ブログ 「ごまめの歯軋り」

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政府系ファンドとは

2008年01月16日 | 時事問題
JMM [Japan Mail Media] 『村上龍、金融経済の専門家たちに聞く』1月14日
サブプライム問題で大規模な損失を出したシティバンクに救済融資を行ったのは、アラブ首長国連邦(UAE)の「政府系ファンド」であるアブダビ投資庁でした。最近、国家・政府系ファンドが話題になっているようで、日本の政治家の中にも創設を推進する動きがあるようです。日本版国家・政府系ファンドは、国民にとってプラスとなるのでしょうか。

回答の一つ 三ツ谷誠:三菱UFJ証券 IRアドバイザリー部長 より抜粋
今般生じている国家が主体(主体形成の仕方は様々なものでしょうが)となった投資家としての登場は、既に生産力の大層を抑えた株式会社体制、資本制に対して国家権力がその経済体制に適合していく一つの流れ(上部構造-権力機構それ自体の変貌)ではないか、と感じます。
その意味では既に1950年代以降、米国から始まった年金基金資本主義の流れに加え、国家もまた主要なプレイヤーとして存在感を持ってきている、そういった複雑な鵺的な世界が実現しつつあるということでしょう。
 しかし、市場に晒されず、隠微な世界で一部の優秀な(学歴以外何が優秀なのかは不明ですが)選良が、資金配分を決めてきた戦後日本のような世界よりは、価格機構の中で全ての価値創造が行われる世界の方がまだ可能性があると感じるのは私だけでしょうか。ただし、国家的なスタンスの投資家が巨大な存在である場合、誰が牽制力を発揮できるのかについては考察が必要でしょうし、逆に一部その動きがあるのであれば、追随する動きを作り、巨大な存在を相対化するということも必要でしょう。価格機構が価格機構としてその機能を発揮する前提は多数の参加者、分散化された意思決定者の存在であり、その意味では日本もまた、意思決定の分散化を図るために、戦線に参加するのも一考だと思います。

恐るべき時代錯誤!間違いだらけの官僚に国家財産を掏られてたまるかということでしょうか。何もしないで金が増えたらいいなーと思う政治家の馬鹿さ加減。リスクは分散して市場に任せたほうが損は少ない。

パレスチナ紛争再燃

2008年01月16日 | 時事問題
asahi.com
2008年01月16日02時03分
イスラエル軍がガザ攻撃、パレスチナ人14人死亡
 イスラエル軍などによると同軍は15日、パレスチナ自治区ガザを戦車などで攻撃し、ガザを支配するイスラム過激派ハマスの強硬派幹部でパレスチナ自治政府の元外相アッザハール氏の次男ら戦闘員14人と、市民3人を殺害した。イスラエル軍はガザからのロケット弾攻撃に対抗するため今年に入って攻撃を強めていた。一方、ガザとの境界に近いイスラエルのキブツ(共同農場)で同日、働いていたエクアドル人がハマスの戦闘員に射殺された

イスラエル・パレスチナ和平への模索と挫折の20年広河隆一著 「パレスチナ」より

 1987年投石の抵抗運動が始まり民衆蜂起(インティファーダ)と呼ばれた。これはPLOが居ない状態での占領下パレスチナ人の草の根抵抗運動になった。その代りイスラエルの弾圧で凄まじい犠牲者を出した。1988年臨時アラブ首脳会議はインティファーダ支援とPLOをパレスチナを代表と認め、パレスチナ独立国家樹立を支援することになった。PLOの現実路線も明確になった。1967年の第3次中東戦争前のイスラエル国境を承認することであった。1991年湾岸戦争が起き中東での実権を手にしたアメリカに対してイスラム原理主義が台頭した。それはアメリカがフセインを打倒したためにイスラム化の阻害要因がなくなったためである。歴史の皮肉とはこのことを言うようだ。

