ブログ 「ごまめの歯軋り」

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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月20日 | 書評
我が家の芍薬園

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第14回

第2章 「大化改新の史的意義」(第4講)

3) 改新と東国首長層: 
大化改新が政治改革であるなら、政策問題(公民制)のみならず、政策を実行する権力の所在を問題としなければならない。政策を決定した朝廷がこの権力を持っていないし、朝廷中央と地方組織の脆弱さからして、改新期に中央から派遣された「東方の八道」(東国の惣領)は中央の政策を在地に命令するだけで、彼らは直接人民への支配権はない。校田と民戸一般の調査・登録をおこない、租税と賦役を人民に強制する事実上の権力を持っている階級は、国造・伴造として存在する在地首長層以外にはない。彼らに政策を無視されたり、骨抜きにされると政策の実効はでない。(現在でいうと政治家立法と官僚層の関係に似ている) 大化改新詔関係史料a),b),c),d)にしきりに現れる「国造」への指示を見ると、国造が在地における改新の主体として全面にでてきたことが明白である。国制の身分的・族制的編成から領域的国家への転換の政策は、改新政府にとってその権力基盤を、国造制におくか、伴造制におくかの問題である。東国において典型的に見られることは、国造も伴造も、在地首長制が王民制の中で再編成される二つの形式であった。国造・伴造制の根底にある実体は、自律的独立的な在地首長制に他ならない。大化改新前の6世紀における在地首長制の王民制の編成は、部民制や屯倉性を通じて在地の支配形態の変化に大きな変化をもたらしたが、彼ら在地首長の独自の支配体系を変えるものではなかった。古墳時代の毛野(群馬県と栃木県地方)の豪族の古墳群はヤマト王権の古墳制度を見習ったものであるが、形式の上で大王間の身分的格差が見られないこと、および毛野の首長層らがヤマトの勢力に対して独立した支配権を有していたことを示している。5,6世紀西国の国造の反乱が頻発したことと東国の首長らは相反するようだが、首長の支配体系全体が名代・子代とされるような東国型の方が独立性が高かったと思われる。6世紀東国で多くの屯倉が設置されたが、大和朝廷の直轄地の鉄器農具による生産性向上は見られたが、中央から「田令」、「捉稲使」が派遣されたとしても、制度があれば官僚だけで生産できると考えるのは早計である。これらの実務を行ったのは在地首長層である。屯倉における剰余生産物の収奪は、屯倉を管轄する在地首長制における支配力、強制力に基礎をおいていた。在地首長層の権力関係は、軍事賦役と裁判権である。裁判と刑罰による強制力が支配の手段として不可欠である。在地の裁判権が中央の部民ー伴造の系列で構成されていたと考えることはできない。在地首長が領地内の民戸に対して一律に裁判権を行使した。出雲の国では、裁判権を有する出雲国造とそれに従属する首長層の領域支配力の協力なしには裁判の行使は不可能であった。推古朝を最盛期として伴造制は律令国家の発展により、王民制とともに没落する。大化改新の意義は次の点に要約できる。①国造の領域支配が制度化された。在地首長は王民制の秩序では部民の管轄者「伴造」として、特定地域の支配者としては「国造」として存在する。「国造」が「評造」(群制)に転化することで、人民の地域的編成・領域支配へ転嫁する。②国造から評造への移行に伴って、国造の支配領域の分割や統合、再編成が行われた。国造から評造への移行において、新しい評造に国造でない者も選任された。彼らは在地の首長層から選ばれた。すなわち在地首領層内で従来とは違う分化や発展が見られ、群小首長層(中間層)から中央が旨く吸い上げたということである。校田や民戸の調査・登録という政策が、東国だけでなく全国の在地首長層の階級的利害と結びついて進行した事業と成り得た。

(つづく)