ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

公務員共済年金の優遇を廃止、厚生年金に一本化

2006年11月27日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月26日10時05分
公務員も厚生年金に加入、財政一本化 厚労省方針
 会社員が加入する厚生年金と、公務員や私学教職員らの共済年金(共済年金は厚生年金と比べ、低い保険料率で同じ年金額が給付される)の一元化問題で、厚生労働省は、各年金の財政を一本化し、公務員らも厚生年金に加入させる方針を固めた。ただし、各共済組合は組織としては存続し、保険料の徴収事務や積立金の独自運用を行うことなどは認められる見通しだ。

共済年金の優遇を廃止、しかし共済組合の組織は並存、積立金運用は独自とは何事か 

 これで厚生年金と国民年金はほぼ同数の3500万人程度の規模となった。しかし共済組合の温存と積立金の独自運用が残るとはまだ共済組合には何か利権がついていると勘ぐらざるを得ない。共済組合の運用先が優遇されていて高収益が上げられ、従って組合員にはなにかリターンがあると考えられる。組合員の掛け金の割引が考えられる。これでは以前と同じではないか。とかく官僚は既得権にしがみ付いて離さないようだ。大阪市職員組合の既得権問題と同じではないか。

延命治療解除の指針に相当するか疑問

2006年11月27日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月26日23時50分
呼吸器外しの指針を明文化 秋田赤十字病院
 脳死と判定された患者の終末期医療について、秋田市の秋田赤十字病院(宮下正弘院長)は「本人の意思が確認できる場合に限って人工呼吸器を取り外すことができる」と定めた指針を策定していたことが26日、わかった。こうした指針を病院独自で明文化したことは珍しいという。国も終末期医療を巡る法律や指針の明文化について検討している。
 指針は、脳出血や頭部外傷などの急性疾患で、手術などのあらゆる治療を施しても回復せず、死期が迫った状態の患者が対象。外部委員を含む同病院の倫理委員会で策定し、9月から運用を始めた。

脳出血や頭部外傷などの患者に意識があるのか。実質呼吸器ははずせない。
 何か変な指針だ。呼吸器をはずしたいのかはずさないのか全く意図の不明な指針だ。死期がせまった脳損傷患者に意識はあろうはずはなく、本人に意思を確認するとは実際は不可能な話だ。この指針を勘ぐれば、家族の延命措置解除希望を妨げるものである。つまり脳死に至るまで生きさせておいて脳死移植の機会を待つ意図があるのではないか。つまり延命措置解除を不可能にする意図が見えるというのは下司の勘ぐりか。私の母を老人介護施設に入れた場合、病院側に延命措置は希望しない旨の誓約書を取られた。寿命と考えてくださいという趣旨だ。実際90歳以上の年寄りに緊急の場合体を切り裂いて延命手術をしたり延命器具を装着するのは無体な話だから私は同意した。今回の脳出血や頭部外傷などの患者には最初から呼吸器等の器具は装着されている。従ってこれは延命措置ではなく生存措置である。これをはずせば患者は死ぬ、死に行く患者に意志を問うなんて無茶な話だ。従ってはずさない。結局この指針は何も言っていない。

環境書評  武田邦彦著 「リサイクル幻想」 文春新書(2000年)

2006年11月27日 | 書評
武田邦彦 芝浦工業大学工学部教授のプロフィール  
教授は旭化成でイオン交換膜ウラン濃縮技術を長く手がけられた。「リサイクルしてはいけない」(青春出版社)、「リサイクル汚染列島」(同社)を著わし世間の注目を引いている。教授の主張は「エントロピーの法則より、稀散した物質を濃縮するにはエネルギーが必要。多くのエネルギーを使ってまでリサイクルしてはいけない」にある。物質凝集エネルギーと社会的回収エネルギーの同一視がどこまで成立するかを検証するため、東大安井教授との論争も紹介する。