 1989年でアフガンからソ連が撤退し、その後遺症で1991年にソ連邦が崩壊した。それに伴い旧ソ連からのユダヤ人移民が急増した。それを受け入れるには更なる入植地が必要になった。ソ連が崩壊したことで中東全域の管理はアメリカの手に移った。レバノンではヒズボラガ、占領地パレチナではハマスというイスラム原理主義者が勢力を拡大し、アメリカはイスラム原理運動を抑圧するためにPLOの利用を考え、アメリカの中東和平の働きかけが強まった。1993年9月ワシントンでイスラエルのラビン首相と、PLOのアラファト議長がクリントン大統領の仲介で「パレスチナ暫定自治協定」に署名するという電撃的な和解が始まった。イスラエルとPLOは相互に承認し、イスラエルはガザとジェリコから撤退することが決まった。パレスチナ自治体には警察、内政権が委譲される。1994年にヘブロン虐殺事件などのイスラエル右派の巻き返しがあったが、1995年ラビンはパレスチナ拡大自治協定に署名した。しかしその直後1995年11月ラビンはユダヤ過激派に暗殺され、一挙に暫定自治は挫折した。

 1996年暫定自治政府の選挙でアラファトが政府代表に選ばれた。 ラビンの後はペレスが継いだが、ハマス軍事指導者の暗殺事件が起き、自爆攻撃も激化して和平を推し進めることに失敗した。1999年ネタニアフ首相の後はバラクが継いだが和平交渉は難航し、イスラエルはレバノン南部のヒズボラの攻撃を受けレバノンから撤退した。アラファトは2000年9月の独立宣言を延期せざるを得なかった。2001年2月シャロンがバラクをやぶって首相に当選した。シャロンはいよいよエルサレム拡張と入植を進め占領地を返還できない既成事実を進めた。といってもイスラエルが全パレスチナ人を追放することは不可能だ。周辺アラブ国ではパレスチナ人の増加を心配し(ヨルダンでは約40%がパレスチナ人)イスラエルの野望には反対だ。アメリカも石油利権を確保する上で、アラブ支配の構図の変更は望まない。2001年9月貿易センタービルなどの同時多発テロ事件が勃発した。アメリカは直ちにオサマビンラーディンとタリバンを攻撃するためアフガニスタンを空爆した。アメリカのブッシュ大統領はイスラエルの暴虐を黙認してきたことがイスラム社会の怨恨を招いた遠因だとぢて、パレスチナ問題を中心とする中東問題の解決に向かわざるを得なかった。イスラム諸国と敵対関係の構図しか構築できないと、石油利権の安定は望めないという石油産業資本の意見がブッシュを動かしたようだ。

 2001年イスラエルのズエビ観光相がPFLPに暗殺されイスラエルの報復作戦と自爆テロの応酬が繰り返された。2002年以降明らかに戦争の様相は変わっていた。民衆蜂起の時代は終わり、過激なパレスチナ独立戦争の時代が始まった。自爆テロを押さえる立場にあったアラファトの力パレスチナ内部では弱くなった。シャロンは2002年イスラエルは戦車でパレスチナ自治区のアラファト議長府を包囲した。これより「怒りの壁」大規模軍事作戦が開始された。国連のイスラエル非難やアメリカの戦争不拡大声明が出された。パレスチナ自治区の道路による隔離,入植地を道路で結んでパレスチナ人の移動を不可能にするなど、かっての南アフリカの人種隔離政策(アパルトハイト)を彷彿とさせる。第2次大戦ではナチスにより残虐な人種絶滅策を受けたユダヤ人が、そのままナチスになって弱い民族を抹殺にかかっていることを見るにつけ、人間は何処まで残虐になれるのかと問わざるを得ない。また歴史の教訓を全く無視して恐ろしい経験を生かさない人間の愚かさをいやというほど見せつけられた。


