ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

東京の美術館散歩  「朝倉彫塑館 」

2006年11月29日 | 書評
朝倉彫塑館 (美術館名をクリックしますと付近地図が出ます)

山手線(京浜東北線では停車するかどうか不明)の日暮里駅を下車し大きな道路を1,2分歩いて左折し静かな下町住宅街を下る。直ぐ左に大きな洋館が見える。これが日本彫刻界の重鎮朝倉文雄の旧居である。余談だがもう少し下ると岡倉天心の主催した日本美術院跡公園がある。この住宅は大観の純数奇屋つくりとは違ってアトリエがコンクリートの洋館で住まいが数奇屋つくりの日本式の折衷住宅である。そして数奇屋住宅の真中に池を配してすばらしい石をしつらってある。建築物として一見の価値のある実にユニークな旧居である。展覧会はやっていないがアトリエには有名な「墓守」、「大隈重信像」などが林立している。


大阪人の心意気 大いにやったらいい

2006年11月29日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月28日
阪神V逸、不景気も家康のせいや 「ののしる会」復活へ
 関西の景気が悪いのも、阪神が負けたのも、へ理屈で全部家康のせいにする「徳川家康をののしる会」が12月、復活する。故・三代目旭堂南陵が続けていた名物の講談会で、今回は弟子らが、履修漏れや耐震偽装など現代の世相を家康のせいだとこじつける。

「家康め、都を江戸へもって行きよって」秀吉びいきの難波っ子が家康をののしる

  このこじつけはあながち根拠がないわけではない。かって桃山時代に経済力や政治で国の中心であった大阪が、徳川家康に大阪城を焼かれ都を江戸にもって行かれた恨みは今も続いているのである。今や大阪の地盤低下は救いがたい状況である。昔は政治の中心は江戸、経済の中心は大阪(上方)と自負していたものの、いまでは関西企業の本社まで東京移転になって、経済の中心は誰が見ても東京にある。関空やユニバーサルスタジオで盛り返そうとしたものの効果はさっぱり。劣勢ぬぐいがたしとその元凶は家康にありとばかりに、屁理屈で家康へ今の現状の原因をなすりつけようとする試みは滑稽であるが、いじらしい。おおいにやって本当の大阪沈没の原因を考えるよすがになればいいのではないか。参考意見を述べれば、大阪出身の元経済官僚、評論家である堺屋太一氏を呼んで討論会をやればもっともっと面白いだろう。

宮崎県官製談合汚職はいよいよ県トップへ迫る

2006年11月29日 | 時事問題
2006年11月29日03時03分
宮崎県出納長を聴取へ 官製談合関与の疑い 
 宮崎県発注の災害復旧工事設計の入札をめぐる官製談合事件で、宮崎県警は、談合に関与した疑いが強まったとして江藤隆出納長(63)を競売入札妨害(談合)容疑で29日に事情聴取する方針を固めた。すでに同容疑で逮捕された県幹部らが調べに対し「(談合は)上からの指示だった」などと供述していたが、その後の調べで、江藤出納長の関与が明確になったという。江藤出納長はこれまで官製談合への関与を一貫して否定してきたが、捜査は県最高幹部への強制捜査に進展する見通し。

asahi.com 2006年11月29日14時09分
宮崎県知事「辞職しない」 県議会は辞職勧告決議
 安藤知事は29日午前、口頭で辞職を勧告した県議会の坂元裕一議長らに対し、「私も事情聴取を受けるかもしれないが、まったく身に覚えのないこと。少なくとも出納長に指示はしていない。私の責任の取り方は入札制度の改善をしていくことだ。知事としての任期をまっとうしたい」などと述べ、辞職の意思がないことを改めて強調した。県議会は同日午後の本会議で、全会一致で辞職勧告決議案を可決した。

asahi.com 2006年11月29日16時12分
宮崎県出納長を逮捕へ 落札業者指示の疑い
 宮崎県発注の災害復旧工事の設計入札をめぐる官製談合事件で、宮崎県警は29日、江藤隆出納長(63)が土木部長に受注調整を指示していた疑いが強まったとして、競売入札妨害(談合)容疑で取り調べを始めるとともに、自宅と県庁の出納長室を家宅捜索した。

福島県談合汚職では東京地検特捜部が、和歌山県では大阪地検特捜部が、宮崎県では県警が捜査するわけは

 警察行政制度が良く分からない。捜査担当が地域の高裁が存在する都市の地検特捜部であるなら、宮崎県の場合は福岡地検特捜部が動くべきはず。汚職が地方自治体トップが関与するかどうかで決まるのだろうか?
宮崎県知事のあの高圧的態度から見る印象から、姉葉事件のヒューザー社長を髣髴とさせた。強弁を続ける宮崎県知事への捜査の手は伸びるのか?????
 

怪しげな結果 実験方法に問題か?