1)リサイクルの矛盾
  以下の命題をリサイクル反対の根拠としている。
①リサイクルの劣化矛盾:材料は劣化する(例:プラスチック)
②リサイクルの需給矛盾:下位の用途が無い(例:スラグの建設資材化)
③リサイクルの持続性矛盾:リサイクルにはエネルギーという再生不能資源を使用する(例:紙)
④リサイクルの貿易矛盾:消費した国でのリサイクルは国際分業に反する。バーゼル条約の規制
⑤リサイクルの増幅矛盾:持続性矛盾に同じ(例:石油使用量 ペット製造40g/再生160g)
⑥環境主義の両価性矛盾:産業活動は資源消費拡大志向で環境主義と両立しない
⑦リサイクルの浄化系欠陥:有害・不純物の混入(例:鉛/ガラス、銅/鉄くず)


2)分離の科学
  リサイクル社会は生産活動、収集、浄化経路から成り立つ。使用済み材を収集、分離するには労力が必要である。物質の価値関数は含有率、再生品純度、リサイクル率から計算される。ゴミ中の含有率が低いとその再生にかかるコストは増大する(天然資源の採掘コストに同じ)。理想的リサイクルカスケードの単位分離工程(分離ユニット)の労力はユニット関数といい、分離速度、分離係数、能率が良いほど低い値となる。従ってリサイクルに必要な作業量SWUはユニット関数/価値関数である。などの分離工学上のパラメータが述べられているが、リサイクルでは具体的にどう計算するかは不明でかなり難しいと見られる。

3)循環社会の基本
  日本の産業物流総量は20億トン(輸入エネルギー4億トン、輸入原料3億トン、国内建設用資源13億トン)で、産業廃棄物総量は4.5億トン(総物流量の1/4は廃棄物化)になっておりこのままGDPの維持は不可能と考えられる。リサイクルには平均3倍のエネルギーと物質を必要とするため、時間空間的に生産工場内での再生が一番望ましい。「廃棄物は分別せず埋め立てず、総て焼却しその熱で発電し残りの灰を人工鉱山に貯蔵する」という提案をしている。貴重な資源は動脈産業のみで再利用すること。

4)リサイクル論争

論争点    東大 安井教授の主張点   芝浦工大 武田教授の主張点
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立脚点   リサイクル推進派(静脈社会)    焼却派(動脈社会)

人件費   労働費用は環境負荷ではない   労働=コスト=エネルギー負荷

社会的公正 鉄、ガラス、紙と同様にプラスチックも回収 焼却により使用量が抑制

リサイクル法   問題はあるが推進(官庁派)  間違った解決法(産業派)

労働問題  静脈産業で雇用促進       動脈産業は静脈産業を排除
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さてどちらの意見が正当なのだろうか。現在鉄、紙、ガラスなどは回収ルートが確立している。しかし価格変動が激しいため回収が安定しているとは言いがたい。また回収資源の輸出問題もあり回収資源が日本の資源でなくなることもある。武田教授の言い分は恐らくプラスチックを念頭にした考えであろう。プラスチックは燃焼して熱回収したり、鉄鋼の還元燃料としてコークスの代わりにもなる。プラスチックだけの技術的議論であれば武田教授の考えは正当な場合があるが、全資源の回収がナンセンスとは暴論になる。燃えないも廃棄物が多いからである(建築廃棄物)。やし教授の主張は正論であるが、コストも考慮しなければ環境全体主義に陥る恐れもある。



小林秀雄全集第5巻 「罪と罰」についてより 「文章鑑賞の精神と方法」

2006年11月27日 | 書評
文章鑑賞の精神と方法

小林秀雄氏の人生の教師らしい教訓に満ちた短文である。「文章を鑑賞する上で第一に大切なことは素直に愉快に文章を味わうことが出来るかという自信を持つこと。第二に自分の気質の自覚の上に立った良い趣味を持つこと。立派な鑑賞眼を備えた人というのは、立派な趣味をもった人のことです。ただ鑑賞家には二つの誘惑がやってきます。一つは批評の誘惑、二つは悪い意味でのディレッタント。常に自分の心を賭けて読むことです。」
ワー難しい。誰を対象に語っているのだろう。素直に文章を味わうことが出来る自信なんていわれても初心者には自信があるわけもなく、良い趣味と教養を持てといわれても何を言っているのか不明だ。これでは読書家に恐怖を与えるだけではなかろうか。読んでいくうちに養われてゆくもので読む前に心がけられるものではあるまい。さすが教祖様だ、ひれ伏せられてしまう。



