ブログ 「ごまめの歯軋り」

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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月07日 | 書評
栃木県真岡市「井頭公園の森」

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第6回

第1章 「国家成立史における国際的契機」 (第3講)

2) 推古朝 権力集中の諸類型:(その1)

 推古朝は、東アジアの戦争と内乱の始まった時期にあたっている。倭国が1世紀にわたって中断されていた中国王朝との外交関係を再開したことは対外関係の歴史において一つのエポックをなすものであった。中国で随帝国が成立し598年第1次遣隋使派遣となったが、対新羅侵攻計画と並行して行われてたことは、601年大伴噛を高句麗に派遣し、坂本臣糠手を百済に派遣して任那救援を要請している。その2年前随の文帝が高句麗征討を行ったことで朝鮮の三国の激しい内戦状態を引き起こした。三国間の相対的安定期が終わり、約80年にわたる戦争の周期に入った。隋の圧力と倭国の介入が三国間の均衡を破ったのである。新羅は高句麗・百済を無視して594年に随に使いを出して貢献し、「上開府楽浪郡公新羅王」に封じられたことが、巨大な隋の従属国になったことを意味し、高句麗、百済の反発を招き、任那維持をもくろむ倭国(そのころ日本という国名は無かった)の介入を招いた。確かに1世紀にわたる倭国の中国との没交渉は、朝鮮三国から外交上の遅れをとった。608年第2次遣隋使の派遣で遅れを取り戻すために百済とともに朝貢したようである。東アジアでは朝貢国として隋の世界帝国的秩序に入ることが国の存続にかかわっていた。一つの支配・服従の国家関係である。この国家関係は唐の時代(日本では天平奈良時代)にも続き、唐の皇帝に毎年「上表」を出す義務があった。大伴古麻呂の新羅との席次争いが有名である。推古朝の倭国と隋の関係では、来朝した随使に対して倭国王(持統天皇・聖徳太子)は「我は夷人」と蔑み、朝貢を約束した。朝鮮の新羅・百済両国が倭国を「大国」といて一目置いているのは倭国が相対的優位にあり朝貢を促していたとみられる。倭国の「東夷の大国」という自負心も、基本的には法興王以来の新羅の急速な発展によって実体のない概念に過ぎなくなった。隋の征服戦争と三国間の戦争を契機として、倭国の内政に反映せざるをえなかった。皇太子=聖徳太子による万機をことごとく任せる「摂政」という政体である。「摂政」は推古朝の聖徳太子に始まり、孝徳ー斉明朝の中大兄皇子でもって終わる。7世紀前半の特別な事情と不可分にある。それは朝鮮三国と日本の戦争と内乱の周期が持つ特質と国内体制に要求される支配階級の権力集中という東アジア共通の事情である。①百済型:義慈王に見られるもので国王自身に支配階級の権力が集中した。641年に偽慈王が即位して専制君主として軍政の大権を握った。百済の官司制がそれを支えた。②高句麗型:泉蓋蘇文に見られるように、宰臣が国権を集中的に独占し、国王は名目的な地位を維持する。激しいクーデターまたは政変によって権力奪取が行われ自身は軍事独裁の「莫離支」となった。③新羅型:新羅の王族金春秋のように、支配階級の権力が王位継承権のある王族の一人に集中される。その強権は軍事背景を持つ指導者によって支えられている。王位には国権を持たない女帝がつく。貴族支配階級の首長の「評議」機関「和白」が重要な機関となる。ほぼ同時代の日本における女帝斉明天皇と中大兄皇子・藤原鎌足の関係に似ている。倭国(日本)での推古朝の政体をみてゆこう。聖徳大使の「万機総摂」制は権力集中という意味で朝鮮三国の場合と同じである。600年の第1次遣隋使派遣以降、603年「冠位12階」の制定、604年「17条の憲法」の制定、620年「天皇記」、「国記」の編纂をおこなった。600年の新羅出兵はほとんど成果は無く、その後の新羅出兵計画は挫折している。聖徳太子の対外派兵は極めて弱体で見るべき成果は何もなかった。

(続く)