等の外交関係を維持し、新羅は朝貢を拒否した。752年新羅の王子金泰廉が使節として来日するまで両国は国交断絶状態であった。751年新羅聖徳王の時代に日本の兵船300隻と交戦しこれを打ち破ったという記録がある。渤海国との外交関係は、728年遣渤海使引田虫麻呂が渤海の使節高斉徳とともに渤海に渡った。援助要請に応えるためであった。新羅が唐の指示により渤海を攻撃する計画ができたのは733年のことである。唐と渤海の戦争は726年に始まったので、唐は北から新羅は南から渤海を撃つ戦術であった。730年虫麻呂はこのような朝鮮半島の状況を視察し報告した。日本の支配層の中に新羅撃つべしという意見が起きたようである。731年藤原宇合ら6名が参議に任じられ、大納言藤原武智麻呂が太宰師を兼任した。この参議のうち4名が惣管・鎮撫使に補任された。この権力集中の方式は特定の人格によって代表される権力集中とは異質の任命であり、機構によって政策と行動の統一をおこなう集権制度の始まりである。なかでもその権力の中枢にいたのは藤原不比等の4人兄弟(藤原四卿)で、武智麻呂、房前、宇合、麻呂である。かかる権力集中形式を企画し権力を握ったのは藤原四卿であったにしろ、四卿の同時死去にも関わらず、この制度だけは生き残った。藤原一族は対新羅積極策、すなわち渤海と新羅関係に意欲を持っていた。720年不比等は「靺鞨国」(渤海)視察使節を送った。740年の藤原弘嗣の乱は西海の出来事であるが、橘諸兄政権とその側近たる僧玄昉、吉備真備に対する藤原宗家一族の勢力巻き返しの一側面である。諸兄政権は新羅策に消極的であったことにも不満であった。

(つづく)
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