朝鮮半島有事 米国計画 沖縄普天間を基地に

2008年01月16日 | 時事問題
asahi.com 2008年01月16日08時57分
普天間、出撃基地に 朝鮮半島有事 米が計画
 米海兵隊が朝鮮半島有事の際、沖縄・普天間飛行場に最大で300機の航空機を配備する計画をもっており、代替施設にも同等の能力をもたせる考えだったことが、朝日新聞が入手した米国の公文書で明らかになった。平時の約70機から4倍強に増強されることになり、有事の航空部隊の重要な「出撃基地」に位置づけられていたことがわかった。米軍再編でも同飛行場の重要性は変わっておらず、今後の日米両政府の協議が注目される。

「Operational Plan 5027」米軍の朝鮮有事の戦争計画 相馬勝著 「北朝鮮最終殲滅計画」より

米国の対北朝鮮戦略を見てゆこう。1974年アジア地区紛争の軍事作戦計画「Operational Plan 5027」を定め、1994年からは2年に一度改定してきた。今の改訂版は第8回目の2006年度版である。第2次朝鮮戦争について、米韓は迎激戦にするか先制攻撃にするかは状況いかんによるが、基本的には米軍主力50-60万人が配置されるのは1ヶ月近くかかるので基本的には迎激戦になるだろう。状況によっては空母数隻が戦端前に配置され空爆、上陸の先制攻撃もなきにしもあらず。米韓合同軍(在韓米軍三万人、在日米軍4万人、韓国軍65万人)が最初の数週間を耐える必要がある。作戦は次の三段階に分かれる。第一段階はソウルを死守すること、第二段階は朝鮮半島全体の重要な戦略拠点を奪取すること、第三段階は米軍主力60万人ほどが揃ったところで北朝鮮へ反撃するを開始し北朝鮮軍隊と金正日政権を殲滅する。第一第二の段階では攻撃の主力は米軍爆撃機による空爆と艦船から長距離爆撃であり、守備は韓国軍陸上兵力が担う。恐らく開戦直後に、ソウルとピョンヤンは破壊し尽くされるだろう。少なくとも15日間は北朝鮮軍の侵攻を持ちこたえる必要がある。でなければ米韓軍は釜山から玄界灘に落とされることになる。2000年韓国国防白書によると、朝鮮半島有事の際、米軍は韓国防衛のため69万人の兵力が派遣されると見ている。米軍は二正面戦争を想定して、朝鮮半島には海軍兵力の40%、空軍兵力の50%、海兵隊兵力の70%を注入することが可能である。

北朝鮮軍の兵力 相馬勝著 「北朝鮮最終殲滅計画」より

北朝鮮はGNPの25%をしめる18億ドルの軍事費を支出し(韓国は4%)、正規軍(人民軍)は110万人、予備軍が470万人である。軍人の数だけで言えば世界第5位の軍事大国である。(日本の自衛隊は20万人)しかし北朝鮮軍が保有する武器、装備は殆どが旧ソ連軍のお下げ物か中国から購入したものである。旧ソ連武器で武装した化石(シーラカンス)軍隊と言われている。
陸軍 兵力95万人、20軍団からなり、歩兵は27師団、機甲旅団15で装備は戦車3500台、火砲10400門、地対空ミサイル約1万基、地対地ミサイル約30基、ノドン、テポドン開発中。
海軍 兵力は46000人、中国製ソ連製潜水艦26基、高速ミサイル艇43隻、戦艦船約300隻、南浦に艦隊指令部
空軍 兵力は11万人、作戦機584機、ヘリコプター24機、ソ連製爆撃機80機、戦闘機はソ連製で504機、輸送機300機
北朝鮮の基本的戦略は戦端が開かれてから米軍支援本体が活動できるまでの1ヶ月以内に朝鮮半島を占領することである。緒戦攻撃の主力は特殊部隊、平城守備の主力は首都防衛隊である。北朝鮮軍は現在休戦ラインの約40キロ付近に全兵力の2/3の約80万人が終結して開戦即時体制にある。北朝鮮は500基以上の長距離砲でソウルを爆撃できる。全700機の戦闘機のうち40%の300機が前線に配置されている。北朝鮮の緒戦の攻撃目標は韓国の40%の人口が集中するソウル近辺を陥落させるか火の海にすることだ。