2006年11月29日 | 時事問題
2006年11月29日07時02分
乳酸菌食品で花粉症緩和 厚労省研究班「一定の効果」

 乳酸菌食品を毎日とれば、スギ花粉症を含むアレルギー性鼻炎の症状を緩和する効果が一定程度あることが、厚生労働省の研究班(主任研究者=岡本美孝・千葉大教授)による調査でわかった。
 摂取した半年間、くしゃみや鼻水、鼻づまりの頻度、日常生活への支障の度合いなどを日記につけてもらい、症状なしから最重症までの5段階で点数化した。
 その結果、鼻水と鼻づまりの症状で、乳酸菌を摂取しなかったグループは花粉飛散期に悪化していったが、摂取したグループではあまり変化がなく、最大で1段階ほど症状に差が出た時期があった。
 今回の研究では、乳酸菌摂取で、血中のアレルギーにかかわるリンパ球や抗体の量で明確な差は出なかった。研究に用いたのは死んだ乳酸菌。前年の研究では生きた乳酸菌を使ったが効果は表れなかったという。その差がなぜ出たのか、仕組みは不明だ。

さてこの実験方法は正当なのか。

 昔から洗剤テストなどの商品テストでは、効果が出やすいように巧妙に工夫された業界の試験方法が存在している。ウソではないが普通では実感できない微少な効果を拡大して試験する方法である。今回のヨーグルト効果試験方法を検証してみよう。実験方法の詳細は厚生省の報告を見なければ分らないが、ヨーグルト摂取グループは明らかに味覚を感じているが、非摂取グループにはそれがない。「感覚の暗示効果」も考えられる。5段階の症状評価で「最大1段階の差が現れるときもあった」という表現はあまりに弱い効果で確認できるものではない。全員なのか部分なのか不明。統計処理による尤もらしさはどのくらいなのだろうか極めて怪しい。免疫機能による効果であるなら、死んだ菌も生きた菌の差は出ないはず。また抗体やリンパ球の差もなかったということは、免疫による効果を実証したとは言いがたい。つまり被験者の心理的差によるか、5段階評価法とその日記風報告制のあいまい性が大きいといわざるを得ない。


環境書評  城山三郎 著  「辛酸」-田中正造と足尾鉱毒事件-  角川文庫(1979年)

2006年11月29日 | 書評
 JR宇都宮線に小山で乗り上野に向かう時、電車が古河を過ぎて利根川の鉄橋に差し掛かると、右側(西方)に広々とした河川敷が広がり、渡良瀬川が利根川に合流する風景が眼に印象的である。美しいと思うと同時に明治の昔足尾鉱毒事件で谷中村が水没させられた事実を想起するのは私一人ではなかろうと思う。この地で明治の佐倉惣五郎と呼ばれる田中正造翁が谷中村存続をかけて闘争され、悲劇的な野垂れ死にをされた。著者城山三郎氏は企業物小説で有名であるが、昭和36年に「辛酸」という小説を書かれた。「富国強兵」をスローガンにし欧米強国に列する明治国家の建設途上、国家という強権により蹂躙された早すぎた公害闘争の記念碑として、城山氏は公害闘争史という観点よりは、谷中村強制取り壊し後の田中正造翁の人間性に肉薄した。正造翁は絶望的な野垂れ死にをあえて厭うことなく妥協を排して明治国家に抗議し続けることで、生を全とうすることを得た。

足尾鉱毒問題
  
明治の資本主義黎明期に古川財閥は足尾銅山を経営し日本二大銅山の一つとして産業、軍事用の資材を供給した。農業から工業への重点的投資は国策であって、日清、日露戦争に向かって増産拡大が至上命令であった。足尾銅山闘争の歴史を田中正造翁の足跡の点から纏めた。

①明治24年(1891年) 帝国議会にて田中議員は以後10年間反対質問を続ける。
②明治30年(1897年) 大隈農商大臣鉱毒予防工事命令を出すなど一定の成果があった。
③明治34年(1901年) 田中議員、帝国議会開院式で天皇に直訴。
④明治40年(1907年) 谷中村400戸買収遊水池化決定。水没化した谷中村に残留した19戸に強制取り壊し命令

ここから城山氏の「辛酸」の物語が始まる。殆どの村民は涙ばかりの補償金で北海道開拓村に立ち退かされ、川中に残留した19戸の裁判闘争に田中翁は心血を注いだ。翁は鉱業停止、関宿石堤除去、谷中村遊水池化反対を訴えたが政府、栃木県は強制収用を断行した。
⑤明治43年(1910年) 渡良瀬川改修案議会通過。河川法適用で谷中村は川地になった。
⑥明治45年(1912年) 土地収用補償金額裁定不服訴訟で敗訴
⑦大正2年(1914年)  田中翁逝去


谷中村の地形と治水問題
  
足尾銅山から流れる渡良瀬川は現在の国道50号線とほぼ平行に東行し、藤岡町で南下して巴波川、思川を合流して古河市と栗橋町の間で利根川に流入する。この渡良瀬川、巴波川、思川の集まる三角地帯が現在の渡良瀬遊水地である。旧谷中村は谷中湖の湖水に水没している。江戸時代に関東防衛の軍事上の戦略地として現在の千葉県関宿に石堤を築いて川幅を狭め、利根川を天然の要塞としたため、この三角地帯は絶えず洪水に見舞われた。足尾鉱毒問題をこの治水問題にすりかえたのが明治政府の悪知恵である。鉱毒問題は渡良瀬流域のどこで発生してもいいはずであるが、谷中村で鉱毒反対運動に猛然と火がついたのは次の理由によると考えられる。

①天然の湿地帯である谷中村周辺を遊水池化し、鉱毒(銅)の沈殿池とする。
②田中正造を中心とする鉱毒反対運動の急先鋒を圧殺する。
③洪水防止の治水事業と称する。

悲しいまでの結末であるが、翁は自分の力の到底及ばざるを知って「わしは谷中の村で死なせて欲しい。この村で野垂れ死にしたい。村以外にわしの死に場所はない。」と死に場所を求めた。