ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

漢詩  「残秋」

2006年11月26日 | 漢詩・自由詩

山色残秋落葉     山色は残秋 落葉繁し 
風声鬼哭涙雙     風声鬼哭き 涙雙痕
幽人清夜親燈火     幽人清夜 燈火親しむ 
剪燭繙書避世     燭を剪り書を繙き 世喧を避く


(赤い字は韻:十三元   七言絶句仄起式)

文部科学省  いじめ自殺再調査を開始

2006年11月26日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月26日08時00分
いじめ実態、緊急調査へ 相談員も拡充 補正予算案

 いじめを苦にした自殺が多発していることを受け、政府は、いじめの緊急実態調査や相談員の拡充などの対策を12月下旬に決める06年度補正予算案に盛り込む。いじめによる自殺者を7年間「ゼロ」としてきた従来の文部科学省の調査に「実態を反映していない」といった批判が出ているため、来年度予算を待たずに補正予算を組み、実態の把握をめざして早期に再調査を実施することにした。

いじめによる自殺など文部科学省の再調査の透明性を担保するために

元来定義が不明確で解釈次第でどうでもカウントできる案件の件数調査は不正確に報告され、各都道府県教育委員会の裁量で握りつぶされたり、虚偽の数値捏造がなされてきた。かってこのブログで校内暴力件数について集計数値のおかしい点を述べたことがあったが、校内暴力やいじめ自殺といったマイナスイメージの件数はひた隠しにするのが教育界の実体であった。従って今回再調査をするといっても、定義をいくら厳密にしても教育者の考え方を変えない限り同じような数字いじりが行われ公正性に疑問を拭い去れない。もっと悪いことには横の連絡をと取り合ってどの辺で数値を落とすかという談合がなされる可能性が大きい。それほど教育界の病根は深い。

参考までに校内暴力に関する私のブログを採録します。
さてこんな統計値信じられますか。
 各都道府県の教育委員会から文部省に報告されてきた数値ですので、その積算の間違いはないでしょう。しかしこんな数値信じられますか。
①山形・福島・宮崎・鹿児島ではゼロ、北海道7
②東京65件、神奈川501件
ようするに、各都道府県教育委員会の校内暴力認定の定義と評価基準の甘辛さがまるで統一されていないことが如実である。傑作なのは神奈川県の人口はいつから東京の一桁上になったのか。東京も神奈川も都会である。ある程度人口比例と為るのが常識であろう。神奈川県は凶悪児童の巣ですか。神奈川はそんなひどいところだとは信じられない。私は神奈川県は1980年代校内暴力の烈しい県とメディアに叩かれた県であったので校内暴力をシビアーにカウントする伝統が出来たと考えます。他の県はそれほど厳密にはカウントしない習性にあったとみるべきです。
もうひとつの理由は各都道府県教育委員会の名誉と成績にかけて(教育官僚の自己保身のため)数値隠しが行われていることが考えられる。とにかくこんな数値は全く信用できない。まじめにやれい!
参考までに数値を記します。
【公立の小学生の学校内外の暴力件数】
    04年度 05年度  増減
北海道   7    7    0
青森   14   11   ▼3
岩手    1   11   10
宮城   18   19    1
秋田    7    5   ▼2
山形    0    0    0
福島    0    0    0
茨城   42   35   ▼7
栃木  122   48  ▼74
群馬    2    8    6
埼玉  127  113  ▼14
千葉   59   54   ▼5
東京   43   65   22
神奈川 318  501  183
新潟   17   14   ▼3
富山    5    5    0
石川    4   10    6
福井    2    0   ▼2
山梨   19    4  ▼15
長野    2    2    0
岐阜   30   66   36
静岡   81   61  ▼20
愛知   21   70   49
三重   58   54   ▼4
滋賀   32   35    3
京都   88   57  ▼31
大阪  320  293  ▼27
兵庫  173  131  ▼42
奈良   70   74    4
和歌山   8    7   ▼1
鳥取   13    4   ▼9
島根   47   41   ▼6
岡山   43   56   13
広島   86  110   24
山口   38   24  ▼14
徳島    2    1   ▼1
香川    8   26   18
愛媛   19    7  ▼12
高知   28   22   ▼6
福岡   31   41   10
佐賀    4    3   ▼1
長崎    5    5    0
熊本    2    1   ▼1
大分    7    5   ▼2
宮崎    0    1    1
鹿児島   0    0    0
沖縄   77   69   ▼8
 計 2100 2176   76(▼はマイナス)