読書ノート 武田邦彦著 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 2」 洋泉舎

2008年01月16日 | 書評
地球温暖化、バイエタノール、ペットリサイクルの環境問題のウソ  第2回 

地球温暖化防止枠組み条約「京都議定書」(1997年)での欧州・米国の政治的狙い (1)

武田氏は「地球温暖化は環境問題ではなく政治問題だ」という。その通りである。私は地球環境問題はエネルギー・資源問題であると信じている。その独占を図る米国とその追随者の画策した政治問題であろう。今から10年前1997年12月京都国際会議場(宝池)で開かれた「第3回気候変動枠組み条約締結国会議(COP)」で「京都議定書」が締結された。条約締結国は155カ国にのぼり、アメリカのゴア副大統領と日本の橋本首相が中心となった。この条約では温暖化ガス(炭酸ガス、メタン、一酸化チッソ、メタンガス、フロンガス[HFC,PFC,SF6]の6種類のガス)の削減目標を定めた。炭酸ガスは石油などの燃焼によって発生するので、削減することは即ちエネルギー使用を減らすことになる。日本の石油使用量は、1960年より高度経済成長にあわせて急速に上昇し1973年と1979年の2回の石油危機によって一時停滞し、10年間は省エネルギーが進んだ。エネルギー構成も変化し、天然ガス、原子力に転換しつつエネルギー使用は1985年からまた増加した。エネルギー自給率は6.3%に過ぎない(原子力もウラン輸入)。

文芸散歩 日本の乱世  室町時代を歩く

2008年01月16日 | 書評
戦乱に明け暮れた南北朝から戦国時代、混乱の中から豊かな日本文化が興った室町期

1) 永井路子著 「太平記」  文春文庫 第8回

南朝没落から足利政権骨肉の争いまで (2)

 戦いはいつも都と鎌倉を軸として起きる。尊氏の人生は二つの拠点を行ったりきたり戦争に明け暮れた人生であった。崇光天皇を初め北朝側の皇室は吉野に連行されたので、北朝では三種の神器なしで1353年後光厳天皇が践祚した。南朝の山名師氏・時氏親子が京の義詮を襲うを襲うと、義詮と北朝の後光厳天皇は美濃へ遁れた。かよわき義詮は逃げてばかりで勇ましい話は一つも無い。尊氏が京へ入って山名師氏・時氏親子を追い払うが、山名師氏は足利直冬と連合して尊氏を攻めたが、尊氏は赤松則祐の援助を得て山名師氏を討ち取る。

 この時代の闘い方は膳(京)にたかる蠅みたいなもので、払うと直ぐ逃げるが、またたかってくる。誠に五月蠅みたいだ。そして離合集散を繰り返す。誰が本質的に敵味方かはご都合次第と云うわけだ。都が静かになって三上皇が吉野から帰ってきた。1385年足利尊氏は休む間もなくあの世へ旅立った。足利義詮が第二代征夷大将軍となって、ようやく南北朝を一つのテーマとする時代は終焉を迎えたようだが、また新しい切り口の戦乱が始まりそうであった。

 「太平記」第35巻に「北野通夜物語」という遁世者、僧、公家の三人が政治評論、政治道徳論議をすると云う面白いくだりがある。「太平記」前編の総決算とも云うべき論議である。ここに「大平記」の政治批判、歴史批判、世界観が述べられ、現実批判となっている。それは武家、南北朝天皇家への手厳しい批判である。「太平記」の史観は道徳史観、宗教的には因果応報で、正しいものが強く、勝利者になると云う考えは現実肯定史観である。名文を紹介する。「民の誤れるところは吏の科なり。吏の不善は国王に帰す。君良臣を選まず、利を貪る輩を用ふれば、暴悪を欲しいままにして、百姓をしひたぐれば、民の憂い天に昇って災変をなす。災変起これば国土乱る。」