ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 坪内稔典著 「正岡子規ー言葉と生きる」 岩波新書

2011年03月23日 | 書評
言葉に生きた明治の群像 子規評伝 第11回

5)仰臥時代(明治35年まで) (2)

 病気がいよいよ進展してくると、子規は自殺の誘惑に駆られた。「仰臥漫録」には食事拒否、小刀と錐をじっと見つめる子規には鬼気迫るものがある。34年11月6日ロンドンの漱石に宛てた手紙には「僕はモーダメニアンッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ・・・実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。」と書いた。この頃はモルヒネで痛みをこらえていた。明治35年5月から新聞「日本」に「病床六尺」を連載した。これには虚子が口述筆記した。「仰臥漫録」の時以来もう自分では筆も持てないのであった。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。・・・甚だしいときは苦痛に苦しめられて五分も1寸も体の動けないことがある。・・・苦痛、煩悶、号泣、麻酔、僅かに一條の活路を死路に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ・・・」このあたりは想像を絶する。そして一転して話が土佐の水産学校の校長の徳育に飛ぶのである。いかにも子規らしい躍動する話しぶりである。子規は宮沢賢治のように「そういう人に自分はなりたい」と思うのである。35年8月6日の「病床六尺」に「草花の一枝を枕元において、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分ってくるような気がする」という。このころにはモルヒネを飲んでから写生をやるのが、何よりの楽しみとなっていた。そして「草花帖」を残した。漱石は、子規は拙がない男で才ばかりが目立ったが、草花の絵には拙があるという。ただ絵が淋しいと付け加えた。「病床六尺」は死の2日前まで新聞に出た。「9月14日の朝」は虚子が口述筆記したのだが、殆ど病状を感じないまで体力はなくなっていたが、それでも文章をつづりたくて虚子に頼む。「糸瓜の葉がひらひらと動く。秋の涼しさは膚に浸み込むように心地よい。」、「女郎花が咲き、鶏頭は5,6本散らばっている。秋海棠は尚衰えず梢を見せている。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持って静かにこの庭を眺めたことはない」 明治35年9月19日午前1時ごろ、子規はひっそりと息を引き取った。亡くなる前日の18日午前11時ごろ病床に仰向けに寝て痩せた手で色紙を取り、書き付けた三句の俳句がある。これを「正岡子規の絶筆」という。
「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間にあわず」
「おとといのへちまの水も取らざりき」
母のかけた言葉は「さあ、もう一遍痛いというておみ」であった。痛いといえるはずもなく、痛々しい姿のままの子規が横たわっていた。
(つづく)


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