ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 梅棹忠夫著 「文明の生態史観」 中公クラシックス

2008年12月24日 | 書評
京都学派文化人を代表する文化人類学者 第2回

序(2) 梅棹忠夫氏の略歴

 梅棹忠夫氏の略歴を紹介する。1920年京都市生まれ。1943年京都大学理学部動物学科卒業。大阪市立大学、京都大学人文科学研究所教授となった。日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えている人物。京大今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す。博士論文は、梅棹の文化人類学的な研究を知るものにとっては意外かもしれないが、ヒキガエルのオタマジャクシが集団内でとる分布様式を、数理生態学的に解析したものであった。三高時代から山岳部で活躍し、京都大学在学中には今西錦司を団長、森下正明を副団長とする中国北部『大興安嶺探検隊』などの探検に参加活躍をした。モンゴルの遊牧民と家畜群の研究を基盤に、生物地理学的な歴史観を示した『文明の生態史観』は、日本文明の世界史的位置づけにユニークな視点を持ち込み、大きな反響を呼び論争を巻き起こした。この主著は後の一連の文明学におけるユニークな実績の嚆矢となった。フィールドワークや京大人文研での経験から著した『知的生産の技術』(岩波書店)は長くベストセラーとなり、同書で紹介された情報カードは、「京大式カード」という名で商品化された。また川喜田次郎氏の名をとった「KJ法」は知的議論の進め方の基礎となっている。1963年には『情報産業論』を発表。A.トフラーの「第三の波」よりもかなり先行した時期に情報化社会のグランドフレームを提示した。「情報産業」という言葉の名づけ親でもある。その後の一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』(1988年)にまとめられている。国立民族学博物館の設立に尽力し、1974年初代館長に就任した。1993年まで約20年間の長きにわたって館長を務めた。1986年に原因不明の失明をしたため、それ以降の著述は口述筆記で行われている。1994年文化勲章受賞。


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