環境書評 館野之男 著「放射線と健康」 岩波新書(2001年8月)

2006年11月26日 | 書評
狂牛病による英国の畜産業への被害は膨大であり18万頭の発症牛に対して安全防護策として焼却された牛の数は450万頭におよんだ。実に発症牛1頭に対して25頭が処分されたことになり、もし日本が同じ政策をとったならば畜産業は壊滅したであろう。ヒト健康被害としてのヒト変異型クロイツフェルトヤコブ病死亡者数は英国の狂牛病の数から類推するとEUで1.17人(実際は4名)、日本で1.6*10-3名と推測される。日本では実質的にヒト変異型クロイツフェルトヤコブ病死亡者は出ないと考えてよい。「狂牛病」の著者は食品業界記者であったので飼料の闇ルートの実態をもう少し追求すべきであった(英国で日本への輸出統計がありながら、日本での輸入統計がないなど)。それにしても日本の地質条件は石灰分が多くて牛のカルシウム補給のため肉骨紛を与える必要が無かったために被害が少なかった。幸運であった。放射線障害のリスク論は極めて厳密に構成されているが、これは原爆被爆という不幸な歴史に基づくデータ蓄積があったために構築できたといえる。人間は悲惨な結果からしか学べないのであろう。最近の環境ホルモン作用仮説としての低用量作用仮説(逆U字作用曲線)も妙な理論であるが、低線量放射線の活性化作用仮説(良い作用)と同じように分子レベルの解明がなければ断定も否定もできない。また化学物質による具体的なヒト病理が判定されない限り、人影響の恐れに終始するだけである。その意味で化学物質の人健康リスクを放射線障害リスク論と同じレベルで論議するためにはまだ膨大なデータ蓄積が必要であることを実感した。

(1) 放射線障害
チェルノブイリ原発事故や東海JCO臨界事故、原爆被爆は高被爆線量による放射線傷害に分類される。極めて多量の被爆により死亡するとか、幸い被爆線量が少なくて一時的不妊、白内障、血液変化、胎児被爆の時の奇形・精神発達遅れが見られるなどの影響である。放射線傷害は早期に影響が現れ、影響の被爆線量に閾値が存在するために確定的影響と呼ばれる。

(2) 遺伝子障害
  
何年か先に病気になるかもしれない確率をリスクという。1927年マラーはX線がショウジョウバエに突然変異を起こすことを発見し、突然変異の発生率とX線量の間に正比例の関係があると報告した。この遺伝子影響はつぎの3つの特徴を持つ。
①線量に正比例する。職業人、一般人に関係なく総線量に比例した影響が出現する。
②線量率には影響されない。
③直線的閾値なし仮説(LNT)
このLNT仮説という考え方はリスク論としては画期的であり、被爆総線量で管理できる点で優れた理論を提供した。しかし1951年ラッセルは700万匹マウスプロジェクトを実施してマウスには放射線の遺伝影響は認められないと言う結論を得た。又原爆被爆2世の調査によっても遺伝的影響はなかったとする結論であったため、1974年ICRPは遺伝障害の防止を放射線防護の主目的から外した。これより低線量放射線防護は「遺伝子からガンへ」の時代に入った。1974年原爆被爆者報告によると、白血病以外に食道、胃、泌尿器、肺、甲状腺、乳ガン、リンパ腫などの固形ガンによる死亡例が増加し、白血病の4~6倍の死亡例であった。
ICRPは1977年に確率的影響を次のように定義した。
①LNT仮説を当てはめてもよい影響を確率的影響という。
②それにより分類されるのは遺伝影響と発ガンである。
③発ガンは低線量の放射線防護で一番重要な問題である

