アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

“知られざる革命家”が遺したもの

2014年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 昨年末行われたシンポジウムでぜひ書き残しておきたいものがあります。「『島ぐるみ闘争』はどう準備されたか」と題したシンポ(1223日、タイムスホール)で、同名の書籍(写真左)の出版を記念したもの。編者の森宣雄(聖トマス大)、鳥山淳(沖縄国際大)両氏や、ジャーナリストの新川明氏、油井晶子氏らが発言、挨拶が新崎盛暉氏というそうそうたる顔ぶれでした。

 この場で私は、国場幸太郎という名前を初めて知りました(建設会社國場組の創業者とは同姓同名の別人)。同著によると、国場幸太郎は1927年那覇市生まれ。東大経済学部在学中、沖縄の日本復帰運動に取り組む。一時帰省中に沖縄人民党の瀬長亀次郎書記長に出会い、帰京後、日本共産党に入党。53年に卒業し沖縄に帰郷、人民党に入党して中央委員となり、地下組織の日本共産党沖縄県委員会の実務責任者となる。

54年の人民党弾圧事件で瀬長書記長が投獄され、人民党が機能停止になるなか、米軍の武力土地接収に対する農民の抵抗運動を支える支援体制と、革新勢力の超党派の連携を隠密活動によってつくりあげ、米軍に知られることなく56年の「島ぐるみの土地闘争」を準備した。59年に人民党から「追放」され、東京に転居。文筆活動を経て晩年は宮崎で高校教師を務め、2008年都城市で死去。享年81

シンポは国場幸太郎の思想、功績に光を当て、いわば政治的復権を図ろうとするもののようでした。路線上の対立によって人民党から「追放」されたという説には、米軍による拷問で精神的な病に侵されたためだという反論があります(写真右は1955年米陸軍諜報活動部隊CICに拉致された時の国場氏)。不屈館には、幸太郎の父親が瀬長亀次郎に息子の治療を依頼した信書が公開されています。

 国場幸太郎が人民党を去った真相は、私には分かりません。ただ言えるのは、沖縄の戦後史においてこれほど重要な役割を果たした人物があまりにも知られていないということです(私の勉強不足もありますが)。そして、資料として添付された2つの代表的論文、「沖縄とアメリカ帝国主義」(『経済評論』1962年1月)と「沖縄の日本復帰運動と革新政党―民族意識形成の問題に寄せて―」(『思想』1962年2月)はいずれも今日に通じる力作であり、あらためて学ぶべきところが多いということです。

 例えば、後者の中の「日本復帰運動をはじめとする大衆運動は『民族主義』的な意識だけでは進められなくなり、大衆運動を発展させるためには、労働者、農民の階級的連帯に基礎をおく社会変革の意識が、世界平和の問題とも関連してインターナショナルな視野からあらたに要求されるようになっている。それをどう解決していくか、沖縄の革新政党はこの課題に当面している」という指摘は今も光を放っているでしょう。

 沖縄の人民運動の根の深さ、強さ、そして複雑さを再認識しました。同時に、国場幸太郎が取り組んだ沖縄の経済、政党、運動理論の分析は、この半世紀の間、どれだけ進んだのだろうかという疑問も残りました。

<今日の注目記事>(6日付琉球新報、沖縄タ
イムスともに3面)

☆<連載「どこへ 安倍政権と私たち 2 想田和弘(映画監督)=43歳
  憲法武器に抵抗を 民主主義捨てさせない>

「僕たち、民主主義の継続を望む側にとって、すごく不利な状況にある。なぜなら民主主義を捨てたがっている人たちが権力を握っているから。その厳しい認識からまず出発しないといけません。…戦後ほぼ一貫して日本を統治してきた老舗の政党が『民主主義をやめましょう』という改憲案を出してきたにもかかわらず、日本社会はほとんど騒がず、検証もせず、二度の選挙で大量の議席を与えてしまった。…だけどラッキーなことに、今はまだ日本国憲法が生きている。秘密法で誰かが摘発された時に違憲訴訟を起こすとか、憲法を『武器』に抵抗できる。一人一人があらがっていくしかありません。秘密保護法が強引な形で成立したことを忘れず、蒸し返し続けることも大切です。/民主主義という町にごみがたくさん落ちています。一人で拾うのは無理ですが、みんなが拾えば結構きれいになるんじゃないかと思うんです。面倒だと思うことをあえてやってみませんか」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする