ブログ 「ごまめの歯軋り」

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この教育界の無能・無規範・無責任を前に教育基本法改正どころではないはず

2006年11月24日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月24日12時40分
女子生徒転落死知りながら歓送迎会 山形県教委
  山形県高畠町の県立高畠高校の女子生徒が校内で飛び降り自殺したとみられる問題で、県教育委員会は24日、会見を開き、自殺当日の夜、新旧委員の交代の「歓送迎会」を開いていたことを明らかにした。

asahi.com 2006年11月24日15時22分
尾石教育長、辞任の意向 いじめ自殺の瑞浪市
  岐阜県瑞浪市の市立瑞浪中学校で2年生の女子生徒(14)がいじめを受けて自殺した問題で、同市の尾石和正教育長(64)が、自殺を防げなかったことや対応の責任を取って辞任する意向を高嶋芳男市長に伝えていたことが24日、わかった。

愛国心をもって日の丸掲揚をすればこの教育界の無能・無規範・無責任は直るのか

  いじめを「金銭トラブル」と報告していた北九州市の小学校長が自殺した事件は記憶に新しい。そして「ナポレオンの辞書には不可能はない」というように文部科学省は「いじめによる自殺は存在しない」といっている。いじめは全て個人の厭世観のせいにして「自殺にはいじめの証拠は見当たらない」で押し通そうとする教育官僚の欺瞞と無責任が読み取れる。一番先に猛反省して生まれ変わらなければならないのは教育界である。必須科目飛ばしの受験優先教育(教育指導指針違反)や教育基本法のタウンミーティングで大政翼賛会的やらせまでやる教育界の腐敗は限界まで来ている。こんな連中に子供の教育を預けている親には、受験テクニックしか習わなかった不幸な子供の将来に希望が持てるのか。教育界の現場も相当腐敗しているが、中にはその責任を感じて自殺でお詫びする校長がいることに教育官僚は反省すべきだ。受験指導能力だけで教師いじめをやり、指導要綱違反を承知で必須科目飛ばしをやり虚偽の履修認定を平気でやってのける教育委員会は社会保険庁のように解体して別の機能組織を設置すべきだ。

北朝鮮の核放棄はありえない。六者協議で放棄を迫っても時間の無駄

2006年11月24日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月23日21時11分
6者協議再開「12月上旬にも」 塩崎官房長官
 塩崎官房長官は23日、北朝鮮の核問題をめぐる6者協議の再開時期について「12月上旬、前半ということになっているようだ」との見通しを示した。東京都内で記者団に語った。
塩崎氏は今後の拉致問題の扱いについて「入り口は6者だ。まずは核の問題からいくだろうが、こちらは当然拉致の話も出す。(議長の)中国とまず相談をし、そこから他の国々、北朝鮮に持ちかけるということではないか」と述べ、北朝鮮との2国間協議も視野に入れる予定。

北朝鮮の核放棄はありえない。核・ミサイルを持たして軍拡をやらせ、どこかで紛争を始めて自滅を待つ戦略が現実的だ。勿論制裁と物資遮断は続けることになる。

 いまだかって核を持った国が核を放棄したことは歴史上ありえない。だから六者協議で時計の針を逆回転させるような主張は現実的な解を生まない。かっての日本軍国主義が軍縮協定を破って軍拡に励み無謀にも中国や米国に戦争を仕掛けて自滅したやり方を踏ませればいい。軍人が支配する国に自由主義経済の利点を説いても無駄。民力が存在しない国に反対勢力による政変を期待しても無駄。気違い集団には暴走させることが一番の解決策。このときに韓国の太陽政策なるものが一番阿呆な政策である。韓国は併合されても民族統一が優先という連中は北の延命になる。

環境書評  植田和弘著  「環境経済学への招待」 丸善ライブラリ-(1998年)

2006年11月24日 | 書評
京都大学経済学部  植田和弘教授のプロフィール  人類が貧困を追放し、豊かな社会を築くためには経済発展が不可欠であると理解して懸命に努力したのが20世紀であった。しかし豊かさを目指したはずの活動が地球温暖化、廃棄物など深刻な環境問題を引き起こすことを認め、この状況を打破して持続的発展が可能であるかどうかと質問を発したのも20世紀であった。環境破壊は経済活動の結果であるから、経済メカニズムを理解せづして適切な環境制御の方法を見出すことはできない。一方経済学の方も貨幣価値のつかない「環境」には関心を示さなかった。環境経済学とはまさに環境問題の経済的メカニズムを明らかにして、税制、行政、法制の面からインセンティブのある戦略を提案することである。教授は環境経済・政策学会、地球環境関西フォーラム、地域文化環境経済研究会、財政学研究会ならびに京都大学経済学部ゼミナールの討論成果を下敷きにして本書を執筆された。真に有効な環境政策とはなにかを考えるには格好な入門書であると考え紹介したい。

外部不経済と環境経済学
  ある経済活動が本来負担すべき費用を(大気汚染対策費、治療費など)無視または政府・自治体に負担させることにより(社会的費用)、不当に安い価格で経済競争を行なうことを外部不経済という。(資源そのものと環境はただという概念)これに対して環境には経済活動の共通基盤たるインフラストラクチャー(社会的共通資本)、居住環境としての地域固有財、不可逆的で絶対的損失という性格をもっている。環境破壊の結果、経済活動自体がなりたたなくなれば元も子もないので、環境の経済的価値の定量化と、環境保護政策の政財政的誘導策(インセンティブ)を講じるのが本学問の目的である。例えば廃棄物対策の制度的枠組みとしてデポジット制度、地球温暖化防止対策として炭素税制化などが議論された。

EU環境共通政策の試み(グローバル・エコノミー)
  全地球の環境政策を議論しても、南北問題ばかりが目立ち国益の衝突に終始して何一つ決まらない。そのため経済格差が比較的小さいEU内で共通環境政策が成功しなければ全世界で成功する筈がないといわれ、今EUの環境政策の成り行きに全世界の有識者の目が注がれている。第5次環境行動計画(1999-2002)の特別題目は「生活の質と生物資源の管理」、「エネルギーと持続的発展可能性」であり、環境政策の原則としては事後的対症療法から予見的アプローチすなわち「予防原則」へ転換すること、および汚染者負担原則を基礎に置いた市民、企業、政府の責任分担に基づくパートナーシップ原則を採用している。

環境の全経済的価値と環境制御への戦略
 環境の全経済的価値=利用価値+オプション価値+存在価値+遺贈価値
 環境を制御するために技術、情報、税政、法制の果たすべき課題を提案した。
技術:環境政策が明確な目標を掲げること。(自動車排ガス規制による自動車産業の国際競争力強化)環境技術の生産技術への内生化(技術のグリーン化と地域化)。
情報:環境情報公開制度(PRTRなど)が経営者の問題の重大性の認識に貢献する。環境情報の受発信と共有化を促進する仕組みをデザインすることが中心的な課題である(リスクコミュニケーション)。
税制:環境税は環境政策手段としての目的税である。汚染者に課税し環境全投資や技術開発を促進するインセンティブを制度的に作り出すことである。環境税収入は膨大になるため行財政改革が必要。
法制:環境政策は環境権を保障する法制改革が必要。基本的人権と差し止め請求としての環境権。

小林秀雄全集第5巻    「罪と罰」についてより レオ・シェストフの「悲劇の哲学」

2006年11月24日 | 書評
レオ・シェストフの「悲劇の哲学」

 シェストフ(1886~1938)が1903年に著した「悲劇の哲学」(副題:ドストエフスキーとニーチェ)の翻訳が河上徹太郎・阿部六郎訳で1934年に発刊された。小林氏はこれを痛く愛読されたようだ。「この有毒の書を紹介するのは訳者の誠実な悪意である。毒は随分利く。憎悪、孤独、絶望を語り最醜の人間を信じた著者は、これまでの形而上学・哲学の破壊を狙ったものだ。これも19世紀的思想の一つか」「悲劇の哲学」の中の名文句をあげる「もはや如何なる地上の希望も持たぬ者よ、すべての絶望者達、生の怪物どもの故に心狂った者らが、我々の元に残っている。彼らと共に何処へ行けばいいのか。彼らを掻き埋めるという非人間的な義務を誰が引き受けるのか」
 レオ・シェストフの「悲劇の哲学」の感想はこれだけで、あと2/3は哲学と文学の係わり合いといつもの例に倣って唯物論的社会リアリズム主義文学批判に終始している。直接の関係はない論点にどうしてこれだけの毒舌が吐けるのか。レオ・シェストフの「悲劇の哲学」批判がないのはなぜか。



