ブログ 「ごまめの歯軋り」

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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月02日 | 書評
つつじ

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第1回

序章  [日本古代史研究] (その1)

石母田正氏(1912-1986)による「日本の古代国家」は、岩波書店日本歴史叢書 1971年によるものです。戦後の日本古代史研究の最も基礎となる著作だそうです。戦後の日本古代史研究における最大の成果であり、40年以上たってもなを読み継がれており、2017年1月に岩波文庫に収められました。石母田氏のプロフィールを紹介する。石母田氏は宮城県石巻市で育つ。父正輔は旧仙台藩出身で、石巻の町長・市長を長く務めた。二高を経て、東京帝国大学文学部西洋哲学科に入学。後に国史学科へ転科し、1937年に卒業。冨山房、日本出版会に勤務の後、朝日新聞記者を経て、1947年から法政大学法学部講師、1948年に同教授となった。この間、1963年から法学部長、1967年から附属図書館長などの役職にあり、1981年に定年退職、名誉教授となる。また、歴史学研究会幹部を歴任。1973年にパーキンソン病に罹患し、以降は闘病生活を送った。代表作である「中世的世界の形成」は戦前に脱稿していたが、戦時中の空襲で自宅と共に原稿は焼失した。しかし、敗戦により今こそ発表すべきと考えた石母田は自宅にこもり、雨戸を閉め切ったまま一夏で再び書き上げたという「神話」がある。戦後、歴史学研究会などを率いてマルクス主義に基づく歴史学の指導者治となった。石母田は古代史、国際関係史を中心に西嶋定生ら史的唯物論には与しない研究者の学説を積極的に取り入れたことから、逆に唯物史観に立つ研究者から石母田への反論が出されたこともあった。しかし主たる批判者の一人であった安良城盛昭が「石母田さんは古今未曾有の大学者である。この大学者を超えることは至難の業である」と称賛したという。石母田の首長制論は「日本古代における社会と国家の関係、古代国家の形成過程..が総合的に分析されている。これを超越しようとする古代史理論は未だあらわれていないともいえる」と評価される。石母田氏の歴史理論はゲルマン民族の文化人類学の首長制をモデルに構成されたものだが、それによって律令制国家形成における大化改新の意義を鮮明にして、律令租税制の本質に迫った。石母田氏の専門は古代史・中世史である。1946年に公刊された「中世的世界の形成」(岩波文庫 1985)は、伊賀の国黒田庄を舞台とする古代から中世への転換を説き、その領主制理論が戦後中世史研究に大きな影響を与えた。本書は4章からなる。第1章は「藤原実遠」という平安時代の中頃の伊賀の国28箇所の大領主のことからはじまる。藤原実遠は大農場主として、作業所・倉庫である田屋を建て農奴を使役して直接経営にあたった「当国の猛者」であった。しかし農民が独立を求めて狩り出される事を嫌って逃亡を繰り返すと、直接経営はついに破綻した。第2章は平安時代末期「東大寺」が、荒廃した藤原実遠の子孫が持っていた土地を買い取り、寄付させて、もともと黒田庄の近くの板蝿杣(大和国と伊賀国の境)という寺院建設用木材切り出しの山林から出発し始め20町に過ぎなかった黒田庄を12世紀前半には田地三百余町に拡大し支配した経過を描いている。寺奴のものは寺のものという「寺奴の論理」で寺社領化していったのが、南都の悪僧覚仁という稀代の政治僧であった。第3章は源平時代に領主=武士団が成長してくるが、東大寺と所領を争った名張郡司源俊方の戦いである。しかし武士団が他の地域と連合することなく孤立して戦ったために、対峙する東大寺の武力の前に敗退するのである。第4章は一円寺領化し不入権を獲得して蘇った古代権力東大寺は神人を置いて支配を強化したが、これに対する黒田悪党の戦いを描いている。黒田悪党とは庄民から出て庄民の利益のために働いたのであろうが、匪賊・山賊の一面もあった。すなわち古代権力と同様に悪党も道徳的に腐敗していたのだ。東大寺は鎌倉幕府の六波羅探題に鎮圧を依頼し、南北朝時代に幕府守護の力で鎮圧された。黒田庄の東大寺寺領時代が斯くも長く続いたことには、庄民自体の蒙昧と奴隷根性がこの支配を受け入れていた事を著者は糾弾する。黒田庄が山奥で文明から遮断されていたといえ、統治者の腐敗が住民と無関係であったなら、庄民の長い悲劇は続かなかったはず。庄民も道徳的な腐敗を一部分東大寺と分かち合っていたのだと著者は指摘する。そのような時、古代権力は何度でも復活する。その度に庄民の悲惨さは倍加するのである。まことに黒田庄の歴史は暗鬱である。古代権力に戦いを挑んでは敗北と蹉跌を繰り返す。このメッセージは天皇制に対する日本国民の戦いに酷似していないだろうか。自分自身への反省をこめて、戦時中の日本国民に与える叱咤激励であった。このメッセージを直接言えば治安維持法で監獄行きであろうが、当時の本土空爆で天皇制軍閥政府も風前の灯であった。戦後日本人が自身を改革することなく、アメリカに革命をしてもらったため、不徹底な天皇制解体、民主なき上からの官製民主改革となった。何度でも同じ過ちを繰り返す腐敗した責任を持たない国家である。

(つづく)