ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

母の介護もようやくトンネルを抜けた

2006年11月23日 | 写真館
10月から11月中頃まで京都で母の介護を行ってきたが、今回93才になる母を老人介護施設に入所することが実現した。ようやく介護する側の私たちにも長いトンネルを抜け出せた感じがする。母を姥捨て山に送り出したというより、2年半に及ぶ兄弟姉妹(3人)の24時間介護で各自は納得と限界を味わい、お互いの生活の尊重と母には快適な生活のサービスを提供できたと理解している。これでいいのではないか。

東山老人サナトリウムとは医療法人「十全会」の経営になる。山の斜面に広がる4万坪の敷地に10の病棟と600床のベットを持つ。それは別荘と見間違うばかりのすばらしい施設である。季節がいいときには車椅子での散歩を楽しめ母が余生を送るにはすばらしい天地ではないかと兄弟姉妹で喜んでいる。介護費用は多床室で10万円位だそうだが、所得上申請すれば補助が受けられ月当たり5万円だそうだ。母の年金でも十分お釣が来る。京都市の介護福祉システムはすばらしいと実感した。

母はしだいに遠くなる
 
母は偉大でこわい存在だった
戦後の食糧難のなかで七人の子を産み育てた
私は内職している母の背中をみてきた
貧乏を地で行く生活
私は大学にもいった、そして定年を迎え故郷に帰った
そこにはこわい母ではなく、呆けつつある母がいた
日々体の自由がきかなくなる母、5分前の記憶もなくなる母
母の存在はしだいに遠のいてゆく、そこにいるのは誰だろう
いつか感謝しつつ別れる日がくるだろうか
それでもいまは母


社会保険庁解体へ  これは正しい選択だが官僚の骨抜きにご注意

2006年11月23日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月23日06時57分
社会保険庁解体、3分割へ 強制徴収は国に
 政府・与党は22日、社会保険庁を3分割する方針を固めた。社保庁の業務のうち、保険料の徴収などできるだけ多くの業務を民間に委託、納付記録の管理など一部は非公務員型の公法人に移管し、保険料未納者などに対する強制徴収部門は国に残す。与党内では公法人が強制徴収も含めて一体運営する案が有力だったが、より抜本的に再編し、不祥事が続く社保庁を「解体」する必要があると判断した。
自民党の中川秀直幹事長は同日の講演で「単なる非公務員化ではだめ。相当の分野の業務をできるだけ民間にアウトソーシング(外部委託)する。強制徴収の一部は欧米のように国にやらせる」と話した。

分母対策のごまかしが社会保険庁の息の根を止めた。官僚の腐敗利権にはなお十分な監視が必要だ
 政府方針は民活利用が基本になっている。私が社会保険庁の解体を叫んでいたのは官僚による掛け金の運用のでたらめと掛け金の虫食いを止めるためにあった。ずさんな運営による年金制度崩壊を少子化のせいにしたり、天下り厚生労働省官僚の掛け金の流用(私物化)を指摘してきた。解体は当然としても、あの官僚が素直に罪を認めず必ず「解体」を骨抜きにしてかかるので気は許せない。政治家の本当の意味での指導力に期待したい。



環境書評  宇沢弘文 著  「社会的共通資本」 岩波新書(2000年)

2006年11月23日 | 書評
1)宇沢弘文東大名誉教授のプロフィール
宇沢弘文氏は数学科出身の経済学者である。「自動車の社会的費用」(岩波新書)が最も著名な著書と見られるが、最近「地球温暖化を考える」(岩波新書)、「日本の教育を考える」(岩波新書)などの課題と人間の経済活動との関連で注目すべき視点を提出された。

2)社会的共通資本の定義
社会的共通資本とは「豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持する社会的装置」と定義され、次の構成要素からなる。
自然環境 (大気、森林、河川、水、土壌、野生生物など) [環境]
社会的インフラストラクチャー (道路、上下水道、住居、ガス、交通通信網など) [ハード]
制度資本 (教育、医療、司法、金融、福祉、年金など) [ソフト]
  すなわち人が豊かに生活できる社会の総システムを指し、資本主義、社会主義の枠を超えたシステムの構築を目指す。生活のし易さは所得体系(税、賃金)だけではなく、受けられる総サービスの量と質すなわち社会制度による所が大である。すなわち社会の総体でしか評価できないことを示す。

