ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文芸散歩 堀田善衛著 「時間」(岩波現代文庫 2015年11月)

2016年03月30日 | 書評
「殺、掠、姦」の南京虐殺事件の中、中国人知識人の立場で問うた人間存在の本質に迫る戦後文学 第2回

序(その2)

本書「時間」は1955年(昭和30年)新潮社から刊行された。敗戦後10年経っており、すでに中華人民共和国の樹立を見ており、朝鮮戦争からサンフランシスコ講和条約締結、米ソ冷戦体制の開始の激動期を体験している。その中で堀田氏が南京虐殺事件を取り上げた理由と意義を考えなければならない。また本書巻末に辺見庸氏の「解説」があり、本書の意義を現在の政治状況から見ている。でなければ岩波現代文庫が最初の刊行から60年経って本書を再び世に問う理由が見当たらない。辺見氏の解説を聞く前に、辺見庸しのプロフィールを見ておこう。1944年宮城県石巻市南浜町に生まれる。宮城県石巻高等学校を経て、早稲田大学第二文学部社会専修卒業。共同通信社に入社し、外信部のエース記者として知られた。北京、ハノイ特派員などを務め、北京特派員時代の1979年には『近代化を進める中国に関する報道』により新聞協会賞を受賞。外信部次長を務めていた1991年(平成3年)、職場での経験に着想を得た小説『自動起床装置』を発表、第105回芥川賞を受賞した。また1994年(平成6年)には、社会の最底辺の貧困にあえぐ人たちや、原発事故で放射能汚染された村に留まる人たちなど、極限の「生」における「食」を扱った『もの食う人びと』で、第16回講談社ノンフィクション賞を受賞。1996年に共同通信社を退社、本格的な執筆活動に入った。近年は「右傾化に対する抵抗」などをテーマに活発な論陣を張っている。戦後文芸史上で特異な存在であるこの「時間」という小説が敗戦後70年を経た今と、単行本として上刊された1955年とでは持つ意味が全く違う。違う点は、日本軍による中国戦略戦争及び南京虐殺事件に関する記憶と認識の激しい移り変わりです。虐殺事件の被害者とその親族及び日本軍関係者が死絶えてもはや肉声として証言する人もいない中で、今日の右傾化政治家たちが勝手な歴史を編集している。近年の日本には「自虐史観」批判なるものが登場し、「南京虐殺はなかった」とか「従軍慰安婦なる問題は反日勢力のでっち上げだ」とまで叫ぶ勢力の動きがとみに増加している。1990年以降「日本版歴史修正主義」とまで呼ばれるようになった。朝日新聞攻撃やNHK批判に見られるメディアの窒息現象が横行する今日では、もはや「時間」のような作品は生まれてこない。2015年10月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は中国が申請した旧日本軍による南京大虐殺に関する資料を瀬かい記憶遺産に登録したと発表した。菅官房長官は「一方的で、中立公平であるべきユネスコとして遺憾である」と記者会見で述べ、ユネスコへの基金を減額するというまさに札束で頬を打つ姑息な行為に出た。いまや人のみが為しうる歴史認識は、政治によってもみくちゃにされている。安倍首相は侵略戦争といった「過去のことは後世の歴史家に任せよ」と過去の責任を放棄し曖昧な領域に押しやろうとしている。この日本を覆っている右傾化の波については、中野晃一著 「右傾化する日本政治」岩波新書2015年7月に日本政治の右傾化の歴史が述べられている。「時間」の主人公が「今一番苦しんでいるのは、ひょっとして人間であるよりむしろ道徳というものかもしれない」と述懐しているが、今もやりたい放題の無責任が跋扈し、道徳が蹂躙されようとしているのであろう。恐らく近代日本において欠けていたのは「他者への配慮と創造力」であった。「到底筆にも口にもできないような」旧日本軍の蛮行は、相手を同じ人間と見なしていなかったことによるものである。まさにナチスのやり方と同じであった。1945年5月、堀田善衛は武田泰淳と南京に旅した時、「いつかは南京大虐殺を書かなければならないだろう」という不吉な予感がしたという。「日本軍は中国軍の敗残兵ばかりでなく、一般市民・女性。子供までを見境なく襲い、放火、掠奪、婦女暴行などを数週間も続けた。中国軍民の犠牲者は数万から43万人ともいわれている。日本以外の海外メディアは洪水のように南京大虐殺、レイプ南京を記事にしたが、日本では大虐殺については秘匿されてきた。長きに渡って日本の歴史の中でもまれに見る恥辱であった」と堀田善衛は彼の全集のあとがきに書いている。そのため南京大虐殺は未了のまま日本にぶら下がっている。安倍首相は従軍慰安婦問題と同じように終りにしたくてもまだ終わることができないのである。従軍慰安婦については韓国政府と金で解決しようとしているが、これは民衆の中では終われないのである。「外国軍も同じようなことををやっている。戦争時はそういうものだ」といった言い訳で、戦争一般にすべてを流し込むことで思考を放棄し(鵞鳥のように頭を砂の中に突っ込んで、美しい日本と自己暗示をかけるのは民衆ではなく支配者・権力者である)、責任を忘却の内に解消してしまう「日本方式」を堀田氏は強く拒否する。たとえ情報と統計不足で犠牲者の数が数十万人から数万人が妥当とされたとしても、死者の数値化による事件の過小評価を強く戒めている。まして「南京大虐殺はなかった」と公言した石原慎太郎自民党議員(元東京都知事)は厚顔破廉恥と言わざるを得ない。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