小林秀雄全集第5巻    「罪と罰」について より「白痴」について Ⅰ

2006年11月26日 | 書評
「白痴」について Ⅰ

ドストエフスキーは「罪と罰」に続いて「白痴」を書いた。「罪と罰」の延長上にあるが、はるかに円熟した語り口で登場人物も多くなった。ドストエフスキーは製作の意図を「この小説の根本の観念は一人の真に善良な人間を描くことにある。」しかし世界中に真に善良な人間はキリストただ一人であろう。その他はこっけいと言う名で善良なのだ。主人公ムイシュキン公爵は周囲の人に同情しながら誰一人慰めることが出来ない、ただの生活無能力者なのだ。
筋書きを書いてしまえば馬鹿馬鹿しくなるほど荒唐無稽である。「主人公ムイシュキン公爵は子供のころ癲癇に罹って以来、26歳まで精神病院の患者であったが、なかば健康を取り戻してペテルブルグに帰ってくると、捨てられた商人の妾ナスタアシャと将軍の娘のアグラアヤと同時に恋愛関係に落ち、彼は二人の女に同じ愛を誓う。一方ナスタアシャにほれた商人ラゴウジンがからんでくる。ムイシュキン公爵の態度が朦朧としているためナスタアシャの心は二人の間を揺れ動く。アグラアヤはナスタアシャとの恋愛合戦に敗れるが、ナスタアシャは昔受けた恥辱から自己虐待にあり結婚式の日になってラゴウジンの元へ走る。嫉妬のあまりムイシュキンを殺そうとして果たせなかったラゴウジンは今度は逃げてきた女を殺してしまう。ラゴウジンとムイシュキンは仲良く女の通夜をしてやるが、通夜のなかで一人は発狂し、一人は元の白痴にもどる。」
登場人物の性格を語ろう。主人公ムイシュキン公爵はその言行に何の責任も持たない無能力者で、ただ無力な憐憫の情だけが人々の生命が滅んでゆく手助けをしているようだ。ムイシュキン公爵の告発者エヴゲイニイに「何一つ真面目なところがなく、精神上の惑溺、嫉妬だけで、嘘、無経験、無邪気なあたまで作り上げた観念の途方もない逸脱だった。この阿呆め」と言わせている。小林氏は「小説上の病理学的セットは白痴において最も大胆、最も巧妙に組み立てられた。想像力の最も凶暴な場と形容したほうがいい。」という。想像力が文明の原動力であると同時に、この想像力が現在もなおいろいろな事件を引き起こしているのである。これが人間の実相なのだ。  

書評  茂木健一郎著 「意識とはなにか」 ちくま新書(2003年)より 茂木健一郎の企て 

2006年11月26日 | 書評
「私」とクオリアを生成する脳の働き

茂木健一郎氏については「脳と仮想」(新潮社)をかって取り上げた。脳には現実から離れたイメージを創造する能力があり、これがヒトの偉大な属性であるとするものである。この見解は養老氏が「世界は脳の産物だ」ということと同じことであった。幽霊を見ることも数学・科学を考えることも文明社会を作ることも脳の働きである。そのとおりであり別に異を唱えることもない。養老氏が医者の立場から脳科学をアプローチしているとすれば、茂木氏の立場は何だろうか。氏の経歴から見て行こう。氏は東大理学部と法学部の二つの学部をご苦労にも卒業し、大学院は理学部物理専攻を修められた。現在はソニーコンピューターサイエンス研究所上級研究員である。そして脳科学を専門とされるといういわくいい難い経歴である。脳科学は物理学と直接何の関係もない。コンピュータサイエンスならニューラルネットワーク(模倣神経回路)ということから多少は関係するようだが、氏の研究手法からみるとあまり関係はない。とにかく異才に違いない。こんな変わった経歴の持ち主から案外いいアイデアが出るものである。(遺伝子工学が異分野の人から始まったように)

クオリア論を展開する茂木氏は「意識とはなにか」において、「個体のクオリア(質感)、それを感じる<私>という主観性の構造は様々な文脈を反映しつつダイナミックに変化する脳神経活動のネットワークによって、同一性を維持し世界を把握する」という主張になったようだ。

なおクオリアとは氏の定義によると「一般的にさまざまな関係性、文脈が反映されたあるものの認識の結果をユニークな質感として把握する脳・意識の働き」である。つまり「透明感」というものをある空間の広がりの中の色の関係性をコンパクトな質感に反映させた結果として捉えることである。これでも分かりにくいのでさらに平たく言えば「存在するある物を様々な関係性の中で、私のあざやかな感覚として落とし込み認識することである。」ということだ。これでも分からなければ本書を読んでください。

「特別扱いを認めないことで発達してきた科学が、いまだに特別扱いせざるを得ないのが私たちの意識,主観的体験である」。茂木氏は本書の前書きにおいて「脳を理解するという人類の試みは、なぜ脳の中の神経活動によって、私たちの意識が生み出されるかが皆目分からないという絶望的な壁にぶつかっている」と述べ、脳科学の研究手法上の行き詰まりを指摘している。そこで茂木氏は脳科学でもない、認知科学(心理学)でもない、哲学でもない中間的領域を模索していられるようだ。