3)社会的共通資本の考え方の経済史

ケインズ経済学(1936年から1970年)
  資源配分の最適化と市場均衡も安定を否定し、経済活動の水準つまり有効需要の大きさは経済主体の固定的資本形成、総資本顎であるとした。金融資本の投機的性格による不安定性を明らかにした。しかしケインズの経済学は資源の私有制と所得配分の不公正には眼をつぶり、生存権の保障は所得の再配分つまり事後的救済策によった。雇用問題と米国のベトナム戦争、財政崩壊により有効性を失った。

反ケインズ経済学(新保守主義)(1970から1990年)
  政府の役割縮小、資源の私有と生産主体に私的性格を強め、マネタリズム、合理主義経済、サプライサイド経済学、合理的期待形成仮説など多様な形態をとるが、極めて政策的要素が強い。レーガン、サッチャー、中曽根が民活、規制緩和、福祉切り捨てなど制限なしの企業活動を支援した。グローバル化が進行したのもこの時期である。その結果バブル経済を招来し金融システムの腐敗を招いて崩壊した。

スティルヴェブレン「制度主義」(社会的共通資本とそれを支える社会組織)
  アダムスミスの「国富論」に回帰することが理想となり、「民主的過程を経て経済的社会的条件が展開され、最適な経済制度を求める」。制度主義の経済制度の特徴は社会的共通資本とそれを管理する社会的組織である。市民の基本的権利である生活権(生存権)を充実するのが目的であるから政府官僚の規制を廃し、市場的基準に支配されてはならない。「信託」の概念で管理運営される。



小林秀雄全集第5巻    「罪と罰」についてから「罪と罰」について Ⅰ

2006年11月23日 | 書評
「罪と罰」について Ⅰ

ドストエフスキー(1821~1981)は「地下室の手記」という短編で「陰惨な心理小説」の走りを書き、1866年にいよいよ五つの長編小説の一番目「罪と罰」を著した。小林秀雄氏は「罪と罰」について二回書いている。1934年と1948年である。「罪と罰」について Ⅰは1934年に発表されたが、これから小林氏のロシア文学傾斜が開始されるのである。内容の深さや解析の詳しさについては「罪と罰」について Ⅱには到底及ばないとしても、「罪と罰」について Ⅰは陰鬱なロシア小説の系譜を知る上での格好な入門書になろう。ショックは最初は少なめにしたほうが精神衛生上も好ましい。
「罪と罰」製作の舞台裏というかラフスケッチのような手がかりとして作者の「ノート」があるそうだが、小林氏はまずこのノートに則って登場人物の性格つけと狙いを明らかにしてゆく。荒筋書きは以下である。主人公ラスコオリニコフは貧乏な大学生で殺人の夢想に取り付かれ、金貸し婆とその妹リザベータを殺害する。その殺人を酒びたりの廃人マルメラドフの娘で娼婦のソーニアに話してしまい、逮捕されシベリア流刑になる。ラスコオリニコフの分身の性格を与えられた享楽以外は無性格で、自殺でこの世とおさらばしたスヴィドウリガイロフと酒びたりで事故死したマルメラドフらの告白は将に19世紀末現象という退廃的虚無的な「こうなるともう娑婆じゃありませんな。あの世ですな」と言うセリフに象徴される、死でしか逃れられない虚無、無自己となんなんだろうか。
こう簡単に筋を書いてしまえば身も蓋もないが、「罪と罰」はドストエフスキーの作品にしては比較的登場人物も少なく構成も複雑怪奇ではない。むしろ分かりやすい小説に類するとしても、なぜラスコオリニコフが虚無的無人格者なのか到底理解できない。「善悪の彼岸」(ニーチェの超人主義)という犯罪哲学から殺人を夢想するにいたる論理的経過はまるでない。現実的事実の外的因子は何もないのである。そうなんだからそうなんだというところからスタートして、ラスコオリニコフに長時間お付き合いしなければなるまい。別にこれが19世紀後半のツアー専制ロシアの社会的現実と縁もゆかりもないことは承知しなければならない。しかしツアーを縛り首にして選挙にはゆかず酒を飲み行く革命ロシアの庶民の非近代的・社会的未熟さは理解しておきたい。
「主観の極限までいこうとする性向と、客観の果てまで歩こうとする性向が背中合わせである危険なリアリズムがこの作者の制作方法というよりこの作家の精神の相ではあるまいか」、「空想が人間の頭の中でどれほど横暴で奇怪な情熱と化すのかという可能性を作者はこの作品のなかで実験した」と言う小林氏の結論い私も賛成したい。
最近日本でもネット自殺や殺人が増えている。首を絞めて人が苦しむのを見ることで興奮すると言う殺人事件があった。また人を殺してみたかったという理由で殺人を試みた事件もあった。これは精神異常者の空想と言うにはあまりに社会的である。とくにネットをサーフィンする者に現実と空想の区別も怪しくなったように見える。バーチャル(擬似)空間/社会を売り物、食い物にする商売が増えたことが背景にある。コンピュータ社会が生み出した犯罪である。
そういう意味でドストエフスキーの「罪と罰」を読めば、ドストエフスキーは急に現実味を帯びてくること請け合いだ。19世紀的疎外・孤独・虚無を21世紀的無生活時代に置き換えればどちらも非現実的夢想に埋没してゆく姿が見える。


