アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記297・映画「かづゑ的」に今に残る差別を見た

2024年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム
  ドキュメント映画「かづゑ的」(熊谷博子監督)が12日京都で封切られた。初日に観た。
 熊谷監督のラジオインタビュー(「ラジオ深夜便」)などである程度の予備知識があったが、宮崎かづゑさん(おそらく現在96歳)の凛とした生きざまが胸を打った。期待にたがわなかった。

 かづゑさんは10歳で瀬戸内海にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園に入園し、現在に至る。社会からはもちろん、家族からも、園内でも、差別を受け続けた。熊谷監督は8年間、かづゑさんに密着して(寄り添って)撮影した。

「みんな受けとめて、逃げなかった」

 かづゑさんのこの言葉に、人として、ハンセン病サバイバーとしての自尊と決意が集約されている気がした。
 78歳でパソコンを覚え、84歳で自伝『長い道』を著した。

「できるんよ、やろうと思えば」それがかづゑさんの口ぐせだ。

「この映画は、ハンセン病が背景にあるが、それだけではなく、人が生き抜くためには何が大事なのか、普遍的なことを描いたつもりだ」

 熊谷監督はこう語っている(日本ジャーナリスト会議機関紙「ジャーナリスト」2月25日号)。その意図は間違いなく観る者に伝わるだろう。

 だが、かづゑさんのたくましい生き方に魅了されるほど、その裏にある差別が痛々しい。

 久しぶりに訪れた故郷で墓参りしたかづゑさんは、墓石にしがみつき、「おかあちゃん」と呼び泣き続け、しばらく離れなかった。

 90歳代にしてはかづゑさんの顔はつややかだ。それが第一印象だが、「顔にシワがないのは病気(ハンセン病)のせい」だという。皮膚が引っ張られる。下まぶたが目を覆う。それを絆創膏で防いでいる。

 慰問にきた人たちなどが唱歌「ふるさと」を歌うことが少なくないという。だが「この歌だけはやめてほしい」とかづゑさんは言う。故郷をしのんで良かれと思って歌われる「ふるさと」は、10歳でひとり家を離れなければならなかった(国家の誤った隔離政策のため)かづゑさんにとっては、辛い歌なのだ。

 顔のシワも、「ふるさと」も、言われて初めて気付く。言われなければその苦しみに思いは及ばない。“見えない差別”を教えられた。

 かづゑさんの人生を支えたのは、園で知り合い結婚した2歳年上の孝行さんの存在だ。二人の掛け合いは時にユーモラスで、映画の救いにもなっている。
 それだけに孝行さんに先立たれた(2020年7月)時のかづゑさんの落胆は大きかった。

 孝行さんの骨壺を抱えて「すぐ行くからね」と語り掛けるかづゑさん。園の入所者は故郷の墓ではなく、全員、園内の納骨堂におさめられることになっている。せめて孝行さんの隣で眠りたい。それがかづゑさんの願いだ。だが、それは叶わない。骨壺は死亡した順番に並べられることになっている。

 なぜそういう「きまり」になっているのか、映画では説明はなかった。しかし、どう考えてもおかしい。一律に園内の納骨堂におさめられる(埋葬の自由がない)のも不可解だが、骨壺を並べるとしても死亡順にしなければならない理由がどこにあるのだろう。せめて夫婦で隣同士に並べて欲しいというささやかな希望がどうして叶えられないのだろう。

 がんじがらめの規則に、今に残る差別を見る思いだ。
 かづゑさんを孝行さんの隣で眠らせてあげたい。

 1つ、印象的な場面を付記する。

 かづゑさんは若いころ(確か17歳)、園の交流雑誌の巻頭に文章を寄稿し、貞明皇后(裕仁の母)の短歌を賛美した。軍国主義の真っ只中であり、ハンセン病療養所と天皇制は密接な関係にある(2018年5月22日のブログ参照)。

 そのかづゑさんが「平成」から「令和」の改元で世の中(メディア)が大騒ぎしているとき、「そんなものに興味(関心だったか?)ない」と一蹴した。

 この変化は、時代の違いだけではないと思う。
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