ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月30日 | 書評

筑波山の夜明け

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第12回

第5章 大乱の決着 (その1)

1221年6月12日北條時房・泰時は野路に陣を取り、翌13日時房は瀬田、泰時は宇治へ、毛利季光と三浦義村は淀・芋洗に向けて出陣した。時房が瀬田に着くと、橋の中ほどに山田重忠と比叡山の僧兵3000騎が楯を並べて矢を引いた。鎌倉方の宇都宮頼業は損害の大きな橋上の戦いをせず100mほど上流の岸より京方を側面攻撃した。激戦で矢が尽きるのを恐れた時房はいったん戦闘を中止した。宇治に向かった泰時は岩橋に陣を取った。そこには京方の主力二万騎が待ち受けていた。泰時は翌日合戦をするつもりであったが、三浦泰村と足利義氏は勝手に宇治橋を攻めた。宇治橋に駆け付けた泰時は損害も大きいので平等院に陣をとりいったん戦闘を中止することにした。翌14日宇治川渡河を芝田兼義、春日貞幸に命じ佐々木信綱、中山重継、安東らが従った。承久の乱の最大で最後の合戦が始まろうとしていた。川に入った鎌倉勢に京方は矢を射って攻撃した。増流に飲まれたり著しい損害が出たが泰時は長男時氏に決死隊を組んで敵の中央突破を命令した。これも損害が甚大で96人が負傷したという。尾藤景綱は筏を組んで渡河し泰時、足利義氏は対岸に渡った。こうして形勢は次第に鎌倉方に傾き、京方の将軍源有雅と高倉範茂jは闘わずして戦場を放棄した。一方瀬田においても時房の鎌倉勢が優勢になり京方の大江大江親広、藤原秀康、三浦胤義らは陣を棄てて京都に逃げ帰った。淀・芋洗では毛利と三浦義村が京都方を撃破し、宇治・瀬田・淀の合戦は鎌倉の勝利に帰した。北條泰時は深草に陣を取り、京の使者三善長衡と面会した。明日入京する旨を告げ、西園寺公経の屋敷を警護させるため南条時員を使者に随行させた。6月14日の夜敗残の将兵が続々帰郷したが、院の御所は堅く門を閉ざして敗残の兵を入れなかった。後鳥羽は彼らに、どことなりとも立ち去れと言い放ったという。胤義は後鳥羽の仕打ちにあきれ果て、命を棄てるため東寺に立ち籠った。ここで最後の戦いをしたうえ各自何処ともなく落ちて行った。胤義は15日朝自害した。6月15日北條時房・泰時を始め東海・東山道軍は入京を果たした。勅使の小槻国宗が六条河原で鎌倉方と対面した。院の勅諚は、義時追討宣旨の撤回、都での狼藉禁止、要請に応じで院が判断するという内容であった。三浦義村は宮中守護の命を鎌倉から受けているので、右近将監源頼重を差し遣わした。後鳥羽の言い訳は、この度は謀反を企む謀臣の仕業で、これからは泰時らの申請通りに宣下するという。責任転嫁・責任回避に終始した。鎌倉方の兵は六波羅に収容し、6月20日前後に北陸勢も入京した。残党狩が始まった。疑わしい者の刑は軽くすると発表して世の評判を得た。6月19日藤原秀康以下を追討する宣旨が出され、錦織義継が逮捕され、6月20日には美濃の神地頼経が逮捕され、6月28日には伊予の河野通信追討令がだされ、9月には藤原秀康・秀澄兄弟が南都に隠れているので追討隊が出され10月6日逮捕され六波羅に護送された。六年後の1227年6月院近臣の僧侶二位法印尊長を逮捕した。6月14日和田朝盛も逮捕された。また後藤基綱らは勲功を挙げた武士、討ち取られた武士の「交名」をまとめて鎌倉に送付した。6月13日14日の合戦で鎌倉の討ち取った京方は255人、鎌倉堅の負傷者は132人、宇治川で溺死した人は鎌倉方で96人であった。6月16日に泰時が鎌倉に送った戦傷報告は6月20日に到着した。鎌倉残留組の幕府首脳特に北条義時の喜びは例えようがなかった。しかし北條義時ら幕府首脳には、後鳥羽を始め京方の公卿の処罰、朝廷人事の刷新など厳格迅速に断行しなければならない戦後処理の課題が山積していた。大江広元が平家滅亡後の戦後処理を例にした案をまとめ24日の使者安東光成に託して京に送った。北条義時の指示は、持明院宮を院に定め、茂仁親王を次の天皇に立て、後鳥羽は隠岐に流罪、雅成・頼仁親王は泰時に判断で適当な国に配流、公卿らは鎌倉へ移送せよ、それ以外の身分の低いものは首を斬れ、都での狼藉を禁止し、近衛家、西園寺家とその周辺の人々は警護せよというものであった。この指示が届く前から北條時房・泰時、三浦義村の京駐留組は動いた。6月19日後鳥羽を四辻殿に幽閉、土御門、順徳・雅成親王を御所に戻した。6月20日仲恭天皇を閑院内裏に遷した。6月24日・25日には謀臣の公卿、藤原光親、源有雅、中御門宗行、高倉頼茂、坊門忠信、一条信能、僧長厳・観厳らが六波羅に移され有力後家人預かりとなった。6月29日鎌倉からの使者安東光成が六波羅に入った。指示の内容を実地に移した。7月1日公卿らを断罪するため鎌倉へ護送されることになった。西面の武士として京方に加わった御家人、後藤基清、五条有範、佐々木広綱、大江能範の首を切った。

(つづく)


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