書評  茂木健一郎著 「意識とはなにか」 ちくま新書(2003年)より本文

2006年11月27日 | 書評
Ⅰ 心と脳のミステリー -クオリアと同一性ー 普段生活に追われて何も考えていないのが普通の人の生活であるが、ひとたび周りのものをよくみると実に不思議な存在であることに気がつく。それは実にいとおしいものであったり、意味がわからくて不安に陥れられるものであったり、自分の幼児期の懐かしい思い出につながった景観であったりする不思議の国に誘惑されるものだ。氏は「世界の森羅万象がまさにこのように存在すること、すなわち<あるもの>が<あるもの>であること(同一性)の不思議さ」とか「私たちが世界について把握できるものは、結局自分の中で<あるもの>として捉えられものだけであるという人の意識「自我・私の起源)」の不思議さをプロローグとして提示される。
私たちが何気なしに見ているもの、何気なしに使っている言葉には心の中でひとつのユニークな質感として立ち上がるクオリアによって構成されている。「それ以外の何物でもないという存在感が基礎になっている」

Ⅱ 「私」というダイナミズム -コミュニケーションと生成ー
「言葉は、それぞれの心の中で立ち上がっている様々にユニークなクオリアを、自分に対して指し示し、相手との間で共有する時に不可欠な手段である」というコミュニケーションの成立条件を示される。何気なしに使っている言葉はとりあえず<易しい問題>として扱う態度でコミュニケーションが成立するが、「ただいま」、「こんにちは」、「ありがとう」などの言葉には意識せずとも、次にかもし出される情景を期待する文脈の中で使用され効果がある経験に裏打ちされているのである。つまり良いイメージ(報酬系を最大にする)の脳機能が働いているのである。私達の脳はそのような<難しい問題>としても考える能力を持っているのだ。氏によると「私たちが本来難しい問題をやさしいこととして扱って日常生活を営むことが出来る一方、必要に応じて立ち止まり、難しい問題として扱うことも出来るという能力は、私たちの認知プロセスを特徴づける驚くべき柔軟性の一つの表れ」である。
さらに相手の立場になって考える(相手の心を推定する)能力と定義される「心の理論」や、自分の行為と相手の行為の両方に伴って活動するミラーニューロンがヒト言語中枢(ブローカ野)の近くに発見されたことは氏のコミュニケーション論を後押ししている。「ミラーニューロンはシステム論志向を持つ先進的な科学者の予想を飛び越して、自分の行動の運動情報と他人の行動の感覚情報を結びつける最も高度な統合を実現している」と氏は最近の脳科学の進歩に期待を寄せている。
さらに「私」が他人に接する時に、さまざまな面をつくって対応する能力や、偽装的態度だけでなく情況に合わせて心(モード)を切り替える能力(ふり・パーソナリティ)をするのも「私」の存在の多面性を構成し、人間が社会的存在として生きてゆく能力になっている。これが社会生活でのコミュニケーションの基盤になるのである。それによって自分が社会の構成員として認められ評価され生きてゆけるという報酬系の最大化につながるのである。これはヒトの脳が生み出した巧みな能力である。

Ⅲ 意識を生み出す脳 -「私」とクオリアの起源ー
「一番大切なことは、クオリアも<私>も世界の中で最初から存在するものでなく、脳の神経活動を通して生み出される(生成される)物であるという事実を認識することだ」という脳の成長能力を指摘される。幼児の母親や他人を認識する能力の形成(つまり敵か味方か)は学習と呼ばれる。ヒトは学習によって、かかわりの中で脳が自律的にイメージを生成させてゆくのである。このような生成プロセスを支える脳内プロセスは大脳辺縁系を中心とする情動系(報酬系を支える扁桃核)や前葉頭の前頭眼窩皮質の役割が注目されている。近年の脳科学の知見によると、脳の自発的(自律的)活動によって、外界から刺激が入力された時に喚起される情態が既に用意され存在しているようだ。これをクオリアのレパートリーの準備という。
「入力と出力の関係で脳を捉えるのを脳の機能主義という。それはニューラルネットワークと呼ばれきわめて限定された範囲で応用可能であるが、クオリアや私の根源的問題を問う現象学的アプローチへは応用は出来ない」と茂木氏は「私の起源」を物理主義・計算主義・機能主義では解明できない難しさを述懐されて今後の方法論に夢を託されているようだ。