アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

能登と台湾・原発立地止めた市民の力

2024年04月10日 | 原発・放射能と政治・社会
   

 能登地震の被災地は今なお多くの問題をかかえていますが、唯一の救いは福島と違って原発事故がなかったことです。
 この背景には、関西電力、中部電力、北陸電力3社が珠洲市に建設を計画していた原発を、市民の力で阻止した歴史があります(1976年1月・電力3社による構想発表→2003年12月・計画「凍結」)。

 反対運動の先頭に立ってきた北野進氏(志賀原発を廃炉に!訴訟原告団、元石川県議)はこう語っています。

「マグニチュード7.6、最大震度7という今回の大地震の震央は、かつての珠洲原発の予定地・高屋のすぐ近く、関西電力が立地可能性調査を計画していたエリアの裏山です。…隆起したのは海域だけではありません。原発が建設されたであろう陸域にまで及んでいることは間違いありません。…もし原発が立地されていれば、重大事故でも避難すらできず、福島以上に悲惨な原発震災となっていたかもしれません」(「ノーニュークス・アジア・フォーラム通信」4月7日号=写真左。※ノーニュークス・アジア・フォーラムは1992年結成されたアジアの人々と共闘する反原発ネットワーク)

 そして能登地震から3カ月後に起こった台湾地震(4月3日)。台湾にも市民が原発を止めた貴重な経験があります。

 台湾では長い戒厳令期間中(1949~87年)に、第1、第2、第3原発計6基が造られました。「原発は独裁と不正義の象徴」(ノーニュークス・アジア・フォーラムの佐藤大介氏、4日付京都新聞夕刊)だったのです。

 戒厳令が解除され(87年)、反原発の市民運動が広がりました。そして第4原発(1999年着工、2014年ほぼ完成)を、20万人規模(人口の約1%)のデモ(2013年3月)、非暴力直接行動の「ひまわり運動」(2014年)などによって「凍結」させたのです(2014年)。2021年12月の国民投票(写真中)でも第4原発の稼働を認めませんでした。

 この運動の過程で、蔡英文総統は2017年、「原発の運転を2025年5月に全て終了する」という「脱原発」を決定しました。台湾は来年、アジアで初めて「原発ゼロ」を達成することになります。

 日本人として忘れてならないのは、台湾第4原発の原子炉は日立と東芝製、タービンは三菱製だということです。日立の原子炉は2003年に呉港から、東芝の原子炉は04年に横浜港から輸出されました。、
 しかも、第4原発が建てられた地は、かつて帝国日本軍が台湾を植民地支配するために上陸した海岸の近く、「抗日記念碑」が建てられている海浜公園の隣です。

「かつて日本軍が植民地支配を開始するために現れたのと同じ場所に、今度は日本の原子炉が現れたのだ。台湾の人々がこれを「第二の侵略」と表現する重みと痛みを、日本の人々が十分に受け止めていたとは言い難い」(「ノーニュークス・アジア・フォーラム通信」2022年2月20日号、写真右は1997年の海上抗議行動=同通信より)

 北野進さんは前掲の投稿をこう締めくくっています。

「原発に内在する莫大なリスク、リスクを回避できない地震学の限界、そして原子力規制委員会の限界を直視すれば、国内すべての原発の再稼働はありえません。再稼働した原発の運転継続もありえません。…アジアの脱原発の潮流を確実なものにできるよう、全国の仲間、アジアの仲間と一緒に頑張りたいと思います」

 日本が原子炉を輸出して「第二の侵略」を行っているのは台湾だけではありません。その加害責任を自覚し、原発の輸出を止めさせ、台湾に学び、日本の脱原発を実現しなければなりません。
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