ベキラノフチニ ナミサワギ フザンノ クモハミダレトブ
コンダクノヨニ ワレタテバ ギフンニ モエテチシオワク
ショウワイシンノ ハルノソラ セイギニムスブマスラオガ
キョウリヒャクマン ヘイタリテ チルヤバンダノ サクラバナ
獄舎で歌うことなど許されるはずはなかった。
だが、この晩、
小声で歌う 「昭和維新の歌」 を 制止する看守はいなかった。
処刑の叫び
七月十二日、処刑の朝
香田清貞大尉が声を掛けた。
六時半をまわったころだった。
香田は彼らのなかで年長者の一人である。
皆、聞いてくれ。
殺されたら、その血だらけのまま 陛下の元へ集まり、
それから行く先を決めようじゃないか
それを聞いた全員が、
そうしよう、と 声を合わせた。
そこで
香田の発生で皆が、
「 天皇陛下萬歳、大日本帝國萬歳 」
と 全監房を揺らすらんばかにり叫び、
刑場へ出発していった。
齋藤の房にも天皇陛下万歳の声は届いた。
午前七時、齋藤の隣りの棟がにぎやかになると、
その雑音の中からはっきりと
「 おじさーん 」
と 呼ぶ声を齋藤は聞いた。
間違いない、クリコの声だと分って齋藤は声を限りに
「 クリハラッ 」
と 叫び返した。
所長からどんな罰を受けようと知らぬ、
と 決めて齋藤が叫んだ声は確かに栗原に届いた。
それから物音も聞こえぬ静寂が二十分ほど過ぎたと思ったとき、
最初の銃声が一発響いた。
銃殺刑の執行は次の順序である。
村中孝次 と 磯部淺一 の二名は
眞崎大將や西田税、北一輝関連審理のため翌年八月に処刑される。
第一回 午前七時
香田清貞、安藤輝三、竹嶌繼夫、對馬勝雄、栗原安秀
第二回 午前七時五十四分
丹生誠忠、中島莞爾、坂井直、中島基明、田中勝
第三回 午前八時三十分
安田優、高橋太郎、林八郎、澁川善助、水上源一
靑年將校たちは六時四十分、出房し、所長から訓話を受けた。
その後 五人ずつに分かれて刑場手前まで進み、
目隠しをされ、刑場に連行された。
刑場は刑務所の一隅に五本の壕を掘り下げ、各人の両側には土嚢を積上げてある。
その後方にはレンガ塀があり、
壕から十メートルの位置に土嚢を積んで小銃二梃が固定されていた。
五人は横一列の壕内の刑架座に着かされた。
次いで護送班の看守が二名ずつ付き添い、十字架に縛り、さらに腕を二カ所縛った。
小銃の一挺は前頭部に、もう一挺は心臓部に照準を合わせてあり、
万一、前頭部で即死しない場合には第二弾で心臓部射撃を行うとされていた。
第一射撃は将校、副射手は下士である。
被告は射手から顔が分からないようにするために、
顔面から腹まで届く白布で覆われ、眉間には照準点を示す黒点が印されていた。
処刑される者は、
縛られてから全員が最後の言葉として
「 天皇陛下萬歳 」
を叫んだ。
だが、ただ一人だけが
「 天皇陛下萬歳、秩父宮殿下萬歳 」
と、叫んだ。
・・・・・
「 小学校の下級生、坂井直中尉も遊びに参りました。
彼の父も三重県出身の陸軍少將。
彼の上官は部下の信頼の厚かった安藤輝三大尉で秩父宮の信頼も厚かった人でございました。
刑死の時
天皇陛下萬歳につづいて、秩父宮萬歳を叫んで逝った人でございます。
坂井はのちに宮との連絡役になりましたが・・・・」
・
栗原だけはさらにもうひと言叫んだのだと齋藤は聞いている。
「 栗原死すとも、維新は死せず 」
そして、
栗原は最初の一発では遂に絶命しなかった。
続いて二発目が発射され、立派な最期だった
と 後に看守から齋藤に話があった。
その栗原の遺骸受領後の様子について
栗原の父 勇が書き残したものがある。
「当日親類縁者二十数名と共に、
午前十一時半、代々木練兵場の一角陸軍刑務所に参り、
先ず両親及嫁の三名は刑務所長、塚本定吉氏の懇論を受け、
午後零時二十分頃、衆と共に裏門より死体の安置所に入り、
棺蓋を開いて一同告別を行ひました。
・・・
眉間に悲惨なる一点の弾痕
眼を開き、歯を食い縛りたる無念の形相、
肉親縁者として誰れかは泣かざる者がありませう
一度に悲鳴の声が起こりました
この様な悲劇の場面は恐らく
一五人の遺族に次々と繰り返されたことでありませう
妻の玉枝が荼毘に付された栗原の遺骨を抱いて帰宅したのは、
午後四時のことであった。
栗原はせめてもの分身にと送られてきた玉枝の写真を涙で濡らした。
そして彼は、その写真を獄衣の奥に隠し持ったまま刑場へ立ったのだった。
軍医が絶命の確認をすると、栗原の上衣から鮮血に染まった 玉枝の写真が落ちた
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額の真中に弾丸をうけたる おもかげの
立居に憑きて夏のおどろや
七月十二日、処刑帰土。
わが友らが父と、わが父とは旧友なり。
わが友らと我とも幼時より共のあそび学び、廿年の友情最後まで変わらざりき。
濁流だ濁流だと叫び 流れゆく末は
泥土か夜明けか知らぬ
二月廿六日、事あり。
友等、父、その事に関る。
暴力のかくうつくしき世に住みて
ひねもすうたふわが子守うた
斎藤瀏 史
リンク→ 斉藤史の二・二六事件 1 「 ねこまた 」
五月廿日、章子生る。
同廿九日、
父叛乱幇助の故を持って
衛戍刑務所に拘置せらる。
昭和維新の朝 工藤美代子 著から
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「当日 親族者二十数名と共に
午前十一時半 代々木練兵場の一角 陸軍刑務所に参り、
まず 両親および嫁の三名は刑務所長塚本定吉氏の懇諭を受け、
午後零時二十分頃 衆と共に裏門より死体安置所に入り、
棺蓋を開いて一同告別を行いました。
前日には元気潑刺たりし彼、今や全く見る影もなし。
眉間に凄惨なる一点の弾痕 眼を開き歯を食い縛りたる無念の形相。
肉親縁者として誰かは泣かざる者がありましょう。
一度に悲鳴の声が起こりました。
如山(勇) はこのとき声を励まして死体に向い、
安秀 国家のためを思い、よく死んでくれた。父は満足している。
国家と一家のことに関しては、何も心配を残さず、安心して成仏せよ。」
また 同行の人たちに対しては
「皆さん、昨日までは笑って下さいと申しましたが、今日は思う存分泣いて下さい」
と。
・・・齋藤瀏 著 「二・二六」 から