ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

小林秀雄全集第5巻    「罪と罰」についてから「罪と罰」について Ⅰ

2006年11月23日 | 書評
「罪と罰」について Ⅰ

ドストエフスキー(1821~1981)は「地下室の手記」という短編で「陰惨な心理小説」の走りを書き、1866年にいよいよ五つの長編小説の一番目「罪と罰」を著した。小林秀雄氏は「罪と罰」について二回書いている。1934年と1948年である。「罪と罰」について Ⅰは1934年に発表されたが、これから小林氏のロシア文学傾斜が開始されるのである。内容の深さや解析の詳しさについては「罪と罰」について Ⅱには到底及ばないとしても、「罪と罰」について Ⅰは陰鬱なロシア小説の系譜を知る上での格好な入門書になろう。ショックは最初は少なめにしたほうが精神衛生上も好ましい。
「罪と罰」製作の舞台裏というかラフスケッチのような手がかりとして作者の「ノート」があるそうだが、小林氏はまずこのノートに則って登場人物の性格つけと狙いを明らかにしてゆく。荒筋書きは以下である。主人公ラスコオリニコフは貧乏な大学生で殺人の夢想に取り付かれ、金貸し婆とその妹リザベータを殺害する。その殺人を酒びたりの廃人マルメラドフの娘で娼婦のソーニアに話してしまい、逮捕されシベリア流刑になる。ラスコオリニコフの分身の性格を与えられた享楽以外は無性格で、自殺でこの世とおさらばしたスヴィドウリガイロフと酒びたりで事故死したマルメラドフらの告白は将に19世紀末現象という退廃的虚無的な「こうなるともう娑婆じゃありませんな。あの世ですな」と言うセリフに象徴される、死でしか逃れられない虚無、無自己となんなんだろうか。
こう簡単に筋を書いてしまえば身も蓋もないが、「罪と罰」はドストエフスキーの作品にしては比較的登場人物も少なく構成も複雑怪奇ではない。むしろ分かりやすい小説に類するとしても、なぜラスコオリニコフが虚無的無人格者なのか到底理解できない。「善悪の彼岸」(ニーチェの超人主義)という犯罪哲学から殺人を夢想するにいたる論理的経過はまるでない。現実的事実の外的因子は何もないのである。そうなんだからそうなんだというところからスタートして、ラスコオリニコフに長時間お付き合いしなければなるまい。別にこれが19世紀後半のツアー専制ロシアの社会的現実と縁もゆかりもないことは承知しなければならない。しかしツアーを縛り首にして選挙にはゆかず酒を飲み行く革命ロシアの庶民の非近代的・社会的未熟さは理解しておきたい。
「主観の極限までいこうとする性向と、客観の果てまで歩こうとする性向が背中合わせである危険なリアリズムがこの作者の制作方法というよりこの作家の精神の相ではあるまいか」、「空想が人間の頭の中でどれほど横暴で奇怪な情熱と化すのかという可能性を作者はこの作品のなかで実験した」と言う小林氏の結論い私も賛成したい。
最近日本でもネット自殺や殺人が増えている。首を絞めて人が苦しむのを見ることで興奮すると言う殺人事件があった。また人を殺してみたかったという理由で殺人を試みた事件もあった。これは精神異常者の空想と言うにはあまりに社会的である。とくにネットをサーフィンする者に現実と空想の区別も怪しくなったように見える。バーチャル(擬似)空間/社会を売り物、食い物にする商売が増えたことが背景にある。コンピュータ社会が生み出した犯罪である。
そういう意味でドストエフスキーの「罪と罰」を読めば、ドストエフスキーは急に現実味を帯びてくること請け合いだ。19世紀的疎外・孤独・虚無を21世紀的無生活時代に置き換えればどちらも非現実的夢想に埋没してゆく姿が見える。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