ブログ 「ごまめの歯軋り」

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死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月19日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第12回

Ⅱ.原民喜著 小説集「夏の花」岩波文庫(1988年6月)(その5)

Ⅰ-3.壊滅の序曲 (その2)

長兄は疎開の荷づくりに余念はなく、家の中はきちんと整理した。長兄の持ち逃げ用のリュックには食料品が詰め込まれ、鼠にやられないよう天井から紐で吊るしてあった。定期乗車券は手に入れ米は事欠かないよう流れ込む手筈であった。妹泰子は病弱な夫を死別し幼児を抱えて長兄の家に移り住んでから、人の気持ちを推測することだけは巧みになり世渡りはうまくなった。30も半ばとなってふてぶてしいものが身についてきたようだ。妹は本家の台所を預かるようになって、長兄の子つまり甥の中学生は妹によくなつき、学徒動員の三菱工場から帰ると棚の中に蒸しパンやドーナツが拵えてあった。妹も甥も太ってきたほどだった。戦況はドイツは無条件降伏をし、日本では本土決戦が叫ばれ、築城・竹槍という時代錯誤な言葉が飛び交った。嘘でもいいから空元気で話さないと世間が許さないようである。なんと愚劣なことが横行する世の中になった。日本の軍人の頭の中はその程度のものであった。そのころ正三は持ち逃げ用の雑嚢を欲しいと思って、生地を求めて長兄順一の家に行ったが、商売のリュックならいくらでもあるがいって取り合ってくれなかった。そこで次兄清二の家に行き小さなカバンにちょうどいい生地を手に入れた。そして妹泰子にカバンの制作を頼んだ。妹は逃げる事ばかり考えてどうするのと皮肉を言う。京浜地方にB29が500機来襲したことを夕刻のラジオが伝えていた。東警察署の2階で市内の工場主を集めて防空対策の訓示が行われたので代理として正三は出かけた。警察官は空襲より流民(避難民 疎開者)の心配をしており、空襲は簡単に防げると講釈する。体格の立派な男だけならいくらでもいた。このような難事にあたって警官の頭の中は空っぽで何も真剣に考えていないのであった。正三は、マリアナ基地を飛び立ったB29の編隊は北上し八丈島のうえで2手に別れ、一つは富士山の方関東ら関東地方に向けて旋回し、他方は熊野灘に沿って紀伊水道から阪神地方へ向かう。さらにその中から数機が室戸岬を超え土佐湾に入り四国山脈を越えると鏡のような瀬戸内海に出る。島々を下に見ながら広島上空に向かって旋回する空想を思っていた。琉球列島の戦いが終わったころ、岡山市に大空襲があり、6月30日夜呉市が延焼した。縫製工場には泰子と正三と甥の三人が住んでいたが、警報の度に庭の防空壕にもぐりこんだ。長兄はもはや踵に火がついている、一刻も早く工場を疎開させると宣告した。工場のミシンの取り外し、荷馬車の申請を県庁に行い、家財の再整理など要件は山積みだった。7月に入って広島の空襲の噂がたった。そのころ正三は1階で寝るようになった。ラジオが土佐沖警戒警報から高知県空襲警報を告げた。正三はゲートルを巻いて雑嚢と水筒を肩に清二の家に急いだ。清二らはすでに逃げた様子で栄橋から饒津公園、牛田の堤まできた。彼にすぐ前に避難中の一群に遭った。しばらくすると空襲警報は解かれ堤の上の人々は引き上げていった。軍と警察は防空要因の疎開を認めず街を死守させようとしたが追い詰められた人々は巧みに逃げた。正三も7月3日から8月5日の晩まで、土佐沖警戒警報がでると身支度をはじめ広島県の警戒警報が出る頃には玄関先で靴を履いた。妹泰子も同じである。空襲警報がうなり出す頃は街の中を清二の家に向かって逃げ出していた。警防団に見つかると怒られるが、小さな甥を楯に遁れた。この戦争が本土決戦に移り、広島が最後の牙城となるなら、自分は戦うことができるだろうかという妄想が渦巻くのである。本家の工場疎開は父として進まなかった。運ぶ荷馬車が獲得できないからだ。それでも荷馬車が畳なども運び出した後のがらんとした景色は、いよいよこの家の最後も近いようだと悟らせた。宇部などには重要工業地帯があるが、広島には兵隊が居るだけで工場も少ないから空襲はないだろうという楽観論もあった。せめて小さい子供たちだけでも疎開させたらと泰子が言うが、清二は乗り気ではなかったが、長兄の順一の骨折りで田舎に一軒借りることができた。しかしすぐに運ぶ荷馬車がない。こうしてしばらくは疎開の準備で家の中はごった返した。それだけでなく家の強制取り壊し地区になったという。ところが市会議員の田崎という者がこの建物疎開(取り壊し)計画の張本人だというので、談判に出かけてこの件を取り下げることにさせた。原子爆弾がこの街を訪れるには、まだ40時間あまりあった。

(つづく)


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