NHK朝ドラ「らんまん」が終了しました。植物学者・牧野富太郎がモデルですが、長田育恵氏のオリジナルシナリオです。
元龍谷大教授の土屋和三氏(植物生態学)はドラマにちなんで牧野の業績を紹介した論稿の中でこう述べていました。
「「らんまん」は大変面白いが、史実と異なるところもあり驚くことが多い」(8日付京都新聞夕刊)
オリジナルなシナリオですから「史実と異なるところ」があるのは当然ですが、どこが史実でどこがフィクションなのか、私のような一般視聴者には分かりません(たとえば、夫妻を助ける人物として三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟が登場しましたが、史実なのかたいへん気になりました)。
濱口竜介監督の「悪は存在しない」が銀獅子賞を受賞して話題になった先のベネチア国際映画祭。取材した朝日新聞の石飛徳樹編集委員は、「事実の力とフィクションの力について考えさせられた」として、こう書いています。
「米国に限らず(出品された米映画5作品中4作品が実在の人物を主人公にした伝記もの)、今、実話の映画化が非常に目立つ。もちろん面白い作品も限りなくあるけれど、総体としてみると、映画の魅力を減じているように思えてならない」(11日付朝日新聞デジタル)
「事実の力とフィクションの力」。それを考えさせられたのが映画「福田村事件」(森達也監督)です(9月4日のブログ参照)。
言うまでもなく関東大震災時(1923年9月)の虐殺という史実を基にした映画ですが、フィクションの部分が少なくありません。朝鮮から帰郷した元教師(井浦新)、その妻(田中麗奈)、地元紙の記者(木竜麻生)ら重要な登場人物は軒並み創作です。
森達也氏はこれまでドキュメンタリーを手がけており、劇映画の監督は今回が初めてです。新聞のインタビューにこう答えていました。
「ドキュメンタリーを「客観的な事実の集積」と定義する人は少なくない。でもそれは的外れだ。…ここ(ドキュメンタリー)に提示されているのは、ディレクターや監督の世界観や問題意識だ。それはドラマと変わらない」「(福田村事件は)材料が少なすぎてドキュメンタリーは無理だけど、劇映画ならば実現できる」(8月30日付琉球新報=共同)
映画「福田村事件」を見た辻田真佐憲氏(近現代史研究者)は、「(森氏によって)現在に引き付けすぎと思うところもないではない」としながら、こう述べています。
「まったくの物語化を抜きにして、われわれが歴史を継承していくことは困難だ。史実をベースにしながらも、やはり物語化は断念してはならないのではないか。「福田村事件」はそんなことを考えさせられる映画だった」(1日付朝日新聞デジタル)
NHK大河ドラマのように歴史上の人物をモデルにしながら、娯楽に徹しているドラマはフィクションとして気楽に見ることができます。しかし、「福田村事件」はそうはいきません。
森氏が「娯楽作品として見てほしい」と述べていたことに違和感があると先のブログで書きましたが、主要な登場人物が創作されていることにもやはり違和感を禁じ得ません。
重要な社会的・歴史的事件の映像化において、史実と創作の混在は危険だと考えます。
この問題はもちろん今に始まったことではありません。それが今とりわけ気になるのは、昨今のフェイクニュース、AI、そしてウクライナ戦争における情報戦の問題があるからです。
どうすればいいのか?「正解」は分かりませんが、少なくとも、フィクションとノンフィクションの違いを意識し、事実(史実)を探求する努力をする必要があるのではないでしょうか。