書評  養老孟司著 「死の壁」 新潮新書(2004年4月初版)

2006年11月23日 | 書評
かならず来るのに、目を背ける死の問題。「私」の死は存在しない。

 これまで一連の「脳科学」に関する書を紹介してきた。今回の養老孟司著「死の壁」は脳科学の書ではない。身体の問題(自然の問題)である。そういう意味で気楽に読める本であり、学術的内容はすくなく、どちらといえば人生の心構えについて教わるところが多かった。死は厭なものとして日常は片隅に追いやっている。人間は意識が都市化してゆくものらしく、死という肉体的なものはいつも疎外される。ところが死ぬことは極めて恐ろしいものと考える。この辺が矛盾するのであるが、現代人は目を背けながら恐怖心をいだくおかしな動物らしい。中世の時代では死は日常的に身辺にいつでも見られるものであった。だから無常観や宗教が付きまとうのである。

ところが最近「臓器移植」と「脳死」問題に見られたように、死の定義は実に難しいことが分かった。だけど臓器は欲しいという実利のため、脳死を死と見なす判断は避けて、条件を設けて臓器移植だけは可能とした法律が出来た。しかし日本の村社会のルールに縛られて誰一人脳死から移植をする医者はまだ現れてこない。この辺がいかにも日本的な常識ルールで動いている。たしかに生物学的な生の定義や死の定義は難しい。個体内では死と増殖は絶えず進行しているし、意識も翩々極まりない。確立した自分なんて存在しないように、自分は変化し続けるものだ。生死の境界の定義も極めて困難だ。そこで死を正面から考える必要がある。

養老先生によると死には三通りあるそうだ。一人称の死(自分の死)、二人称の死(あなた、親族の死)、三人称の死(赤の他人の死)である。一人称の死(自分の死)は死んだ本人が知り得る問題ではないから実体のないことである。このことで悩むことはバカだ。二人称の死(あなた、親族の死)は大切な経験を共有する身近な人が亡くなることであり極めて精神的影響が大きい。このことで人は人生を考え豊かにしてゆけるのである。考えるべき死の問題はまさにこの二人称の死(あなた、親族の死)である。三人称の死(赤の他人の死)は人口問題のような統計的数値でしか知れないことである。

ホスピスでの安楽死を行う医者(日本でも条件を設けて最近可能になったがやはり日本では誰一人実行する医者はいない)、昔の間引きをやった産婆、死刑執行人、昔腑分けをやった、戦争をおこなう国家元首などはやはり人を死に追いやるとか死人を扱うという意味で、汚れた手を意識しなければ人ではない。養老解剖学教室での供養のお話は非常に感動を受けた。「解剖学実習の最終コースに差し掛かった時、ある学生が机に一輪の花を供えた。それを見てお!いいことをするな学生も捨てたものではないなと思ったのであるが、翌日教室へ行くと何と全員の机に花が一輪供えてありました。これは東大にいた間で一番感動した瞬間です。彼らは解剖をしてゆくうちにどこかで他人の痛みを背負うということが身についたようです。」