アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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「オウム7人同時執行」であらためて「死刑制度」を問い直す

2018年07月23日 | 事件と政治・社会・メディア

  

 西日本豪雨災害と重なったことで、それでなくても忘れっぽい日本社会からすでに忘れ去られたようなオウム幹部の「7人同時死刑執行」。あらためて「死刑制度」を問い直す必要があります。

 今回のことで死刑制度とそれを許している「日本人」を痛烈に批判したのは作家の辺見庸氏でした。

  「この国は尋常なのだろうか。人間の『生体』を、法の名のもとに、強いて『死体』化させるのが、なにゆえゆるされるのだろうか。7人の生体を一気に死体化した日の夜に、家族でディナーを楽しみ、美しい詩を語り、お笑い番組でゲラゲラ笑うことに、ひととして気が差さないものか。死刑制度を廃止した国ないし死刑の執行を凍結した諸国が100カ国をこえるのに、なぜ日本は死刑を手放さないのか。…
 日本はみょうに晴れやかに危うい一線をこえたのだ。わたしたちの内面はいま、ますます収縮の度をくわえてはいないだろうか」(7月19日付琉球新報)

  死刑の残虐性、それに無頓着な「日本人」の思想性への根源的な批判です。

  世界で死刑制度を廃止したか執行をやめた国は140カ国といわれます(2016年現在。「アムネスティ・ニュースレター」2016年5・6月号)。欧州は全ての国がそうです。

  例えばフランスでは1980年代、「廃止反対」の世論が多数の中、ミッテラン大統領が強力なリーダーシップで廃止しました。「人権が大事にされる国で暮らす。無実の人が自分たち(「国家」―引用者)の名の下に殺されることがない。それがどんなに素晴らしいことか、市民はきっとわかってくれると信じて。実際、その通りになりました。死刑廃止後、世論は180度ひっくりかえりました」(同上「アムネスティ・ニュースレター」)

  死刑制度の存廃はまさに「人権が大事にされる国」かどうかの試金石と言えるでしょう。

  そう確信する一方、注目されたのは里見繁・関西大教授(元テレビディレクター)の論考です。

  「7人のうち6人は、再審請求中での死刑執行だった…平成が終わる前に決着をつける、という国家の強固な決意をひしひしと感じる」と指摘する里見氏は、これまで元死刑囚らに直接会ってきた経験からも、「死刑という制度に恐怖を感じた」としながら、「それでも私は、制度廃止の立場に立っていない」と言います。なぜか。

  「今回、死刑執行を受け、『一区切り付いた』とか『ほっとした』と語った遺族や被害者がいる。その気持ちを想像するにつけ、死刑という制度には、被害を受けた側の心情を落ち着かせる、一定の力があることを認めざるを得ない。それが制度を維持する唯一の意味だと、私は考える。
 そのことは、こんな究極の問いにも通じる。もし自分の家族が殺されても、報復の感情を乗り越えて『犯人の処刑は望まない』と言い切れるだろうか?」(7月13日付中国新聞)

  おそらくこれは、「頭」では死刑制度を否定しながら「心」がその立場に立ち切れない人の代表的な意見ではないでしょうか。これに反論することはたやすくありません。なぜなら、里見氏の「究極の問い」にきっぱり「望まない」と言い切れるかどうか、自分でもわからないからです。

  しかし、そう言い切った被害者の遺族はいます。

 1997年3月、最愛の長女・彩花(あやか)さん(当時10歳)を「神戸少年事件」で亡くした山下京子さんは、事件の約8カ月後にこう記しています。 

 「加害者を憎むのは当たり前の気持ちです。でも、人を憎むだけではこちらが前へ進めなくなり、疲れ果ててしまうはずです。さりとて、『運命だからあきらめよう』というあきらめの思想でも、私たちは悲しみの現場に置き去りにされてしまいます。生きる勇気を奪われてしまいます。
 憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進むしかないのです。新しい生き方を切り開いて、すべてを『価値』に変えていくしかないのです。…
 人と人を分断し、人間を卑小なものにおとしめ、心を閉ざさせていく思想に、そろそろ私たちは終止符を打たないといけません。人と人を結び合い、人間への尊厳を勝ち取り、人々の心を大きく開かせていく思想をつくり出さないといけません」(『彩花へ 「生きる力」をありがとう』河出文庫)

  さらに7年後、加害者が成人に達したとき、山下さんは新聞に次のような「手記」を寄せました。

 「彩花の死を無駄にしないためにも、生きて絶望的な場所から蘇生してほしい。彩花への謝罪とは、私たちが生涯背負っていかなければならない重い荷物の片側を持ちながら、自分の罪と向き合い、悪戦苦闘している私たちの痛みを共有することしかありません。
 どうすれば痛みを共有できるのか…だからこそ、彼の中の『善』を引き出せる人たちと出会ってほしいです」(2004年12月15日付朝日新聞夕刊)

  死刑制度は、国家が加害者という歴史の生き証人を抹殺することです。それによって国家は、事件から学び記録されるべき教訓を闇に葬ることができます。
 それは国家権力にとっては好都合(死刑制度温存の理由)でしょうが、私たちは事件(歴史的出来事)から何も学ばないまま同じ生活を続けることになります。
 それは私たちが「人と人を結び合い、人間への尊厳を勝ち取り」、新たな社会をつくるための思想を形成することを妨げることになる。山下さんの言葉を今あらためて振り返って、そう思います。


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