書評  養老孟司・玄侑宗久対談  「脳と魂」 筑摩書房(2005年1月初版)

2006年11月24日 | 書評
科学でいう「脳」は物質理解だが、人文系でいう「魂」は人間のシステム理解である

 養老孟司氏はかって東大医学部解剖学教授、現北里大学教授である。この評論コーナーで何回も脳科学関係書評に登場している。私が脳科学に興味を抱いたのは実に氏の影響による。最初は「バカの壁」で意表をつかれ、次に「唯脳論」などに共鳴して次々と氏の書物を読みはじめて脳科学の他の著者による書物へ広がっていった。養老孟司氏のプロフィールは既に紹介済みなので省略したい。玄侑宗久氏は臨済宗妙心寺派福聚寺(福島県三春町)副住職で芥川賞受賞の小説家。著書に「禅的生活」(ちくま新書)、「水の舳先」(新潮文庫)などがある。前回は玄侑宗久・有田秀穂対談 「脳と禅」を紹介した。えらく博識の生臭坊主である。いつも禅の説に落ちるので分かりやすく勉強できるため尊敬している。

 本書の企画は当然筑摩書房編集部によるところ大であろう。ところが企画が出来すぎていて、養老先生の御説を東洋的禅の思想で裏付けしようとする意図があまりに見え見えなのが玉に瑕。普通は対談はもっと自由闊達に酒でも飲みながら(小林秀雄の対談はいつもそうだった。酒がはいりすぎて支離滅裂のダウンとなるケースも多かったが)やらせるのがいいのだが、本対談は実に理路整然とある方向へ導く意思が明確に感じられた。そういう意味では玄侑宗久氏は養老先生の話の導き役、聞き役、落とし役、補完役という役柄を演じておられる。まるで編集部である。おそらく玄侑宗久氏も養老先生の著作を熟読されていて、聴く前から話の内容は分かっているのだからそういう役柄を演じられたのであろう。まあ科学者と禅僧侶の掛け合い漫才とみれば文句はない。

 本書の内容は(第1章)観念と身体、(第2章)都市と自然、(第3章)世間と個人、(第4章)脳と魂からなる。本対談が養老氏の自説の確認にあるとするならば、第1章は「唯脳論」、第2章と第3章は「無思想の発見」のダイジェスト版と考えられる。どちらの著作も本コーナーですでに取り上げているので、そちらを見ていただければ繰り返す必要はない。そこで第4章脳と魂だけが本対談のメインディッシュと考えられるので紹介したい。

脳と魂
 生物学では細胞一個がすでに全情報を持つ世界というべきシステム(ミクロコスモス)で成り立っている。ましてや組織、個体(身体)はより高度なシステム体ともいえることは常識である。物質から生物へという過程は全く不明(現在の科学では)であるが、生物が出来てくる最初のところに何か変なことが在ることは間違いない。重大なパラダイムシフトが起きたに違いない。科学は反証可能な仮説であるので、現パラダイムは一つの仮説に過ぎない。それでは実証的な説明が付かないだけのことである。

 科学は本来分析的なので当然人間全体のシステムは問題としない。科学は物質という「色」世界を扱う(たとえば遺伝子という情報)、人間のシステムは抽象的な「空」世界になる。脳はこのシステムを生み出す原動力となったが、これが文明を生み自然と身体を追いやった。人間の脳システムはプレヂスポジションといってあらかじめある見解をとると当然見えるはずのものが見えなくなる。だから人間の魂とはまだまだ分からないことだらけだ。それゆえに宗教が存在しているともいえる。