ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」 東洋経済新報社

2015年01月04日 | 書評
制度主義経済学が唱える 社会的共通資本が支える持続可能な生活の再建 第8回

第4部 学びの場の再生

 第4部は6つの章の教育論雑感からなる。宇沢氏にとってリベラルでアカデミックなアメリカの大学は、学問的、人間関係的な第2の故郷であるという。アメリカ滞在は12年間に及び、1964年には36歳でシカゴ大学経済学部教授になった。ベトナム戦争によってアメリカ社会が荒廃し、市場原理主義経済学の全盛時代を迎えるアメリカに嫌気がさしたのか、1968年に帰国し東大経済学部助教授となった。1965年学生たちの反戦運動が活発になり、シカゴ大学本部を学生たちが占拠する事態になった。徴兵委員会に学生の成績表を送るなという要求にたいして、著者と3人の助教授が調停に立ち、成績をつけないという妥協案でまとまりかけたが、著者がアカ呼ばわりされたので腹をたてて米国を去ったという。著者らは「ザ・ヴォイス」という反戦雑誌を作ったが、これは著名な言語・文法学者ノームチョムスキーの反戦運動の一環であった。1966年著者が1年間英国のケンブリッジ大学の行って留守の間に、シカゴ大学は保守派一色となった。3人の若い助教授は解雇されて行方不明になっていた。実に苦い思い出として残ったと宇沢氏は回想する。1994年著者がミネソタ大学の哲学科教授のジョン・ドランに再会して、ジョン・ドランが医の倫理をテーマとしていることを知って、それ以来医療を教育と並んで社会的共通資本の要に位置づけ、医の倫理の関する国際シンポジウムを開いたり、共同研究を行った。ジョン・ドランとの会話の中で「ノーム・チョムスキーはえらい。反戦運動で54回も逮捕されている。私(ドラン)は1回きりだ」といった。そのころ宇沢氏は子供のための数学入門書「好きになる数学入門」を書き始めていた。カントの「純粋理性批判」の考えに基づいて数学を教えることが可能だろうかということをチョムスキーに影響された試みである。ドランも「魚に泳ぎ方を教える」という本を書いている。子供に数学を教えることは魚に泳ぎ方を教えるのと同じである。すくすく育つ環境を用意すれば本能的に数学を理解する能力を持っているという理論である。大学は知識を教えるところではない。人格を形成することがおざなりにされている。まして実学的な知識を教えてそれでよしとすれば専門学校と大差はない。日本の経済、社会の現状をどのように理解し、将来の方向をどのように考えるか、経済学の学界で基礎となるパラダイムは存在しない。人間中心の経済学は教師と学生が一体となって共同作業をしなければならない。経済学の新しい地平を拓くのは学生である。ジョン・デュ-イの「教育の3原理」は第1部で述べたので省略するが、文部官僚は教育委員会をつかって教科書検定制度と学力テストによる偏差値教育を徹底したため、知性の欠如、道徳の退廃、感性の低下を招いた。文部官僚は陰湿で抑圧的なやり方で知られる。日本の基礎教育制度の欠陥を象徴する「いじめ」の原点は、文部官僚による学校関係者にたいする「いじめ」構造にあるといってもよい。

 旧制高校はリベラル・アーツの思想に立って本来の意味における大学の機能を持っていたが、最も特徴的なことは全寮制の完全な学生自治であったという。旧制ナンバースクールの良き校風は新制大学卒の我々には実感として理解できないことであるが、文部省が導入した新制大学の制度は、東京帝国大学を改革して、新制大学を国家権力の一機構として再編成しようとするものであった。ケンブリッジ大学、オックスフォード大学やハーバード大学などは、本来のリベラル・アーツを中心として、法学部、工学部などの応用分野を専門学校カレッジとして位置づけている。大学本校は国が運営するが、カレッジは私的な基金で運営される。カレッジの一つはロスチャイルド家が管理するローデシア基金で運営されていた。著者が在籍したアメリカの大学はリベラルな雰囲気を持つ、いい大学であった。それは福沢諭吉のリベラルな考え方に似ている。リベラルとは大学が外的な規則や不文律にとらわれることなく、それぞれの倫理的規範と職業的本質にしたがって行動することである。外国の大学ではセミナーの後でビールを飲みあって議論する慣習がある。しかしベトナム戦争後はアメリカの大学は殺伐として、みんなで連れ合ってビールを飲みにゆく心のゆとりはなくなった。2003年著者は同志社大学に新設された社会的共通資本研究センターの所長に任命された。その設立については、ノーベル経済学賞を受賞したかっての仲間のジョーセフ・スティグリッツや、ケネス・アロー、ロバーツ・ソローらの世界的経済学者が協力を惜しまなかったという。センター設立記念第1回公開講演にスティグリッツが「環境と経済発展」と題して基調講演を行った。現代資本主義の一つの制度的特徴として、福祉の制度化がある。福祉社会の理念は、健康、教育、仕事、交通を始め、さまざまな市民的権利を充たす環境条件の形成と基本的サービスの提供は政府が責任を持つということである。この市民的権利の充足が、利潤動機の企業を媒介としてなされると、その内容が市場的な基準によって大きく歪みられ、しかも投下される資源の社会的浪費は不可避に増大してゆく。なぜなら企業にとって税金で支払われる公共事業と同じなり、取り得となり適正な事業内容・規模という感覚がなくなるからである。医療などはその典型である。教育についても小中学校という基礎教育に限って政府は社会的条件を整備すればよかったが、90%以上は高校に進学し、40%は大学に進学する時代となったもで、高校・大学までも任意的需要ではなく基本的要求だと見るとその社会的費用は莫大で、しかもこれらのサービスのかなりの部分が市場的なメカニズムで行われると、教育の付加価値を上げるための競争と価格の上昇は避けられず、その社会的費用は天文学的に増大するのである。所得の教育関係支出比率も上昇する。イワン・イリイッチの「脱学校の社会」(創元社)によると、学校教育は、産業社会の秩序を維持するための手段となり、真の人間的能力の発展を阻害するものとなり、学校制度を通じて作られた社会的差別はこの上もない不幸と分極化を作りだすという。日本の学歴社会、共通1次試験はまさに学校教育を破壊している。イリイッチはさらに価値の制度化を推し進めると必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不安定をもたらすと指摘する。採用者は学歴を聞いてはならないとすべきである。イリイッチは1976年に「医の天罰ー健康の収用」という本で、現在の医学は病気の治療という目的には副次的効果しかなく、医療行為に基づく被害は社会的にも許容できない程度に拡大したと指摘した。近藤誠著「医者に殺されない47の心得」(アスコム)は医療ムラのたくらみを暴いている。ということで社会的共通資本という制度には市場原理主義が紛れ込んでは絶対にダメだということを著者は強調している。「民にできることは民に」という小泉元首相のスローガンは、能力的に民にできないことはないが、民にやらしては絶対だめということもあることを忘れているのである。泥棒に金庫番をさせるようなものである。

(つづく)


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